

槙本「私の幸せですか
」


透明「はい
」

槙本「しかし、それはここでは関係ないのでは
」

透明「槙本さん
幸せを感じたり、幸せを知らない

人が、どうやって幸せを説くことができるのかな
」

槙本「あっ
」

透明「人の幸せを考える事と言うのは、まず指針となる
自分自身の幸せを知り、その幸せと照らし合わせて
自分自身の幸せを知り、その幸せと照らし合わせて
判断することから始めなければ、幸せの定義というのは、
作り出すことができないものです

もちろん、槙本さんの幸せは、多くの他者とは違うもの
かもしれないけど、先ずは指針を作らなくちゃね
」

槙本「確かにそうかもしれませんが・・・・。
私の幸せは、断定的な結果に伴う事ぐらいしか無く、
一般の人とは違う解釈になってしまうのでは
ないでしょうか

私を指針とする考えは、偏りを起こす恐れがある
気がするのですが
」

これは、星空先生も手を焼くわけだ・・・

透明「クスッ
確かにそうですね


では、今の時点で、槙本さんの考える幸せの定義って
どういったものなのでしょう
」

槙本「私の考える幸せの定義は、思考に合わせた高揚感だと
認識しています

人は、思考と高揚が合わさった時、幸せを感じ、
その幸せをもう一度体現しようと考えるもの

もし、幸せというものが固定的な概念となれば、
一度、幸せを掴んだものは、「未来永劫幸せ」
という確定的な結果が生じてしまいます

しかし、人はその幸せをいつまでも持続はできません

そこには、人が自己を満足させる為の思考と、
成功を導き出したという高揚感が合致した際にだけ
訪れる至高の時間があるのだと私は想っております
」
成功を導き出したという高揚感が合致した際にだけ
訪れる至高の時間があるのだと私は想っております

透明「ほうほう
なるほど~


確かに、自分が幸せになる為に必要なことを考え、
実行し、成功としてそれが成れば、高揚感が生まれ、
幸せを体感できるというのは、その通りだと思うけど、
もし、その人が自分の幸せを別の場所に持っていたと
したら、どうかな
」

槙本「えっ
」

透明「例えば、Aさんが幸せを手に入れる為に、思考して
行動し、結果としてそれが成ったとしますよね

でも、Aさんは、そのこと自体では幸せを感じない

それは、Aさんにとって、その結果で自分の大切な者が
喜んでくれると想定し、その相手の反応が自分の幸せに
直結していると感じていたからなんです

でも、結果的には、Aさんが予測で相手が喜んでくれると
想っていた為、結果、時間が割かれてしまい、会う時間を失い
その相手との距離が遠くなってしまった・・・

私の所に来てくれる相談者さんの中には、そういった
経験をもっている人も多いので、参考になるかと思う
のだけど、思考に合わせた高揚感だけでは、人間の価値観は
はかることはできない気もしないかな
」

槙本「・・・・確かに、破綻していますね

もちろん、そのシチュエーションでも、相手が成功を
喜んでくれたとしたら、高揚感を得られ、幸せを感じられる
とは思うのですが、シチュエーションが変わっても、
定義の範囲に入らなければ、幸せを論ずることはできない
のかもしれませんね・・・。」
透明「クスクス
確かに、この場合でも、お相手次第で、

高揚感を得られるから幸せを感じることには繋がるよね

でも、もう少し根本的なことを言っても良いかな
」

槙本「
」

透明「そもそも、その考えの中に、確定した自分の幸せはあるのかな
」

槙本「
」

透明「幸せというのは、人それぞれ感じ方も考え方も違うもの

その中で自分の幸せを本当の意味で知っている人って
どれだけいるのかな

自分が幸せになるために頑張って、結果を出したとしても、
その結果が自分の想定とは違ったものであれば、人は幸せ
どころか、虚しさや不幸を感じる人だっている
その結果が自分の想定とは違ったものであれば、人は幸せ
どころか、虚しさや不幸を感じる人だっている

結果が直接的に高揚感に繋がることは、不変的ということ
になるよね

そういった多面性のある感覚に定義をつけるとするなら、
もっと小さな幸せから探さないと答えは出ないのでは
ないかな
」

槙本「あっ・・・・・
」

透明「ということで

槙本さんの幸せってなあに
」

続く ・・・・。







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