「めしべ」④
その奇妙な感覚は身の回りに見えるものについてのことだけでな
く、一瞬のうちに存在そのものの意味が失われて、たとえば、ハサ
ミはその本来の目的を失ってその複雑な形状をした「もの自体」と
して存在し、そして、無数の意味を失ったハサミが存在する世界と
はわれわれが求める世界とは異なって「ただ在る」だけの世界だっ
た。すべての存在は意味や時間といった継続性から解き放たれ、
意味を失った「ただ在るだけ」の世界が新鮮に思えた。その時、わ
たしはこう言えたと思う、「世界の中に意味などない。存在が意味
を求めているだけだ」と。多分、もし、わたしが高層ビルの屋上の
縁に佇んでいれば、我が身を「もの」として重力に任せることに何
の躊躇いもなかった。おそらく、自殺する者はその動機はさまざま
であってもこの世界に留まる意味を失い、最後の決断は感情によ
ってではなく「もの」として行われるに違いない。わたしは、自分
を取り巻くさまざまな社会的な観念が虚構に思えてきて、地位や名
誉や能力や、おおよそ社会がわたしに与える如何なる意味さえも、
さらに、観念の下に集う組織や国家や民族といった感情から生まれ
る幻想に対して、つまり社会そのものが無意味であるなら当然そ
れらも、何ひとつとしてわたしには意味があることとは思えなかっ
た。わたしは、意味を見出せなかった自分の存在を、さらに生き延
びるため以外の意味しかない社会に自分を捨ててまで預けようとは
思わなかった。つまり、わたしは本質存在であるよりも事実存在とし
て生きようと思った。
(つづく)