「二元論」
(14)
後年ハイデガーは、ナチス加担への批判に対して黙秘に終始した
。あれほど優れた分析力を発揮した哲学史家が自らの過去の釈明に
は誠実に向き合おうとはしなかった。思うに、人間中心主義(ヒュ
ーマニズム)的文化を覆そうと企てた者が人間中心主義的社会の下
でその思想を語れば当然反社会的思想家の烙印を押されるのは明白
である。だとすれば、語ったとしても自らの弁明が理解されること
はないと判断したのではないか。そして、彼自身も存在概念の認識
を巡って大きな転回(ケ―レ)を余儀なくされた。つまり、初期のハ
イデガーは〈存在了解〉によって〈現存在(人間)が存在を規定する〉
と考えていたが、それは人間が「おのれ自身の死という、もはやそ
の先にはいかなる可能性も残されていない究極の可能性にまで先駆
けてそれに覚悟を定め、その上でおのれの過去を引き受けなおし、
現在の状況を生きるといったようなぐあいにおのれを時間化するの
が本来的時間性で」(木田元『ハイデガーの思想』)、その〈本来的
時間性〉の下で〈存在=生成〉という存在概念によって忘れ去られ
た〈生成=自然〉の世界を復権しようと企てた者が、「おのれの死
から眼をそらし不定の可能性と漠然と関わり合うような非本来的時
間性」の下で幸福が唯一の望みである人間中心主義(ヒューマニズム)
的文化にどの面下げて頭を下げることができると言うのか。それは
まさにおのれの思想の過ちを認めることにほかならないではないか。
ハイデガーは一元的な人間中心主義(ヒューマニズム)的文化はいずれ
行き詰まると確信していたに違いない。それは思索の転回(ケ―レ)後
も自然 (ピュシュス)への回帰思想を改めなかったことからも窺える。
(つづく)