「無題」 (十)

2012-07-20 15:39:17 | 小説「無題」 (六) ― (十)


                     「無題」


                      (十)


 チョイ悪親父が手配してくれたペンションに着いた時はすでに海

上には帷(とばり)が降りて、早くも数多の星々が出番を待ちきれず

に煌めきを競い始めていた。宿は海岸からは少し山を登ったところ

にあった。視線を足元から遠くへ遣ると、眼下には賑わう温泉街の

街灯りが夜空を紅く染め、その先には漆黒の海原に小さな漁火を灯

した船があちこちに頼りなく漂い、波頭がそれを反射して煌めき、

遥か遠くの水平線と宇宙の果てが暗黒の中で混然一体となって、更

にその上に目を遣ると、空には何百万年前に生まれた光の粒子が

闇の彼方を越えて私たち家族と今ここでめぐり逢った。ペンション

の玄関を潜るとチョイ悪親父が私たちを待っていてくれた。彼は、

うちで用意できなくて申し訳ないと頭を下げたが、むしろ、謝らな

ければならないのは、突然無理を頼んだ私たちの方だと言って手

を差し出すと、彼はその手を固く握り返した。それから、と、私が

切り出すと、私が何を言い出すのか彼は察して、もう、挨拶はこれ

くらいで、ほら、子どもたちも疲れているみたいですから、と、実際、

彼女たちはついさっきまで車の中で電池の切れた人形のようにな

って眠っていた。「あっ!」と、私は妻の弘子とそして子どもたちを

紹介した。すると、チョイ悪親父はペンションのオーナー夫婦を紹

介してくれた。彼らはまだ若かったが東京からペンションを営むた

めに最近ここへ移ってきたばかりだった。私は、箱根で買い求め

た土産を差し出して頭を下げた。チョイ悪親父は、親しくしている

オーナーだから何も遠慮しなくていいですよ、と教えてくれた。そ

のオーナーが、

「それじゃあ、お部屋へご案内します」

と言うと、奥さんが先に立って誘導してくれた。チョイ悪親父は、

「じゃあ、また明日迎え来ますので」

と言って、玄関を後にした。彼のペンションは海水浴場の近くにあ

ったので、海水浴の時は彼のペンションを利用することになってい

た。

 私たちは、風呂から上がって、早速、オーナーの拵えた海の幸の

料理を鱈腹いただいて、部屋に戻ってベットに横になると忽ち電池

が切れた。

                                  (つづく)