読み始めたのが東京オリンピックが始まる少し前だから、約半年かけて読んだことになる。
1964年の東京オリンピックを文学者の視点で綴ったもので、91の記録文学が集められてている。
著者の一部を羅列すると、井上靖、三島由紀夫、石原慎太郎、大江健三郎、安岡章太郎、壇一雄、北杜夫、遠藤周作と、錚々たる当代の名手達。
これを読むと、この時のオリンピックも反対意見があったのがわかる。
たとえば石川達三の「開会式に思う」には、
日本でオリンピックを開催することについては、批判的な意見も少なくなかった。時期尚早という説、お祭り騒ぎだとする説、もっと他にすることがあるだろうという意見。…私もかなり批判的だった。たかがスポーツではないか。何のためにそんな大騒ぎをするのか。…
という記述がある。今年の反対意見とそう変わらない。
ただほとんどの著者はやってよかったという論調だった。
石川達三も
しかし、ここに九十四カ国の選手六千人が集っている。かつては互いに殺し合い憎しみあった第二次世界大戦の参加諸国が、あの時の恨みと憎しみとを忘れて、各々の国の旗を掲げ、美しいユニホームを着て、整然と入場式に参列しているのだ。これが国と国との間の平和を進め親睦と理解とを進めるものであるならば、何と安いことであろう。
という文章で結んでいる。
三島由紀夫は「東洋と西洋を結ぶ火」の中で
オリンピック反対論者の主張にも理はあるが、今日の快晴の開会式を見て、私の感じた率直なところは
「やっぱりこれをやってよかった。これをやらなかったら日本人は病気になる」
と書いている。
これも今年の状況と共通するのではないかと思った。
ちなみに三島はこの本の中に11の回想録を書いているが、他の作者を圧倒するほどの文章力。さすが「世界のミシマ」。
(競歩に対して)駆けるに駆けられぬその厄介な制約は、ちょうど夢の中で悪者に追いかけられるときの動きのようで、上半身は必死に急いでいるのに、下半身はきちんと一定の歩度を守るのだ。(「空間の壁抜け男」)
この人がペンをとったら対象がなんであれ、煌めく芸術にになってしまうからすごい。日本語って綺麗だなって思わせてくれる。
女の子たちの速いのにはあきれた。あれで女かと思った。
と書いたのは尾崎一雄(「陸上初の日の丸」)。
また、
八個のハードルを、それこそ、行き着く暇もなく、つぎつぎにとびこえて行く、ということは、とりわけ女性にとっては、かなり過酷な負担をしいられることになるはずである。だいたい、女の子が、ものを、またいだり、とびこえたりする、という行為は抵抗を感じさせる。ハードルを飛び越える時の、体が、キュッとしぼられるような、ねじられるような、あの瞬間は、見ていても、いたいたしい気がする。しかし、そんなことを感じているのは、私くらいのものであるらしい。(「目に残るコース掃く姿」菊村到)
と書いたのは菊村到(「目に残るコース掃く姿」)。
今年これと同じようなことを言った張本氏は批判に晒された。
結局何を言いたかったのか、ということを見極めるのは難しい。
国が持っている原爆の数が金メダルの数に比例する昨今のオリンピックでは、参加者のユニットを国家という形で考える限り政治性というものを完全に脱色するわけにはいくまい。(「人間自身の祝典」石原慎太郎)
北京オリンピックの外交的ボイコット。スポーツを政治問題化しない、というのは無理なのかもしれない。
三島も、
ここでは国や民族が背後にいて、各々の国の森や湖や海や太陽の光や山や花や都会や、すべてのものが選手の背中から、息をひそめて勝敗を見守っているのである。(「ボクシングを見て」)
と書いている。
心に残った文章は、Wordで入力した。
長いが上記引用を除き列挙する(一部重複)。
しかしこれだけ多数の群集を見ると、オリンピックを冷眼視した日本インテリも、理屈も何もなくなってくるだろう。まあ何でもいい。始めたからには、成功させなければならない。(「開会式を見て」獅子文六)
日本でオリンピックを開催することについては、批判的な意見も少なくなかった。時期尚早という説、お祭り騒ぎだとする説、もっと他にすることがあるだろうという意見。…私もかなり批判的だった。たかがスポーツではないか。何のためにそんな大騒ぎをするのか。…
開会式は金のかかったセレモニーだ。この日のために、参加各国はどれほどの犠牲を払ったことだろう。聖火を東京に運ぶことだけについても、何万という人達が苦心を払い犠牲をはらったはずだ。スポーツの技を競うためだけになぜこんな大きな犠牲を払わなくてはならないのか。
しかし、ここに九十四カ国の選手六千人が集っている。かつては互いに殺し合い憎しみあった第二次世界大戦の参加諸国が、あの時の恨みと憎しみとを忘れて、各々の国の旗を掲げ、美しいユニホームを着て、整然と入場式に参列しているのだ。これが国と国との間の平和を進め親睦と理解とを進めるものであるならば、何と安いことであろう。(「開会式に思う」石川達三)
民族意識も結構ではあるが、その以前に、もっと大切なもの、すなわち、真の感動、人間的感動というものをオリンピックを通じて人々が知り直すことが希ましい。(「人間自身の祝典」石原慎太郎)
我々はただ、自分と同じ人間が、いかに闘い合うか、と言うことを見守りたい。そこにあるのは、日本の代表選手ではなく、ただ一人の人間なのである。同様に、外国からやってきた選手もまた我々と同じ一人の人間である。(「人間自身の祝典」石原慎太郎)
いかなる勝者にも惜しむことなく拍手し、敗れ去るものの間にもなお、勝者に勝る人間の劇があることを見逃すまい。「人間自身の祝典」石原慎太郎)
この《子供の時間》のために費やされた数千億の金、厖大な労力、数人の労務者の生命、それらをつぐなうための日々、大人の退屈で深刻な日常生活は、オリンピック後に再開され、そしてはてしなくつづくのである。(「七万三千人の《子供の時間》」大江健三郎)
ところでオリンピック大会全体を通して、私は開会式の日こそ最も美しい瞬間であろうとかねてから予想していた。なぜなら、まだ勝者も敗者もきまらないからである。九十四カ国のすべての青年たちが、希望だけをいだいてここに集まっているから美しいのだ。(「人生の花園」亀井勝一郎)
しかし、もっと美しかったことは、世界各国の若者たちが若さを晴れ着に包んで一堂に会したことであり、しかも、アルファベット順に並んで、大国も小国もなく、それぞれ自分の出番を守って堂々と更新したことである。(「オリンピック・開会式を見る」井上靖)
技術を国家にささげているという言い方はあるかも知れない。しかし国家というものは、その呼び方の荘重さの割には、あいまいな内容を持っている。たとえば相手と殴り合うという行為が、国家の栄誉をかけたスポーツであれ、母校の名誉のための試合であれ、暴力団の××組のナワバリ争いのケンカであれ、そうそう本質的には違わないように思えるのは、私が女だからなのだろうか。(「体操鑑賞記」曽野綾子)
自分の身体のバランスを自らつき崩すことによって、相手の身体のバランスをつき崩し、そして、崩れた自分の身体のバランスが、相手の崩れた身体のバランスを利用することによって、かろうじて均衡を保つという、柔道独特の肉体の合理化行動による賭けを、外国人は、その選手さえもが、まだ東洋の神秘の中に含めて感じとっているようだ。それが想像を絶した、激しい鍛錬で作り上げられる肉体と精神による発現であるとは、果して、今日、幾人の外人選手が会得しているであろうか。合理的行動だけでは肉体の範囲にとどまっているが、賭けるということには、精神の関与が必要である。現代の日本人のどれだけの部分が、自分たちの生きる場所で、それをよくなしつつあるのか。(「優越感共の悲しさ」田村泰次郎)
勝つ人間の影には必ず負ける人間がいる。人間はどうしてこんなに、勝ち負けが好きなのだろうか。もっとのんきにスポーツを楽しめないものなのだろうか。(「“はやる馬”に敗れた“武者人形”」瀬戸内晴美)
人間が魔につかれて愚かな戦争を起こさぬ限り、人間の美と力と尊厳の祭典は所を変え、きりなくくり返されていく筈なのだ。
聖火は消えず、ただ移りゆくのみである。この採点は我々に、人間がかくもそれぞれ異なり、またかくも、それぞれが同じかということを教えてくれた。
この真理がなぜに政治などという愚かしいエネルギーの前に押し切られるのであろうか。(「聖火消えず移りゆくのみ」、石原慎太郎)
即ち、心身をかけて努め、闘うということの尊さをである。われわれは、今日の文明の非人間的な便利さにまぎれて、それを忘れていはしないだろうか。
それを知ることこそが、この巨費を投じて我々が催した祭典の、唯一の、そしてかけがえない収穫でなくてなんであろうか。(「聖火消えず移りゆくのみ」、石原慎太郎)
もちろんあたりまえの国家意識や国民意識なら、あらゆる選手がもっていて当然である。日本では、日章旗に対する記憶が、第二次大戦でけがされたため、国家の象徴に対する愛情がうすれていた。こんどは、それを回復するによい機会であったのと同時に、スポーツを見る国民にはスポーツを通じて、国民の中の不必要なまでの分裂が一つのものになろうとするよいチャンスであった。オリンピックの悪口を言った人に限って、テレビに現れる競技を熱心に見たという話があるのは面白い。(「国家意識と人間」、平林たい子)
かつて地球上のある一国が、地球上のある一国に原爆を投下したということは事実である。そして投下した国と投下されて国の名前もよく分かっている。わからないことを知ろうとする努力はよろしいけれども、分かっていることを忘れてしまうという習慣はよろしくない。(「日本人の国際感覚」、武田泰淳)
幼稚園のさらにそのまた予備校へ子どもを送り、越境して名門校へいれ、家庭教師をつけ、ひたすら東大へ入ることだけを目標にしている母親たちと、日本のスポーツ指導者たちはそっくり同じことをやっているように見えるのである。
なるほど母親が一緒になってねじり鉢巻でがんばれば、子どもの方も力を出し切って、どうやら大学へ入るくらいまでは、精一ぱいのびるかもしれない。
しかし、その子が大学をでて社会にでてもなお、本当に伸びるかどうかは保証の限りではないのである。大学では、都会出身の手のかかった優等生の間にまじって、ときどき、名前をきいたこともないような地方の高校から、ぽつんと一人入ってくる青年がいる。家庭教師も予備校も、共に徹夜をしてくれる母親もまったくなかった学生である。そういう若者が、往々にして豊かな素質を貯えている場合が多い。
スポーツもそうだ。(「東京五輪の“大いなる遺産” 」、曽野綾子)
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