「無題」
(五)―③
私は、老人の知人たちがやって来て水を差されたので湯から上が
った。その老人とは一期一会に終わった。身支度をしてネクタイは
せずに背広のポケットに入れた。
「あっ!」
今これを書いていて気付いたんだが、ロッカーのカギを開けた時に
戻ってくる百円硬貨を取るのを忘れていた。
「くそーっ!」
だからあのロッカーは嫌いなんだ。それにしてもいったい何のため
に百円硬貨を入れなきゃなんないんだ?却ってくるなら入れなくた
ってよさそうなものじゃないか。
外へ出て駅へ向かった。家に帰ろうと思ったが、駅まで来るとな
ぜか心変わりしてしまった。そして、並んでるタクシーに乗り込ん
だ。
「どちらへ?」
実は、知り合いがペンションを営んでいたが、いつも家族で予約を
入れて宿泊していたのでひとりで更に飛び込みで行くには洋風だっ
たが「敷居が高かった」。
「お客さん、どうしました?」
ドライバーは決して愛想の悪い人物ではなかったが、急かされると
こっちの愛想が悪くなった。
「とりあえず山の方へ行って」
「やっ、山って、どこぉ?」
「だから海の方じゃなく山の方へ」
「ええっ?」
「あっ、美術館があったよね、ほら、何とか美術館」
彼は思い当たる美術館の名を言った。私は思い当たらなかったが、
「ああ、それそれ」
すると、何も言わずにギヤーを入れハンドルを切った。海岸線沿い
に走る道路は潮の香りが漂い鼻孔を刺激したが、気持ちのいい風が
湯上りの火照った躰をくすぐりすぐにそれを忘れさせた。道はまも
なく上り坂になって四方をうす緑いろの若葉を付けた樹木に囲まれ、
草花の混じり合った匂いがそれに替わった。私は、ガラスを降ろし
た窓からその景色を眺めながら、
「もう春だね」
と呟くと、ドライバーはしばらく間を置いてから、
「そうですね」
とだけ答えたっきりだった。車の中の沈黙を鴬の覚束ない初音が破っ
た。まだ稽古中で人には聴かれたくないのか辺りの様子を窺いながら
忘れた頃に囀った。私は、
「運転手さん、ここで止めて」
「えっ?」
「ここで降りる」
「こんなとこで降りても何もないですよ」
「うん。しばらく山の中を歩きたいんだ、ここでいい」
私はメーターを見て紙幣を出して釣りは要らないと言うと、ドライ
バーは急に私の身を案じ始めて、
「こんなとこで降りたら、帰りのタクシー拾えませんよ」
そう言って一枚の名刺を差し出した。
「もしも、困ったらデンワして下さい。何時でも迎えに来ますから」
私は、
「ありがとう」
と言ってその名刺を受け取って車を降りた。すると、運転手は車を
Uターンさせて私の傍らへ止めてから、
「あのー、差し出がましいことを言いますが・・・」
「はあ?」
「お客さん、決して早まっちゃぁいけませんで」
私は、彼が何を憂慮しているのか判ったので、
「はっははっ」
と一笑に付して、ドライバーをからかうつもりで、
「あっ!しまった、ロープを持って来るの忘れた」
と言いながら背広のポケットに手を突っ込んで、何気なく中のモノ
を引っ張り出すと、ズルズルとネクタイが出てきた。
(つづく)
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