「無題」 (五)―③

2012-05-25 11:13:50 | 小説「無題」 (一) ― (五)
 



          「無題」


           (五)―③



 私は、老人の知人たちがやって来て水を差されたので湯から上が

った。その老人とは一期一会に終わった。身支度をしてネクタイは

せずに背広のポケットに入れた。

「あっ!」

今これを書いていて気付いたんだが、ロッカーのカギを開けた時に

戻ってくる百円硬貨を取るのを忘れていた。

「くそーっ!」

だからあのロッカーは嫌いなんだ。それにしてもいったい何のため

に百円硬貨を入れなきゃなんないんだ?却ってくるなら入れなくた

ってよさそうなものじゃないか。

 外へ出て駅へ向かった。家に帰ろうと思ったが、駅まで来るとな

ぜか心変わりしてしまった。そして、並んでるタクシーに乗り込ん

だ。

「どちらへ?」

実は、知り合いがペンションを営んでいたが、いつも家族で予約を

入れて宿泊していたのでひとりで更に飛び込みで行くには洋風だっ

たが「敷居が高かった」。

「お客さん、どうしました?」

ドライバーは決して愛想の悪い人物ではなかったが、急かされると

こっちの愛想が悪くなった。

「とりあえず山の方へ行って」

「やっ、山って、どこぉ?」

「だから海の方じゃなく山の方へ」

「ええっ?」

「あっ、美術館があったよね、ほら、何とか美術館」

彼は思い当たる美術館の名を言った。私は思い当たらなかったが、

「ああ、それそれ」

すると、何も言わずにギヤーを入れハンドルを切った。海岸線沿い

に走る道路は潮の香りが漂い鼻孔を刺激したが、気持ちのいい風が

湯上りの火照った躰をくすぐりすぐにそれを忘れさせた。道はまも

なく上り坂になって四方をうす緑いろの若葉を付けた樹木に囲まれ、

草花の混じり合った匂いがそれに替わった。私は、ガラスを降ろし

た窓からその景色を眺めながら、

「もう春だね」

と呟くと、ドライバーはしばらく間を置いてから、

「そうですね」

とだけ答えたっきりだった。車の中の沈黙を鴬の覚束ない初音が破っ

た。まだ稽古中で人には聴かれたくないのか辺りの様子を窺いながら

忘れた頃に囀った。私は、

「運転手さん、ここで止めて」

「えっ?」

「ここで降りる」

「こんなとこで降りても何もないですよ」

「うん。しばらく山の中を歩きたいんだ、ここでいい」

私はメーターを見て紙幣を出して釣りは要らないと言うと、ドライ

バーは急に私の身を案じ始めて、

「こんなとこで降りたら、帰りのタクシー拾えませんよ」

そう言って一枚の名刺を差し出した。

「もしも、困ったらデンワして下さい。何時でも迎えに来ますから」

私は、

「ありがとう」

と言ってその名刺を受け取って車を降りた。すると、運転手は車を

Uターンさせて私の傍らへ止めてから、

「あのー、差し出がましいことを言いますが・・・」

「はあ?」

「お客さん、決して早まっちゃぁいけませんで」

私は、彼が何を憂慮しているのか判ったので、

「はっははっ」

と一笑に付して、ドライバーをからかうつもりで、

「あっ!しまった、ロープを持って来るの忘れた」

と言いながら背広のポケットに手を突っ込んで、何気なく中のモノ

を引っ張り出すと、ズルズルとネクタイが出てきた。


                                 (つづく)        
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「無題」 (五)―④

2012-05-22 19:55:39 | 小説「無題」 (一) ― (五)



          「無題」


           (五)―④


 サラリーマンが首に締めるネクタイは、もしも仕事で取り返しの

つかない失態を犯した時に自ら身を処すために予め用意されたア

イテムなのかもしれない、などと思いながら春の風を満身に浴びて

腕をのばして伸びをした。山の斜面を垂直に切り取って舗装された

道路からは遥か霞の向こうに大海原が一望でき、絶景の先に斜め

に傾いた水平線が見渡せた。その水平線を眺めていると、自分がい

ま立っている道路が傾斜しているのに気付いた。上空では鴬が近く

で囀ったと思ったらしばらくして彼方の方から声が聴こえてきたり

した。しかし、どうもその鳴き声が何時まで経っても鴬本来の鳴き

声には到らなかった。否、そもそも本来の鳴き方などというものを

彼らは持っているのだろうか?我々が地方によって方言が違うよう

に、彼らも自分たちの鳴き方こそが正調だと思っていても全然おか

しくはないではないか。例に日本中の鴬の鳴き声を集めて聴き比べ

てみれば、それこそ様々な個性の鳴き方があることに気付かされる

のかもしれない。まるで私に付き纏うように囀り、私はその声に励

まされて黙々と歩いて喉が渇いてしかたなかった。

「しまった、街で飲み物を買っておけばよかった」

と悔やんでいると、はるか前方の片隅にポツンと自動販売機が置か

れていた。まさか、砂漠にオアシスの蜃気楼を見るように幻ではな

いかと疑いながら近付くと、古い自販機だがちゃんと無駄な光を点

滅させてスポーツドリンクさえ用意されていた。「おお、さすが日本!」

と、思いながらズボンのポケットに小銭を探ったが運悪く五十円硬貨

と後は十円硬貨ばかりで百円硬貨の持ち合わせがなかった。

「しまった!」

そうだ、さっきタクシーを降りる時にお釣をもらえばよかったと思

い返しても後の祭りだった。しかも、ロッカーの百円を忘れずに取

っておれば何のことはなかったのに。私は、仕方なく内ポケットか

ら財布を取り出して千円札を投入する決心をした。ただ、それは結

構勇気のいることだった。実際デンキが点滅しているが、置かれた

場所や使われた形跡からして正しく作動してくれるかどうか甚だ心

許なかった。仮に、百五十円を投じて水泡に帰してもまあ諦めがつ

くが千円札を賭けるのは博打だった。私は、恐る恐る紙幣投入口へ

千円札をあてがった。すると、私の思いなど気付かう様子も見せず

に飢えたウワバミが獲物を一飲みするようにスッと吸い込んだ。しば

らく固唾さえ飲み込まずに様子を見ていたが何の変化も起こらない。

仕方なく「返却ボタン」を押してみたがまったく吐き出す気配もない。

「あああ、やってもうた」

不安は実現した。

                                  (つづく)

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「無題」 (五)―⑤

2012-05-20 06:19:20 | 小説「無題」 (一) ― (五)


           「無題」


            (五)―⑤


 「押す」と書かれたボタンを片っ端から押しまくっても自販機は

云とも寸とも言わなかった。喉の渇きに加えて気持ちまで渇いてき

た。遂には収まりがつかずに叩いたり蹴ったりしたがどうにもなら

ない。すると、黙って堪えていた自販機が、

「どうかしましたか?」

と喋った。そんな馬鹿なと思いながら裏側を覗くと、道路下の斜面

の樹木に埋まるようにして民家の瓦屋根が見えた。こんなとこに家

があったのかとその時まで気づかなかったが、その家の者と思われ

る男が玄関先からこっちを見上げながら両手を口に当てがって叫ん

でいた。

「どうしました?」

私は、

「ジュースが出ない!」

と、その男を見下ろしながら言った。男は道路へ通じる脇道をゆっ

くりと大股で上って来ながら、

「それ、千円札は使えませんよ」

私は、それなら始めから断り書きをしておけと思いながら、

「あっ、千円札入れました」

と答えると、

「貼り紙がしてあったでしょ」

「いいえ」

「あれ?」

彼は到着すると自販機を点検して、

「あ、剥がれたんだ」

そう言って鍵を使って中を開けた。そして、ウワバミの喉元に詰ま

った千円札を取って私に返した。

「すみませんでした。で、何を買うつもりでしたか?」

「あ、スポーツドリンクを」

と言うと、その中からスポーツドリンクを取って差し出した。私が、

小銭は持っていないと言うと、迷惑をかけたから要らないと言った。

彼は、私と同じ年恰好だったが明らかに勤め人ではなかった。まる

でゴルフにでも行くような恰好で真っ赤なポロシャツを着て、白い

タオルを首に巻き、イルカのマークが付いた紺色の帽子を被り、た

だゴム長を履いていた。何よりもそう思わせたのは日焼けした顔だ

った。まだ春になったばかりでこんなに焼けるものなのか。それに

無精からなのか敢て中途半端に揃えているのか、白いものも目立つ

髭をはやしていた。もし、彼が東京の如何なる場所に現れても間違

いなく怪しい人物と警戒されるだろう。ちょっと前に流行ったいわ

ゆるチョイ悪親父風だった。私はこの手の人間が元来苦手だった。

若い頃はきっとシティーボーイを気取っていたに違いない、そして

こう吐いていたに違いない、

「世の中は男と女だけなんだからさ、もっと楽しく生きなきゃ」

って、おまえがそのことしか考えてないだけじゃないか。

「どうしました?」

「あっ!いやぁ、よく焼けてますね」

「ああ、百姓ですから」

「あっ、農家の方ですか」

そう言って真っ赤なポロシャツに眼をやると、彼も気づいて、

「あっ、これ。ほら、畑に出るとどこに居るかわからないでしょ、

家の者が見つけやすいように」

「なるほど」

どうやら私は勝手な先入観に囚われていたようだ。不審な身形なら

その場所でははるかに私の方が相応しくなかった。くたびれたスー

ツに革靴で山の中をとぼとぼと一人歩いているのだから。

「おひとりですか?」

彼への詮索はすぐに反射して自分に返ってきた。私は、余計なこと

を聞かなきゃよかったと思いながら、何故自分がこんな身形でこん

なとこにに居るのかを説明するのがめんどくさくなったので、適当

な方便を探した。

「ちょっと失礼」

そう言ってペットボトルの栓を捩じると歯軋りのような音がした。

「あ、どうぞ」

そして横を向いてラッパ飲みでスポーツドリンクを喉に流し込んで

から、

「ほら、この先に美術館があるでしょ」

「ええ、あります」

「私はどうもそっちはレイマンでして、連れが何時までも観るもん

ですから、それよりも山を見ていた方がいいって言って飛び出して

来たんですよ」

「レイマン?」

「あ、失礼。素人ってことです」

私は優越感を隠して物静かに言った。すると、

「ああ、なるほど。あれ?でも今日は何曜日でしたっけ」

「えーっと、確か水曜日ですね」

「そうですよね。美術館って休みじゃなかったですか?」

私は焦ってその質問は無視して、

「あっ、そろそろ戻らないと連れが待ってますので。色々ご面倒を

お掛けしました。それじゃあ」

頭を下げて冷や汗を掻きながら足早にその場を立ち去った。


                              (つづく)

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「あほリズム」(218)

2012-05-11 07:42:48 | アフォリズム(箴言)ではありません



          「あほリズム」


           (218)



 すべての存在は可能性を有している。

 可能性とは変化することである。

 

             (219)


  しかし、すべての変化が我々にとって好ましい結果を

 もたらすのではない。

 ただ、その変化さえも何れ変化する。

 それを可能性と言う。



「世界に一つだけの憲法」

2012-05-10 21:33:31 | 「パラダイムシフト」
 


        「世界に一つだけの憲法」


 我が国の憲法は、誰もが知っているように国による交戦権を認め

ていない。いわゆる先進国の中で「武力による威嚇又は武力の行使

を『放棄』」している国など存在しない。もしも、それらの国々が

「普通の国」だとするなら、我が国は明らかに「普通の国」とは言

えないだろう。ところが、「普通の国」ではないにも拘らず、軍事

力を誇示する国々に対して武力を放棄するように求めてきただろう

か。我が国は「丸腰」であるにも拘らず武力によって威圧する大国

に対して何もしてこなかった。敢て言えば、我が国は武力を誇示す

る国々に対して「武力を持たないこと」を誇示するべきではないか。

更に、それらの国々に対しても武力に頼らずに話し合いによって解

決するべきであると強く訴えるべきではないだろうか。つまり、平和

憲法こそが我が国の武器なのだ。我々が憲法を改めて「普通の国」

になるのではなく、反対に普通の国々こそが武力を放棄した我が国

を倣うように働きかけることが、「正義と秩序を基調とする国際平和

を誠実に希求する」平和憲法を起草した者の願いだったのではない

だろうか。だから、我が国の憲法がいつまでも世界に一つだけの憲

法である限り、そして、我々が普通の国に戻って軍隊を持つべきだと

思っている限り、常に我が国は軍事大国の脅威に怯えながら、憲法

が謳う「正義と秩序を基調とする国際平和」など決して実現できないだ

けでなく、再び普通の国々との「力こそ正義だ」の軍拡競争に逆戻り

することだろう。そして、それがもたらすものは正義でも秩序でもなく、

悲しみと怨恨に呪われた忌まわしい過去の再現でしかないだろう。

 私は、あえて我が国の平和憲法が目指している「理念」を語って

いるのだが、一国だけの「戦争放棄」がその国を平和にするなどと

は努々思っていない。では反対に、我が国が軍事力を増強し核武装

して北東アジアの平和が本当に実現するだろうか?我が国は「丸腰」

であるからこそ、北東アジアの安全と平和のために軍事大国の米国

や中国、或いはロシアに対しても「武力による威嚇又は武力の行使

を放棄する」ように求めることが出来るのではないだろうか。もち

ろん、軍事大国に怯まずに「丸腰」で渉り合うには強い覚悟がなけ

ればならないだろう。我が国の安全は大国の脅威に対して独自の軍

事力で守ることなど出来ないのだから他国との信頼関係を築かなけ

ればならない。我が国に対する信頼とは、他国への如何なる武力行

使も放棄した平和憲法こそがその拠り所となるのではないか。そし

て、武力放棄した我が国こそがイニシアティブを取って東アジアの

デタント(緊張緩和)を推し進めることができるのではないだろうか。

もちろん、中国にとっての脅威である米国との関係が問題になり、

日米同盟は距離を置かざるを得なくなると思うが、しかし、今のよ

うな隷属関係は好ましいとは思えないし、何よりも東アジアの安全

と平和こそが我が国にとっては重要であり、沖縄からの米軍の撤退

はその時に実現するだろう。

 我が国の平和憲法とは、パワーポリティックスというパラダイム

からの逸脱であり、それは国家主義の超克である。何故なら、本来

軍事力を持たない国など国家とは呼ばないからだ。つまり、「戦争

の放棄」とは、国家がその誕生以来何度も繰り返してきた戦争の歴

史を終わらせようとする試みではないか。従って「戦争の放棄」を

決意した国家の国民は「戦争の放棄」の思想を世界中に敷衍させな

ければならないのだが、我々はパワーポリティックスへの回帰ばか

りを求めて、平和憲法の使徒としての使命を何一つ果たしてこなか

った。例えば、中国政府による周辺諸国への強権介入に対して、な

ぜ強く抗議しなかったのか。中国共産党による非人道政策に対して

なぜ改めるように訴えないのか。それらは明らかに「正義と秩序を

基調とする国際平和を誠実に希求する」者たちによる行いとは言い

難い。更に北朝鮮に対しても、或いはアメリカに対しても。即ち、

我が国は平和憲法によって「丸腰」を強いられているからこそ世界

の平和に対して関心を持ち勇気を持って係わらなければならないの

ではないだろうか。我々は「普通の国」に戻る前に、平和憲法の下

で訴えるべきことがまだ随分残されているのではないだろうか。一

番危険なのは平和憲法の上で胡坐を掻いて激変する世界から目を逸

らして、世界に一つだけの憲法で終わらせることではないか。護憲

を訴える人も改憲を求める人も、イデオロギーにばかり執着して目

の前の現実から逃避してる。