(五)
遅いブランチ(?)を済ませて街を歩いた。平日とは云っても下
町の駅前通りには大勢の人が行き交っていた。自転車に子供を乗
せて買い物から帰る主婦や、これから買い物に行く人などを避け
ながらあてもなく歩いているとまた元の駅前へ出た。そして駅前
の広場ではひとりのストリートミュージシャンが空のギターケー
スを前に置いて、何時終るともわからないギターのチューニング
をしながら行き交う人々を窺いながら、自分のパフォーマンスに
好意的な人が来るのを待っているのだろうか。足を止める人がい
れば何時でも演奏を始めようとしているが誰も興味を示さないの
で始まらない、また始まらないので誰もが無関心に通り過ぎる。
いつの間にか人々は彼の前を避けて通る様になりそこだけ異質の
静けさが漂い始めていた。もしかすると彼は曲を始めるつもりを
失くしたのではないかと思えるほどひたすらギターの調整をして
いた。ただ、もし地震でも起これば誰よりも彼がいちばん早くこ
の場を逃げ出すに違いなかった。私は彼の歌に興味があった訳で
はないが、時間潰しにと思ってオープニングを今か今かと待って
いた。が、しかし何時まで経っても始まらないからその場を離れ
なくなっていた。このままだと彼は地震が来るまできっと何もせ
ずに終わるに違いないと諦めた時、彼は私の方にすがるような視
線を向けた。私は一瞬驚いたが立場の気楽さから彼を余裕で見つ
め返した。すると彼は困惑を悟られまいと弱々しく俯いたがその
心情が伝わってきたので、私はその男の前に行って座ってやった
。今度は彼が驚いて顔を上げたが、意を決したのかピックを取っ
て勢いよく弾き始めた。
「STAND BY ME」だった。私は可笑しくなったが、彼
は歌うことに必死だった。しがれた声でゆっくりとコードを確か
めながら彼は歌い終わった。ひとつの障害を乗り越えた後は手綱
を放された馬の様に続けさまに歌った。二三曲知らないものがあ
ったが、七十年代のフォークソングだと思われる耳にした事のあ
る曲はスローなアレンジでけっこう上手かった。気が付くと私の
後ろには十人ばかりの中年のオヤジが遠巻きにしながら聞くとも
なく足を止めて立っていて、今度はその一画が人集りになってい
た。おそらく彼らの青春の歌に違いないのだろう。終わりの合図
か、彼が大きく右手を振り下ろして弦を擦って、音の流れを遮る
と辺りは一瞬静まり返った後、幾人かのオヤジからパラパラと拍
手が起きた。私もつられて手を叩いた。彼はその拍手に驚いて頭
を上げたが、顔には遠目にもわかるほど汗をかき昂揚が伝わるほ
ど紅潮していた。三十才前のそんなに若くはないが優しげな顔を
した男だった。声はしわ枯れていたがまだ表情には若者らしい戸
惑いがあった。彼は、
「なっ、何かリクエストあれば、出来るモノならやりますっ!」
彼は恐る恐る言葉を発したが、それはさっきの歌声と同じとは思
えないほど弱々しかった。すると何処からともなく声がかかった
、
「キャロル・キング!」
そう言うと男はすこし進み出て半身のまま彼のギターケースに小銭
を投げ入れた。すると彼は、
「それじゃあ、IT'S TOO LATE やります」
と言って、また彼の世界へ戻った。私の知らない曲名だったが、
曲が始まると聞き覚えのある曲だった。彼は自信があったのか顔は
決して上げずにギターのコードを見ながら頭を左右にしてより大き
な声量で歌い上げた。オーディエンスはさらに増えていたが中年オ
ヤジをはじめ誰もがその物悲しい調べに聴き入っていた。何度かサ
ビのリフレインを繰り返す時には小声で一緒に歌う人までいた。最
後には、上手く歌い終えた自信からか周りを見渡す余裕を見せて、
さらにさっきよりも多くの拍手を浴びた。そればかりかリクエスト
したと思しき人は更にギターケースに千円札を放って彼を讃える言
葉をかけた。つられる様にして幾人かがそこにコインを入れた。彼
のストリート・ライブは熱狂のうちにアンコールのボブ・ディラン
が始まった。私は役割りを無事果たしたプロデューサーよろしく、
すこし離れた植え込みの石垣に腰を下ろして彼の興行の様子を眩し
げに、そして思わぬ成功に自負を感じながら眺めていた。私が離れ
てからも彼のオールディーズは益々調子付いて駅前のビルに響き渡
って行き交う人は誰もが視線を彼に向けた。そしてついに名残惜し
いフィナーレを迎えた。彼は起立して頭を下げ礼を言うとオーディ
エンスも大きな拍手で答えた。彼がギターを肩から外して足元のペ
ットボトを飲み干したら、中年オヤジのオーディエンスも三々五々
に散って行った。私は思わぬ出来事に感心していると、彼が私の方
へやって来て頭を下げながら熱唱で使い果たした擦れ声で、
「どうも、ありがとう」と言った。私は、
「あなた、昔の歌良く知ってるね」と言うと、
「って言うか、バロックしか知らんねん」
関西弁だった。
「バロック?」
「古い唄のこと」
「ああっ、なるほど」
彼曰く、今まで一度もバンドのユニットに入ったことが無かったの
で、いつも一人で弾ける曲を探していると古い曲しか思い浮かばな
かった。それで古い曲ばかり練習していると本当に嵌まってしまっ
て、今では七十年代の弾き語りこそが自分に合う曲だ、と言った。
「今日、はじめての路上やったから、ちょっとビビってたけど、兄
ちゃんのお陰で上手いこといったわ。ほんま、ありがとう」
「へえーっ、はじめてだったの、その割に上手かったね」
彼は私の言葉を聞かなかったように、
「今日は声がヤバイからもうやめるけど、明日またココで演るから
ヒマやったら来てーや」と言った。彼は大阪の会社を辞めて音楽で
勝負する為にギターひとつで三日前に東京に出て来たらしい。それ
で、何処か安く寝れる処を知らないかと言うので自分が使ってるネ
ットカフェを教えてやった。彼はその安さに喜んで「そうするわ」
と言った。私と彼は同じネットカフェでまた顔を合わすことになっ
た。
(つづく)