10月13日の日蓮聖人の入滅の日、前後から咲き始め、年をまたいで、4月8日のお釈迦様の聖誕日ごろに満開となる珍しい桜の木がある「妙蓮寺」という寺があるというので出かけた。
大本山妙蓮寺は、宗祖日蓮聖人より帝都弘通の遺命を受けた日像聖人によって、
永仁2年(1294)に創建された。日像がその遺命を果たすため鎌倉より京都へ上っとき出会った、五条西洞院の造酒屋の中興氏(柳屋仲興入道妙蓮法尼)の帰依を受けて、柳屋邸内に一宇を建立して聖人を請じ、山号を柳の字を2つに分けて卯木山(うぼくさん)妙法蓮華寺と称した。 これが妙蓮寺の縁起として伝わっている。
たびたびの法難にあったが、応永年間(1420年頃)本勝迹劣、本迹一致の論争を契機に妙顕寺を退室した日慶聖人によって柳屋の地に本門八品門流として再興した。その後、寺域を堀川四条に移し、皇室ならびに伏見宮家と関係深い日応僧正を迎えるにおよび、皇族始め足利将軍義尚等の参詣多く、また今出川家の公達日忠聖人は、三井寺より改宗して当寺に投じて学室道輪寺を創立し、本化教学の道場を開き隆昌を極め、山門の様式も格式高いものとなった。
天文5年(1536)には、法華宗の隆昌を妬む比叡山天台宗を筆頭に諸宗の僧俗10万人によって襲撃され、妙蓮寺をはじめとする日蓮聖人門下21本山は、ことごとく灰燼に帰し堺に立ち退いた。
天文11年(1542)大宮西北小路に復興され、天正15年(1587)に豊臣秀吉の聚楽第造営に際して現在地に移転した。当寺は、1km平方メートルの境内に塔頭27ヶ院を有する大寺院であったようだが、天明8年(1788)の大火によって、そのほとんどが焼失し、わずかに宝蔵・鐘楼を残すのみとなった。寛政元年より漸次復興して、現在は塔頭8ヶ院を残す。本尊は日蓮自筆と伝える十界曼荼羅という。
では「御会式桜」(おえしきざくら)について説明しておこう。
冒頭で紹介したように日蓮聖人の入滅の日頃から咲き始め、お釈迦様の聖誕日頃に満開となる珍しい桜で、この桜の散った花びらを持ち帰ると「恋が成就」すると言われており、桜の季節になると若者たちの参拝が絶えないとのこと。樹高は6m、枝張約10m、幹周62cmだそうだ。
桜のほかに「妙蓮椿」として伝えられている椿の木がある。
この椿は、妙蓮寺の一塔頭玉龍院が預かり育てていたが、1962年に火災に遭い焼失している。当寺の什宝として伝えられた「妙蓮寺記」に「洛陽妙蓮寺境内図」という部分があり、昔の境内の玉龍院と記された傍らに「椿の木」と書かれていて、昭和30年頃には立派な椿として年々花を咲かせていたという。また、室町時代に活躍した連歌師宗祇(1421~1502)の「妙蓮寺椿」の図と賛との掛軸の写しが載せられている。妙蓮寺椿はこの時すでに在り、数えて5百年以上の歴史があるということになる。妙蓮寺椿は本来紅のやや濃い大中輪、花弁は4~5枚だという。
石庭や襖絵が見もので、奥書院前の「十六羅漢石庭」は、桂離宮の造営を指示した妙蓮寺の玉淵坊日首上人が作庭したもので、中央に置かれた石は「臥牛石」と言い、豊臣秀吉によって伏見城から寄進されたもので、また、玄関や奥書院の襖絵は長谷川等伯一派によって描かれた金碧画があり、これも豊臣秀吉が寄進したものだと言われている。他に鎌倉時代の法華経、本阿弥光悦の「立正安国論」一巻などの重要文化財の寺宝がある。
境内の本堂前には御会式桜や木蓮や白木蓮、芙蓉など境内には四季に合わた花々が植えられている。
また、赤穂浪士の遺髪と祀った墓や、御所から拝領され移設された山門、江戸時代初期に建立された本格的な鐘楼など、多くの歴史的な建造物などがあり、歴史愛好家には見逃せない寺である。
所在地:京都市上京区寺之内通大宮東入ル妙蓮寺前町857。
交通:JR京都駅から京都市バス9号系統、堀川寺ノ内下車、寺ノ内通りを西に徒歩4分。京阪電車で四条駅下車、南座前から京都市バス12号系統、堀川寺ノ内下車。
大本山妙蓮寺は、宗祖日蓮聖人より帝都弘通の遺命を受けた日像聖人によって、
永仁2年(1294)に創建された。日像がその遺命を果たすため鎌倉より京都へ上っとき出会った、五条西洞院の造酒屋の中興氏(柳屋仲興入道妙蓮法尼)の帰依を受けて、柳屋邸内に一宇を建立して聖人を請じ、山号を柳の字を2つに分けて卯木山(うぼくさん)妙法蓮華寺と称した。 これが妙蓮寺の縁起として伝わっている。
たびたびの法難にあったが、応永年間(1420年頃)本勝迹劣、本迹一致の論争を契機に妙顕寺を退室した日慶聖人によって柳屋の地に本門八品門流として再興した。その後、寺域を堀川四条に移し、皇室ならびに伏見宮家と関係深い日応僧正を迎えるにおよび、皇族始め足利将軍義尚等の参詣多く、また今出川家の公達日忠聖人は、三井寺より改宗して当寺に投じて学室道輪寺を創立し、本化教学の道場を開き隆昌を極め、山門の様式も格式高いものとなった。
天文5年(1536)には、法華宗の隆昌を妬む比叡山天台宗を筆頭に諸宗の僧俗10万人によって襲撃され、妙蓮寺をはじめとする日蓮聖人門下21本山は、ことごとく灰燼に帰し堺に立ち退いた。
天文11年(1542)大宮西北小路に復興され、天正15年(1587)に豊臣秀吉の聚楽第造営に際して現在地に移転した。当寺は、1km平方メートルの境内に塔頭27ヶ院を有する大寺院であったようだが、天明8年(1788)の大火によって、そのほとんどが焼失し、わずかに宝蔵・鐘楼を残すのみとなった。寛政元年より漸次復興して、現在は塔頭8ヶ院を残す。本尊は日蓮自筆と伝える十界曼荼羅という。
では「御会式桜」(おえしきざくら)について説明しておこう。
冒頭で紹介したように日蓮聖人の入滅の日頃から咲き始め、お釈迦様の聖誕日頃に満開となる珍しい桜で、この桜の散った花びらを持ち帰ると「恋が成就」すると言われており、桜の季節になると若者たちの参拝が絶えないとのこと。樹高は6m、枝張約10m、幹周62cmだそうだ。
桜のほかに「妙蓮椿」として伝えられている椿の木がある。
この椿は、妙蓮寺の一塔頭玉龍院が預かり育てていたが、1962年に火災に遭い焼失している。当寺の什宝として伝えられた「妙蓮寺記」に「洛陽妙蓮寺境内図」という部分があり、昔の境内の玉龍院と記された傍らに「椿の木」と書かれていて、昭和30年頃には立派な椿として年々花を咲かせていたという。また、室町時代に活躍した連歌師宗祇(1421~1502)の「妙蓮寺椿」の図と賛との掛軸の写しが載せられている。妙蓮寺椿はこの時すでに在り、数えて5百年以上の歴史があるということになる。妙蓮寺椿は本来紅のやや濃い大中輪、花弁は4~5枚だという。
石庭や襖絵が見もので、奥書院前の「十六羅漢石庭」は、桂離宮の造営を指示した妙蓮寺の玉淵坊日首上人が作庭したもので、中央に置かれた石は「臥牛石」と言い、豊臣秀吉によって伏見城から寄進されたもので、また、玄関や奥書院の襖絵は長谷川等伯一派によって描かれた金碧画があり、これも豊臣秀吉が寄進したものだと言われている。他に鎌倉時代の法華経、本阿弥光悦の「立正安国論」一巻などの重要文化財の寺宝がある。
境内の本堂前には御会式桜や木蓮や白木蓮、芙蓉など境内には四季に合わた花々が植えられている。
また、赤穂浪士の遺髪と祀った墓や、御所から拝領され移設された山門、江戸時代初期に建立された本格的な鐘楼など、多くの歴史的な建造物などがあり、歴史愛好家には見逃せない寺である。
所在地:京都市上京区寺之内通大宮東入ル妙蓮寺前町857。
交通:JR京都駅から京都市バス9号系統、堀川寺ノ内下車、寺ノ内通りを西に徒歩4分。京阪電車で四条駅下車、南座前から京都市バス12号系統、堀川寺ノ内下車。