「無題」 (十)―⑤

2012-07-13 09:10:52 | 小説「無題」 (六) ― (十)



           「無題」

             
            (十)―⑤


 帰る日になって、美咲が「帰らない」と言い出した。

「なっ、何で?」

「Cカードを取りたいから」

Cカードとは、スキューバダイビングの団体が発行する認定証のこ

とで、それがないと自由に潜ることが許可されないらしい。それを

得るには、多少の講習と実技の習得のために何度か通わなければな

らなかった。もともと美咲は、子どもの頃からスイミングスクール

に通っていたので泳ぐことは得意だっが、両親の離婚があって止め

ざるを得なかった。そして、きのうの体験ダイビングで「絵にも描

ぬ美しさ」に魅了されてしまった。宿に戻って来るや、「もう絶対

スクーバダイビングやる」と、夕飯の時にもその感動を熱く語って

いた。そこで、どうしてもCカードを取って、カメに連れられて海

底にあるという「竜宮城」を見てみたいと思うようになったのだろ

う。私は、

「そんなこと言っても、泊まるとこがないだろ?」

実際、すでにシーズンに入っていて「アンダーツリー」にしたって

ずーっと予約で詰まっていた。

「だから、お父さん、何とかして、お願い!」

「ええーっ!」

それを聞いていた妻が、

「美咲!もういい加減にしなさい」

「ちょっと、ママは黙ってて!」

すると妻は、

「バカッ!自傷歴のある女が独りで泊めてくれるとこがあるとでも

思ってんの?」

私は、

「弘子、それはちょっと言いすぎだよ」

「いいのよ、これくらい。何も知らないくせに、一度言い出したら

ほんとに言うことを聞かないんだから」

すると、美咲はワンワン泣き出した。

「ごめん、美咲、お父さんも今日の宿泊をこれから探しても見つけ

られないかもしれん」

さらに、弘子は、

「もうすぐ編入試験があるんでしょ、それどころじゃないじゃない。

いったいどうするつもり?」

美咲は母には食ってかかり、

「もう、学校はやめたっていい」

すると、

「何を言ってるの!自分で決めたんじゃなかったの?何でいつもそ

うやって途中で投げ出すの?」

「・・・」

美咲は話せないほど泣いていた。私は彼女の肩を抱いて、

「美咲、何も今すぐ取らなくても、学校が決まってからでもいいじ

ゃないか」「その時はお父さんも協力するからさ」

美咲は二度ほど肯いて感情を落ち着かせた。妻が言うには、彼女は

一度言い出したら絶対に自分の主張を曲げないが、相手が引き下が

ると途端に同じ人間とは思えないほど穏やかになる。本人はまった

く気付いていないが、そこに彼女の人格障害が見て取れると、これ

まで間近で見てきた母親の、それは母親としてはほんとに辛いわが

子に対する診断だった。そして、きっと、また好きな男ができたん

だ、と言った。もちろん、好きな男とは木下さんの息子のことだ。

こうして、何かに依存していないと自分が虚しくなって、好きな男

を替える度に自分が新しく生まれ変わったような気になっている。

しかし、それは男に依存した自己でしかなく、自分自身を失ってい

るからだ。だから、その自分勝手な執着が疎まれたと思った時の感

情の激しさは異常で、相手は散々振り回された揚句に疲れ果てて離

れていくのが目に見えている、と妻は振り返った。だからと言って、

その相手に、「娘にはすこし精神障害があります」と忠告するわけ

にも、彼女のためにもできなかった。私と妻は、美咲の恋愛が再び

彼女はもちろん、相手の男までも苦しませることにならないか気が

気でならなかった。そして、また・・・。

 それまで、退屈そうにベットの上で転がって遊んでいた己然は、

「もうすんだ?」

と訊いた。

                                 (つづく)