「二元論」
(15)
ハイデガーは、自著「存在と時間」(1927年初版)の上巻を上
梓したのちに思想転回(ケ―レ)を余儀なくされて、下巻の梗概であ
る目次だけを記して結局下巻は発刊されなかった。ただ、思想転回
(ケ―レ)を余儀なくされてもその目指す世界、つまり〈存在=生成〉
という存在概念によって「もう一度自然を生きて生成するものと見
るような自然観を復権するすること」(木田元「ハイデガーの思想」
)への想いは変わらなかった。しかし、プラトン・アリストテレスか
ら始まった〈存在=現前性=被制作性〉という存在概念によって構
成された自然を人間中心主義的文化のための単なる〈材料・資料〉
としか見ない近代の機械論的自然観の下で、すでに機械文明が蔓延
った社会を再び始原の自然観に遡って復権し直すとすれば、当然、
多様化した近代社会がそのまま「始原の単純な存在」に収まりきれ
るはずがない。それどころか、ハイデガーは〈生きた自然〉という
概念を「血と大地」という極めて民族主義的な文化理念に具象化さ
せ、偏った文化革命を掲げるナチズムに迎合した。そもそも「血と
大地」に根ざした精神などと口にすれば、血にも大地にも係わりの
ない移民は口を噤むしかない。これはナチズムに限らず、最近では
アメリカの移民排斥政策や、わが国の民族主義者が唱える古き良き
時代への復古主義でさえも反人道的な手段に訴えることでしか為し
得ない。いや、仮に為し得たとしても、始原の自然観の下でのある
がままの人間と、自然観を取り戻すために移民を排斥した後の疚し
い人間とではまったく始原としての自然観に対する意識が異なる。
私は、「自然を生きて生成するものと見る」ならば民族の混融は、
エントロピーの法則に従う限り避けられないと思う。そもそも始原
の単純な存在に回帰するのになぜ民族主義だとか「血と大地」とい
ったイデオロギーを引き摺って行かなくてはならないのか。そんな
ものは後知恵で始原の人間は意識すらしなかった。たぶん私の考え
はフリーメンソンリ―的だとしてナチス政権下では、いや、時が時
ならこの国においても自由を奪われるに違いない。ところで、ヒッ
トラーが率いるナチス・ドイツは民族主義国家を目指したが、彼ら
が迫害したユダヤ民族は2000年も前から宗教(ユダヤ教)による
民族主義社会を営んでいた。ナチス敗北後、ユダヤ人は念願の民族
国家建国によって「大地」を手にしたが、ところが、「血と大地」
を手にした途端にジェノサイドの恐怖を忘れたのか先住民であるパ
レスチナ人を迫害している。
(つづく)