【2013年3月4日】 『京都文化芸術会館』
『文楽』を観に行くのは何十年ぶりだろうか。大阪に『国立文楽劇場』が出来てからそれまで年に2回ほど定期的にあった京都での『文楽公演』がなくなり、人形浄瑠璃を見たり、義太夫を聴くには、大阪まで出かける必要があった。子育ての忙しい時期に重なり、《わざわざ大阪までも》という気が先に立って、おのずと『文楽』からは足が遠のいてしまった。
数年前から京都でも開催されるようになっていたというが、知る由もなかった。たまたま府立ホール『アルティー』でのコンサートに行った際、偶然チラシを見かけ、懐かしいという思いと、その時みた昼の部の演題が『桂川連理柵』だったので、即刻その場でチケットを購入してしまった。
会場は以前と同じ河原町広小路の『府立文化芸術会館』だ。懐かしく、そう広くない場内を見渡すと、着物姿の人が割と目に付く。舞子か芸子か分からないが、それらしいあでやかな着物に髪飾りをつけた若い女性の姿も見える。以前は感じなかったが、コンサートの会場とは、また違った風情があるところは、さすが『文楽』の会場である。
さて、『桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)』であるが、《お半長》と言っても《ばくち》の話ではない。この話に出てくる主人の名前が【帯屋長右衛門】で、その駆け落ち相手の娘の名前が、隣に住む【お半】である。
今日はその内の【六角堂の段】と【帯屋の段】【道行朧の桂川】の3つの段を上演する。
以前の公演では無かった【解説】というのを上演に先立って(竹本相子太夫が)してくれるので話がわかりやすい。
各段の概要を書くと、
【前段までの話】
"捨て子"であった『長右衛門』は信濃屋に育てられて、5歳の時、隣の『帯屋繁齋』の養子となる。現在は妻『お絹』も迎え帯屋の主人になっているが、信濃屋の主人の遺言で、娘の『お半』の親代わりになって欲しいといわれ、2回り年下のお半を大事にする。何年か先、たまたま旅先の石部の宿で長右衛門とお半が一緒になるが、ふとした手違いと過ちから長右衛門はお半と契りを結んでしまう。
10年連れ添った良妻賢母を地でいくような妻のお絹にも申し訳が立たず、打開策として、お半を結婚させようと話し合う。
【六角堂の段】
飯焚きから『帯屋繁齋』の後妻にに納まった『おとせ』は、その連れ子『儀兵衛』とともに『長右衛門』を追い落とし、帯屋を乗っ取ろうと企んでいる。折りしも、《石部での秘密》を手に入れたふたりは、それをネタに繁斎に圧力をかけようとたくらんでいる。長右衛門はいつまでも《秘密》を覆い隠せないと悟り、覚悟を決める一方、お絹は夫婦仲がいつまでも円満に続く様、『六角堂』に願かけをする。そこへ折よく、信濃屋の丁稚『長吉』が通りかかり、お絹の機転で長吉に《知恵》を授ける。『お半』と夫婦になれると、大喜びする『長吉』。
【帯屋の段】
継母の『おとせ』と、その子『儀兵衛』が《証拠》の手紙をたてに『長右衛門』とその妻『お絹』を責め立て、今は隠居の身である『繁斎』に迫る。しかし、それが失敗に終わると今度は使途不明の百両のと自分らがかすめ取った五十両を長右衛門が使い込んだと追いつめる。
その追及は執拗で容赦がないが、繁斎はとうとうその激しさに耐えきれず「自分の了見で己のお金を使うのに何が悪い」と突き放し、長右衛門をかばう。
お半の気持ちと繁斎や妻のお絹の間に立ち、長右衛門は心を決める。
【道行朧の桂川】
逃れるように、桂川の河岸に着いたふたり。長右衛門はお半に生きながらえるように説得するが、それを拒むお半。ふたりを捜す人影が迫るなか、桂川に入水する。
解説での話でもあったようにこの話は、庶民の生活の近くにあった浄瑠璃が、近松門左衛門の『女殺油地獄』や『曾根崎心中』などの作品と同様、今でいう『ニュース・ワイド』のような役割も果たしていた。身近に起こった事件を題材につくったので、速報性と共に、題材の普遍性もあって、あとあと語られることも多かったのかもしれない。
一方、落語の方であるが、『動乱の幸助』がこの『お半長』を題材に取り入れて、映画やテレビの無かった時代の、大阪の庶民の様子や日常の楽しみを巧みに、滑稽に描いている。
あらすじをいうと、以下のような内容である。
『 二人の町内の若い者が割り木屋の主人のことを噂している。「胴乱の幸助」という異名を持ち、これといった道楽はないが、江戸の侠客「幡随院長兵衛」気取りで義侠心に富み、人の喧嘩を仲裁しては酒をご馳走するのが趣味なのだ。そこでただ酒を頂こうと、二人はわざと喧嘩をする。幸助は早速仲裁に入り近くの料理屋で馳走してやる。
幸助は、だまされた事に気がつかず喧嘩を収めたので気分がよい。
と、通りかかった稽古屋から浄瑠璃『桂川連理柵』(京の柳馬場押小路に住む帯屋長右衛門と信濃屋の娘お半とが恋に落ち、桂川で心中する悲劇。別名『お半長』)の「帯屋の段」が聞こえてくる。それも姑の嫁いびりの件である。声が真に迫ったので、てっきり家庭内の揉め事と勘違いした幸助は稽古屋に飛び込むが、浄瑠璃を知らないので、本当に京都の柳の馬場押小路の帯屋の嫁いびりが、大阪にまで知られている大事件、これは早速仲裁に行かなアカンと思い込む。
幸助は、旧弊めいていて汽車で行かず、昔からの三十石船で京に向かう。悪い事に柳馬場押小路に帯屋が一軒あった。幸助は真剣な顔で、応対した店の者に、姑と嫁、そして主人の長右衛門を連れてくるように言う。
「あんさん、何のことどすか。」
「何やあるかい。大阪にまで、小さな子供まで知れ渡ってるがな。ここの主人があかんのや。ええ年して、信濃屋のお半て、自分の娘ほどの年の娘に手エ出すとは。早よ。ここへ連れてきなはれ。世間体ちゅうもん考えたらどないやねん。」
「ええ。あの、待っとくれやっしゃ。・・・主人は帯屋長右衛門、娘は信濃屋のお半。・・・それ、もしかしたら、お半長とちがいますか。」
「そうじゃ。そのお半長じゃ。」
「アッハハハ。何かいな。お半長どすかいな。」
「これ!何がおかしいねん!」
「・・・そやかて、これが笑わずにおれますかいな。お半長は、とうの昔に桂川で心中しましたわいな。」
「えっ!心中したてか!しもた!汽車できたらよかった。」
』
【『動乱の幸助』-ウッキペディアより抜粋】
明治時代の大阪の街角で、『義太夫』を語る稽古のこえがきこえる。『動乱の幸助』がたまたま通りがかりに聴いたのは、【帯屋の段】の一節だろう。
・・『道理じゃ道理じゃ、コリャ親じゃわいや、親じゃわいや。・・・』
『オッ。それそれ、親じゃぞ親じゃぞ。親に向かって何を不足、コリヤ儀兵衛・・・』
これを見てもわかるように、義太夫も浄瑠璃も落語と同様に、庶民にとって敷居の高いものではなく、身近な教養娯楽のようである。自分らももっと伝統芸能を身近に気軽に鑑賞してよいのだろう、と感じた。