編集「時間って何?」

2021-08-01 09:25:06 | 「二元論」

         編集「時間って何?」

 

 ハイデガーは自著「存在と時間」で「存在とは時間である」と言

ったが、私はどうしても了解できなくて未だその先へ進めないでい

る。これまでに自分なりに色々と考えてみたが、まだ納得のいく結

論を掴みきれていない。それでも結構「時間」そのものについての

認識は深まったと思っている。たとえば、世界が何もない「無」で

あるとすれば、「時間」もまた「無」であるに違いない。つまり何

も無い世界では当然「時間」すらも無い。この考えは「存在と時間

」の関係の拠り所であると思える。では、それとは逆に「時間」だ

けがあって何も存在しない世界を思い浮かべてみれば、それは永遠

に変化しない世界に違いない。だとすれば、「時間」とは「存在」

の変化を現わす概念であり、存在の変化の無いところでは時間の概

念も生れない。これは微小な「存在」である素粒子を扱う量子力学

の分野においても、物理学者カルロ・ロヴェッリは「時間は存在し

ない」と言っている。つまり、世界は存在し、存在は変化し、変化

が時間を生むとすれば、「存在とは時間なのだ」。

 さて、その書き出しは「簡単な事実から始めよう。時間の流れは

、山では速く、低地では遅い。」とあり、つまり山の上よりも地球

の質量の中心に近い低地の方が「時間」が遅くなると言います。こ

れは、「物体は、周囲の時間を減速させる。地球は巨大な質量を持

つ物体なので、そのまわりの時間の速度は遅くなる。」からで、物

体すなわち存在が時間を歪めると言うのですが、またこれ以外にも

アインシュタインの特殊相対性理論によって「ウラシマ効果」とし

て広く知られている、動いている時の方が静止している時よりも時

間がゆっくり進むことが確かめられている。これらの「存在と時間」

の関係に驚かされるのは、われわれが理解している時間の常識、そ

れはもっぱらニュートン物理学がもたらした「事物(存在)とはまった

く無関係に流れる絶対時間の概念」によるのだが、どういうことか

と言えば、もしも存在が無かったとしてもただ時間だけは規則的に

流れる世界で、存在とは「時間内存在」のことであるということに

なるが、しかし実際は時間は重力に歪められ、運動によっても違っ

てくるとすれば、「今この時」という瞬間が世界全体、或いは宇宙

全体で共有することができるというのは幻想であり、時間とは場所

によって、或いは状況によって異なる相対的概念にほかならない。

つまり、「宇宙全体で定義できる“ 同じ瞬間 ”なんて存在しないの

だから」(カルロ・ロヴェッリ著『時間は存在しない』)。もっと分

かり易い事実は、そんなことは誰もが知っていることですが、新年

の始まりを告げる「初日の出」の時刻は見る場所によって異なる。

ついでに参考までに、「わたしたち人間に識別できるのはかろうじ

て10分の1秒くらいで、これなら地球全体が一つの泡(範囲)に含ま

れることになり、そこではみんながある瞬間を共有しているように、

現在について語ることができる。だが、それより遠くには、『現在』

はない。」(同書より)

 物理学者カルロ・ロヴェッリは「宇宙全体で定義できる“ 同じ瞬

間 ”なんて存在しない」と言う。だとすれば、〈存在〉が現われる

前に時間だけが刻々と流れる世界というのは、それは科学者ニュー

トンが主張した絶対時間のことだが、あり得ないことになり、時間

は存在のあとから派生した「存在内時間」ということになる。では

、時間はなぜ存在のあとから派生したのかといえば、存在が変化す

るからである。そして、存在の変化はいったい誰が認識するのかと

言えば、客観な視点から世界の変化を観察することができるのは人

間以外に存在しない。つまり、「時間」とは存在の変化を記憶する

人間によって確認され、人間だけが認識する概念である。そして「

存在とは時間である」(ハイデガー)とすれば、時間とは変化を表す変

数であるから、「存在とは変化である」ということになり、存在の変

化とは「生成」のことにほかならないので、「存在とは生成である」

ということになる。つまり、ハイデガーが「存在とは時間である」と

言ったのは「存在とは生成である」と言っていることと同じなのだ。

 ところで、カルロ・ロヴェッリは、そもそも共通する「現在」と

いう瞬間は起こり得ないと言う。それは「時間の流れは、山では速

く、低地では遅い」、或は「動いている時の方が静止している時よ

りも時間がゆっくり進む」とすれば、物体の重力に影響される時間

は、厳密に言えば違う場所との同時性は起こり得ない。ただ、その

誤差は無視できる範囲なのでわれわれは瞬間を共有していると思い

込んでいるだけであると言うのだ。おおよそ地球規模の範囲内であ

れば「現在」を共有することができるが、しかし、たとえば約四光

年離れた太陽系外の恒星の回りを公転する惑星とはもはや離れ過ぎ

ていて地球上の「今」を共有することはできない。地球上の我々が

「今」と言った時にその言葉が惑星に届くまでに光速で四年掛かり

、そしてその惑星からの返信にも四年掛かり、我々が惑星からの「

今」を受信するのは八年後になる。こうして、「宇宙全体で定義で

きる“同じ瞬間 ”なんて存在しない」(カルロ・ロヴェッリ)のであれ

ば、つまり、共通の「現在」が定義できないとすれば、当然「現在

」を起点とする過去も未来も存在しないことにならないだろうか?

「その通り!」

アインシュタインもこう言ってます、

「わたしたちのように物理を信じている者にとって、過去と現在と

未来の違いはしつこく続くでしかありません」と。

 またカルロ・ロヴェッリも、彼は人間が知り得る限りの最小単位

の物質である量子の研究者ですが、「事物のミクロな状況を観察す

ると、過去と未来の違いは消えてしまう」と言い、そして「過去と

未来が違うのは、ひとえにこの世界を見ているわたしたち自身の視

界が曖昧だからである。」と言う。つまり、時間とはわれわれ人間

が創り出した概念であって、誕生以来無限に広がる宇宙空間に絶対

的な時間が流れているなどということはありえない。だとすれば、

ハイデガーの言う「存在とは時間である」という定義も、人間の「

時間性」の下で了解された《存在》が時間へと転換される、という

ことになる。つまり、それは、あくまでも『人間にとって』「存在

とは時間である」ということなのだ。

カルロ・ロヴェッリはわれわれの「視界の曖昧さ」をこう言います、

「わたしたちに見えているコップの中の水は、月面の宇宙飛行士に

見えていた地球のように青く静かに輝いている。月からは、植物や

動物といった地球上の生物のあふれんばかりの活動も欲も絶望も、

いっさい見えない。あちこちに斑点のある青い球が見えるだけだ。

同じように、光を反射しているコップの水のなかでも、じつは無数

の分子、地球上の生命よりはるかに多い分子が騒々しく活動してい

る。」(太字は筆者)と。つまり、われわれの生存本能に規定された

視力とは当然のことながら実用に則した手段であって、その対象物

が水の入ったコップだったとすれば、コップの中で騒々しく活動す

る無数の水の分子までも見透すことはできない、もちろんその必要

がないからだ。われわれが認識する世界と科学者が追い求める真理

には大きな隔たりがある。たとえば、われわれは時代(時間)の変化

とともに誕生と死を繰り返して決して同じ人間が継続して生存して

いるわけではないが、しかし、宇宙から俯瞰して見れば同じ人間が

継続して存在しているように見えるのかもしれないし、一方で、わ

れわれが作り出した様々な制作物にしても、極小の量子物理学の世

界から見れば量子その変化はまったく確かめられない。つまり、マ

クロの視点からも、ミクロの視点からも存在そのものはまったく変

化せず、ただ、われわれの曖昧な視線だけが存在の変化を捉えてい

るということになる。もしかしたら、「過去と現在と未来の違いは

しつこく続く」(アインシュタイン)というよりも、いずれ死んで

しまうわれわれそのものがなのかもしれない。