「めしべ」②
ピカソの描いた絵「赤い椅子に座る女」をひらがなの「めしべ」
と「読んで」しまっ私は、そのあといくら絵を見直しても「めしべ」
という文字が頭から離れずに、ピカソが絵によって伝えようとした
世界が見えて来なかった。このようにして、目には見えないマイワ
ールドを他人に伝えるということはとても難しいことで、たとえ上
手く表現できたとしても、今日のような緊密な情報化社会では、更
にその異質な世界を伝えるとなるともっと困難を伴う。人は、自然
環境に適応した本能に従い、そして生まれ育った社会の中で生きる
ための知識に洗脳され、「自己」などというマイワールドは本能か
らも知識からも実は生まれて来ないのだ。自分はどう生きるべきか
を考えているのではなく、ただ与えられた生き方を選択しているだ
けなのだ。思想が異なっているのではない、ただ選択が違っている
だけなのだ。だからと言って、本能を疑い理性に逆らったとしても
自己が生まれて来るとは思えないが、選択の余地すら失った時の方
が自分の生き方が見えてくるのかもしれない。たとえば、原発事故
によって住み慣れた土地を追われた人々が原発の是非を巡る選択を
受け入れるだろうか。ただ、かつて同じようにわれわれは、国家が
認めた殺人行為に同調し不条理な死を目の当たりにして、如何なる
理由によっても「絶対に」戦争は行わないと覚悟を決めたはずだが、
それさえも今では古びて相対化してしまった。国家を認め国民とし
て自覚した時に、われわれは自分自身を語らず国家の論理を語るほ
かない。つまり、われわれはそれぞれの名分を語っているだけで、
何故自分はそう思うのかすら考えようとはしない。「おっと」、脇
道を逸れたまま引き返さずにだいぶ話をすすめてしまったようだが、
自分が考えた世界、つまりマイワールドが他人に伝わってアナザー
ワールドとして認められるには数多の偏見にも邪魔をされ、たとえ
ば、「赤い椅子に座る女」の絵を観て「めしべ」と謝って読まれた
りと、それ以外にも、人は他人の相反する考えには排他的で、何一
つとして自分自身で考えようとせずに固陋に執着してアナザーワー
ルドの扉を閉ざす。
(つづく)