「無題」
(九)―⑧
「お父さん、車出してっ!早くっ!」
美咲の叫びは嗚咽を伴って、彼女が受けたショックがどれ程辛いも
のだったか痛いほど伝わってきた。驚いた私はアクセルを強く踏み
過ぎたために車が前方へ飛び出して、慌ててハンドルを切ったが危
うく妻の「前の亭主」の車に接触しそうになりながら駐車場を後に
した。妻の「前の亭主」は、「コラーッ!」と怒鳴って私たちの車
が見えなくなるまで睨んでいた。
しばらく車内は静まり返り、時折顔を伏せた美咲の咳きだけが響
いた。妻は、居た堪れなくなってカーラジオのスイッチを入れた。
DJがリスナーから届いたサマーバカンスのメールを早口で読み上
げて、リクエスト曲のサザンオールスターズの「真夏の果実」をか
けた。己然は車内の空気を読んでか寝たふりをしていたが、いつの
間にか本当に寝てしまった。切ない曲が沈んだ車内に溶け込んだ。
それぞれがそれぞれの殻に閉じこもって、たぶん、自分はどうあ
るべきかを考えていた。家族は四人だったがイスは三人分しかなか
った。妻と己然が座ればイスはあと一つしか残っていなかった。そ
のイスを巡って私と美咲は譲り合っていた。
十国峠で予定していた昼食をとる頃には、美咲の感情の昂りも消
えて落ち着きを取り戻していた。その後、予定通りケーブルカーに
乗って頂上に着くと、遠く太平洋を見下ろす山頂からの絶景が下界
の煩わしさを忘れさせた。その海風に追われた高原の涼風が遮るも
ののない頂きを勢いよく通り過ぎた。己然と美咲はまるで飛び立と
うとする若鳥のように両手を大きく広げて今にも舞い上がらんばか
りに羽ばたかせた。己然と妻が展望台のトイレに行った時に、私と
美咲は富士山を眺めながら少し話をした。
「お前は父親に見捨てられたと思っているかもしれないけど、それ
は間違いだったと思う時がきっとくる。それは、己然が生まれてお
父さんもよく分ったんだが、お前のパパはお前のことを忘れること
なんて絶対できないさ。いつもお前のことばかり考えているはずさ」
美咲は黙っていた。
「それに、お前はどう思っているのか知らないが、お前はお父さん
にとっても大切な子どもなんだ。なのに父親がいないなんて思うな。
お前のことを心から心配している父親が二人もいるんだから」
「お父さん、ありがとう」
すると、トイレから戻ってきた己然が、
「何て、何て、お父さん、キサにも、何て言ったのか教えて」
(つづく)