今朝の高知新聞に、自主上映団体『小夏の映画会』主宰の田辺浩三さんという方の文章がありました。
「人生の師、大島渚監督が死んだ」というタイトルの文です。
私が興味を惹かれたのは、大島監督のことではなくて、
話のオマケみたい話でした。
まず、大島渚監督に、田辺さんが手紙を書くキッカケになった、
窪川原発問題のことが、生々しく語られていました。
1985年、田辺さんは原発騒動かまびすしい旧窪川町に住まわれていたそうです。
当時、この町は、原発推進派と、反対派とで、大いにもめていました。
『夫婦が親子が親戚が、推進、反対に分かれ罵り合う地域だった』
『町は真空地帯になり、右翼の街宣車が走り回り、不審火、放火で家々が焼かれだし、
父親までも、「原発は危険だから金になる。大金を手にしたらよそに住めばいい」と、
口走りだし、私にも「殺しちゃお」の匿名の嫌がらせが始まる。
辛かったし、逃げ出したかった。』
そんな気持ちを抱え、大島監督に手紙を書いたのだとか。
この文章をよんで、なんとなく知ってはいた窪川原発問題が、リアルな現実として迫ってきました。
ああ、そんなことがあったんだ、そんな状態だったんだ、海外のテロ行為とさして変わらないことが起こっていたんだ、
と、今更ながら、驚きました。
それと、もうひとつ。
田辺さんが当時働いていたレコード店で、一緒に働いていた女の子。
窪川高校の文化祭で大島監督を呼びたかったが、予算の関係で諦めた時、
その女の子が、「将来、私が世界的なロックスターになり、安いギャラで窪川高校に来るからね」と、言ったとか。
そして、その子は、言葉通り、世界的なDJになった『DJカオリ』さんだとか。
本文の主題より(主題もとても良かったのですが)オマケのような話に、心を動かされた1月23日休日の朝です。
「人生の師、大島渚監督が死んだ」というタイトルの文です。
私が興味を惹かれたのは、大島監督のことではなくて、
話のオマケみたい話でした。
まず、大島渚監督に、田辺さんが手紙を書くキッカケになった、
窪川原発問題のことが、生々しく語られていました。
1985年、田辺さんは原発騒動かまびすしい旧窪川町に住まわれていたそうです。
当時、この町は、原発推進派と、反対派とで、大いにもめていました。
『夫婦が親子が親戚が、推進、反対に分かれ罵り合う地域だった』
『町は真空地帯になり、右翼の街宣車が走り回り、不審火、放火で家々が焼かれだし、
父親までも、「原発は危険だから金になる。大金を手にしたらよそに住めばいい」と、
口走りだし、私にも「殺しちゃお」の匿名の嫌がらせが始まる。
辛かったし、逃げ出したかった。』
そんな気持ちを抱え、大島監督に手紙を書いたのだとか。
この文章をよんで、なんとなく知ってはいた窪川原発問題が、リアルな現実として迫ってきました。
ああ、そんなことがあったんだ、そんな状態だったんだ、海外のテロ行為とさして変わらないことが起こっていたんだ、
と、今更ながら、驚きました。
それと、もうひとつ。
田辺さんが当時働いていたレコード店で、一緒に働いていた女の子。
窪川高校の文化祭で大島監督を呼びたかったが、予算の関係で諦めた時、
その女の子が、「将来、私が世界的なロックスターになり、安いギャラで窪川高校に来るからね」と、言ったとか。
そして、その子は、言葉通り、世界的なDJになった『DJカオリ』さんだとか。
本文の主題より(主題もとても良かったのですが)オマケのような話に、心を動かされた1月23日休日の朝です。