晴耕雨読、山

菜園・読書・山・写真…雑記

今度は感じとりたい『墨のゆらめき』

2023年12月25日 | 読書

「筆耕士」という職業がある。依頼を受けて賞状や慶弔案内の宛名などを毛筆で書く人のことだ。この本はホテルマンと筆耕士との交流を面白おかしく、何とも味わい深く綴る。探し歩いて男の営む書道教室を始めて訪れたホテルマンは破天荒な人物ぶりに驚きの連続。副業の代筆屋の手伝いもするはめになり、二度と訪ねるものかと帰るがそうはならない。書道家である男に引き込まれていく。話の展開はもちろんだが、読み手も興味がそそられるのは書の世界。『送王永』(おうえいをおくる)という漢詩を「欧陽詢」風に書くということは、どういうことか。調べてみると、端正な書風で楷書の手本の代表という。旅立つ友への送別の詩が、書家の全身と全神経による筆つかいで生き生きと蘇る。紙のうえに墨が流れ、その香りとともに<千年以上も前の人々の息吹、目にした風景、感じた気持ち>が伝わってくる。今まで見逃していた”ゆらめく墨の香り”。今度、そうした書を目にする機会あれば少しでも受けとめる努力をしたい。

                   


校閲記者の熱い思い『校閲至極』

2023年12月12日 | 読書

時代劇で聞いたような言葉「恐悦至極(きょうえつしごく)」ならぬ『校閲至極』の題名。新聞社の校閲セクションで多くの誤字や不適切表現に出会い、時には苦悶する事例を紹介する。面白おかしく頷き、考え込んでしまう内容も。「あとがき」でタイトルを考えた際に<(校閲とは)人の間違いを見つけて「悦」に入るような仕事というよりは、間違いを見逃して「恐れ」を抱く方が多い>とあるとおり、日々真剣なのである。四字熟語の「恐悦至極」の意味(恐れつつしみながらも大喜びすること)にふけることなく、赤ペンを手に次の文字・文脈に目を走らせるのだ。あらためて調べたのだが、「校正」とは(表記の誤りを正すこと)、「校閲」とは(情報・内容の誤りを正すこと)。もちろん校閲記者は両方に鋭く目を光らせる。例えば表記の誤りは「乳洞」は「鍾乳洞」が正しいし、「追及」・「追求」・追究」も使い分けが必要だ。内容の誤りは「新宿区の南新宿駅」は「渋谷区」が正当。最近自身が目にしたものでは、地元の議会だよりに「長野県甲府市議会」、購読紙で訂正されていたが「恋物」は「恋物語」など。つい先日も知人からのメール文で「拡張高い文章・・・」について早速、パソコンの変換ミスと「格調高く」連絡が届いた。この本の最後に(高みから誤り切り捨てることではなく)<誤りが発生する現場の感覚や正解のない問題にあがき続ける姿を伝えることを重視した>とある。単なる解説本でも苦労話でもない。より正確に物事を伝えたいという校閲記者の熱い思いを受けとめた。

     


もう一度列車に揺られて『終着駅』

2023年09月10日 | 読書

「鉄道紀行文学」を確立したとも言われる著者が亡くなって20年。その6年後に刊行されたこの本は雑誌、新聞などへの連載、寄稿文を単行本化したもの。相当な年数を経ているが、今もありありと車窓からの風景や鉄道旅の深い味わい、それらを通しての人生観など読みごたえは十分。最初の「終着駅」の章で挙げている旅情を誘う要因に著者の眼差しの滋味を感じる。風景絶佳ではない沿線風景、土地の人がぱらぱら乗っている車内、新型車両ではなく速度も遅い列車、木造の古い駅など。<日中に走らない日中線(熱塩)>は、これらの条件をすべて備え、駅に降り立つと<旅情を通り越して胸がつまる。>と語る。続く2章以降の「車窓に魅せられて」「鉄路を見つめて」、繰り返し書かれている冬の旅の魅力、鶴見線、そして時刻表への思いなどにも引き込まれる。完成の一歩前で工事中止となった智頭線を著者独自の想像で作成した時刻表は、その後に第3セクターで開業した現在の時刻表と見比べてみたい。東北、上越新幹線の列車愛称名が決まるいきさつも面白い。長野・北陸新幹線「あさま」の登場で消えた今は無い上越新幹線の「あさひ」の名も出て来る。時刻表を愛読書とした著者のこの一冊を読み進むうちに若い頃を一気に思い出させてくれた。上野・青森間を「ゆうづる」「はくつる」の寝台列車に揺られ、青函連絡船で津軽海峡を渡り、函館本線、根室本線で郷里へ帰省したこと。時刻表の小さな文字を追いながらの日々の仕事など尽きない。自分の旅はマイカー中心となったが運転免許証の返上もそう遠くはない。もう一度、この本を手に鉄道の旅への思いが脹らむ。

         

 


森村ワールドを今も道案内『森村誠一 読本』

2023年08月15日 | 読書

先月亡くなったベストセラー作家・森村誠一の作品は遠い昔に読んだ記憶がある。ただ、映画化された『人間の証明』や江戸川乱歩賞受賞作の『高層の死角』など数えるほど。推理小説が読書対象から離れるとともに他の領域の著作からも遠ざかっていた。近年、興味を覚えたのは小説そのものより写真俳句や反戦平和の発言、うつ病の克服を書いたものなど。今回、図書館の特設コーナーでたまたま手に取り、氏の多くの作品群や多彩なジャンルをあらためて知ることになった。20年以上前に出版されたものだが、その内容は色あせた印象はない。60歳台に入った氏が半生を語る冒頭のエッセーや書き下ろしの短編推理、時代推理。そして作品紹介では長編・短編のミステリー、歴史・時代小説を網羅、何人もの筆による作家論は今も新鮮に“森村ワールド”を道案内する。住んでいた熊谷市での終戦前日の空襲、学生時代の山登り、ホテルマンとしての体験が作品にどう投影、問いかけしているのか。機会のなかった時代小説の『忠臣蔵』、戦記物『ミッドウェイ』や関東軍731部隊による生物兵器研究、人体実験を告発した『悪魔の飽食』など、ぜひ読んでみたい。

                             


終結への国際議論を『ウクライナ戦争をどう終わらせるか』

2023年07月20日 | 読書

ロシアの理不尽な侵攻により始まったウクライナの戦いは、もう1年半近くになる。街が硝煙に覆われ、多くの一般市民の犠牲者や海外への避難という悲惨な状況が今なお続く。一日も早く、ウクライナの人々に出口の灯りでも見せてあげられないものか、とこの本を手にした。本書では、ジャーナリスト経験などが生かされた著者の調査、取材による論考に多くの納得を得た。特に第2章<これまでの戦争はどう終わってきたのか>の第2次大戦以降の世界各地の例を詳述した部分。アメリカや旧ソ連、ロシアの大国が関わりを持ったベトナム、アフガニスタン、イラクなどへの侵攻、軍事介入である。戦争の終わり方には「軍事的勝利」か「交渉による和平合意」しかない。事例において、大国が小国に軍事的侵攻してもほとんど失敗に終わっていること。侵攻された側は軍の撤収を目標に抵抗を続け、最終的には勝利を得ている。そこには<大国の撤収が起きる前に、何らかの和平交渉と和平合意が必要だった>ということを強調。また別の章<戦争終結の課題と解決への模索>での<領土の問題、戦争犯罪、安全保障の枠組み、賠償問題と戦後復興>も過去の具体例から現実的な取り組みを示唆する。最近もウクライナ産穀物輸出合意の停止など続くロシアの横暴。それを前に望みが消えそうになるが、戦争終結にむけ国際社会において議論と具体的な検討を。関係する大国であるアメリカや中国、周辺国トルコなどが主導して本書副題にもある<「和平調停」の可能性>に真剣に向き合ってほしい。非道で残酷なシーンが日常の出来事のごとく新聞・テレビで伝えられなくなる日が来ることを願いたい。

        

(以下「国連UNHCR協会」の活動支援依頼チラシより)

    

    

  


思い出あふれる人生地図『道をたずねる』

2023年07月13日 | 読書

中学生の頃からの変わらぬ三人の友情を縦糸に、それぞれ波乱の人生が横糸に描かれて幾年月。クスノキの下で約束した三つの誓い「友のピンチは助けること」「友の頼みは断らないこと」「友に隠し事をしないこと」。一見簡単そうに思えるが、この物語ではいくつもの究極の場面が登場。三人はお互い、まるで悩むことなく当然のように実行していく。フィクションといえどもそのことへの驚きと感動の連続。そして、もう一つは「地図屋」という住宅地図づくりの調査と販売の仕事。一軒でも住んでいる家があれば山の奥にもたずね歩き、都会では数えきれない無数の会社が入居する高層ビルを何百と調べ上げる。初めての土地での街角の看板、登記所など見る機会は少ないが、出来上がるまでの苦労の数々を知った。その三人は自分と同世代の年齢となり一人が欠け、もう一人も人生の結末が見えてきた。戦争の影をも映し込み、昭和の時代を懐かしく思い出せてくれた作品。最後にクスノキを訪れて述懐する。<ここが自分の人生地図の始点であり、終点でも・・・>いい友、家族に恵まれた人生。いい本だった。

       


夕星を眺めて思い出したい『汝、星のごとく』

2023年06月08日 | 読書

瀬戸内の小さな島で出会ったふたり。お互い高校生だった17歳から紆余曲折を経て32歳までのストーリー。銀色に輝く穏やかな海、都会の喧騒とは無縁の世界で、甘くせつないときが流れる。刺激のない島で交わされるのは他人の噂話。似たような境遇のなかで将来の夢を抱きつつも都会と島に別れ、季節が流れていく。ふたりの巡る日々を横糸に、深刻なヤングケアラーやLGBTの問題などが縦糸に織り込まれ、ゆれる心のうち。別離と究極の再会のとき、念願かなって花火を見るシーンがある。花火が<揺れながら地上から放たれて・・・>と打ち上がり、光り輝き花開いた後に<力尽き、尾を引いて海へと落ちていく幾千の星たち>の描写。二人の砂浜に押し寄せては引いていく波の音、一番星が見え始めるトワイライトタイムなどの描き方には唸ってしまう。さすが全国の書店員が絶賛する本屋大賞、作者2度目の受賞作だけある。

       

       


山への思いは果てなく『バッグをザックに持ち替えて』

2023年05月11日 | 読書

暑さに弱い大型犬のために軽井沢に移住した著者が山の虜になってしまう。近くに見える浅間山での苦しい登りに音を上げて途中リタイア。もう山に登らないと決めた最初。愛犬を亡くした喪失感から逃れよう2度目の登山も同様に途中まで。でも、頂上に立った時の景色や気持ちを想像して「また登りたい」との心境になる。以降、登山の装備やトレーニングの準備が念入りに描かれ、日帰りの浅間山から山小屋泊りへ入り込む。北アルプスの涸沢、八ヶ岳、谷川岳、富士山、冬山へと。そしてエベレストを近くに望む5545mのカラ・パタールへのトレッキングに。読むほどに自分も登った山々が、小説家の手によって生き生きと蘇ってくる。登る息づかいや難所通過、苦心の末の得られた眺望、達成感に同感。著者自身、作家としての生き方を思いめぐらすシーン。女性登山家としてエベレスト初登頂した田部井淳子さんの半生(『淳子のてっぺん』)を書くことになったことも興味深い。最後に語る四季に恵まれ、厳しさと優しさのある日本の山への思い<山との出会いは、自分との出会い。体力の続く限り、私らしく登り続けていきたい>は胸にストンと落ちた。

        


朝日流・始末の付け方か『朝日新聞政治部』

2023年04月25日 | 読書

あえてサブタイトルを付けなかった筆者の意図は何か。日本のマスメディアの代表格の新聞社、その中で歴代政権の政治姿勢に厳しく向き合ってきた部門である。飾りを付けず、その実像をさらけ出す意味でもあるのかと読み始めた。まずはその実情が実在人物とともに詳細に語られる。社内でもエリート集団のトップである政治部長の多くは経営層に抜擢。社会部や経済部との紙面内容をめぐる激しいやり取り、人事についても同様。他社とのスクープ合戦の中で政治家と密着する距離感も微妙に描く。そして筆者が退職を選択することになる「吉田調書」の顛末と責任問題、この書の核心に入る。東日本大震災当時の東電福島第一原発所長の聴取内容をスクープした記事を後に誤報として取り消した件である。<「説明不足」や「不十分な表現」は認めるも、誤った事実を伝えた「誤報」ではない。(朝日新聞を揺るがし、経営責任に波及の)「慰安婦」「池上コラム」問題をやわらげる狙い>と言い切る。これ自体に読みごたえあったが、それ以上に期待していた内容は別にあった。20代の頃より長く購読者であった一人として近年思うことがある。世間一般のバランスを意識、優等生的な論調に陥ってはいないか。政権・与党へのチェック機能、少数派・弱者への肩入れに物足りなさを感じる。現場記者から遠いその水脈には政治部、経営層の深謀遠慮があるとみる。よくある大企業不祥事の始末記に終わらせず、筆者には続編を願いたい。(退職した筆者のWeb紙「SAMEJIMA TIMES」

       

 

      

 


放置されてきた根源は・・・『日米地位協定の現場を行く』

2022年08月13日 | 読書

米軍基地があるゆえの様々な問題、特に国内法規が適用されないことによる市民生活への影響や人権問題の存在が指摘され続けてきた。基地が集中している沖縄に目が行きがちだが、本を手にして驚くのは全国に点在する在日米軍施設・区域の数の多さ。面積の大小や共同使用施設も多く含まれるものの日本各地、132ヶ所にも。そこには<占領期からの米軍の特権が現在に至るまで引き継がれている>と問題提起する。日米地位協定の問題は、マスコミに取り上げられることの多い事故、事件に関わる警察捜査権や裁判権だけではない。著者は問題点を四つに整理。まず米軍の民間空港・港の使用や米軍基地の環境汚染、沖縄のコロナ感染拡大にも関係した検疫の問題など条文上の規定の問題。次いで条文の規定が守られていない問題、さらに条文に規定が無いために起きている問題、そして協定上の規定と実際の運用が異なっているために起きている問題と指摘。それらについて具体例を示す。基地外の訓練に関する制限が無いために基地間移動として飛行訓練を常態化、騒音問題や市街地での部品落下など住民生活を脅かす。そうした例を地方や首都圏の基地をめぐって深掘り、アメとムチに揺れる住民の本音をもレポートする。基地との共存共栄、国の交付金依存体質の影、街づくりのはずが人口減の引き金など複雑な事情が垣間見える。特に印象に残ったのは国防と言いながら<住民保護の欠落した南西防衛>、そして嘉手納基地に代表される沖縄の実相をあらためて知る。著者は最後に、日米地位協定が改訂されてこなかった根源として<(地方、辺境に押し付けられた米軍基地に)考える必要性も無く、関心を持たなかった我々にあるのでは>と問う。ウクライナ以降、防衛力増強とともに日米同盟の強化が声高に言われ、基地周辺住民の訴えもかき消されがちになる。この本を機会として目に触れた「日米地位協定の改定を求めて-日弁連からの提言」も読んで、深く考えてみたい。

   

 


不寛容に、私たちは・・・『彼は早稲田で死んだ』

2022年07月20日 | 読書

もう50年も前になる。あの大学紛争中、多くの若者が内ゲバと称されるセクト内あるいは敵対するセクトとの争いの中で死んだ。犯罪白書によると、その数は100人近いとも。中には内ゲバの巻き添えや事実誤認などで亡くなった学生や一般人も少なくないと言われる。そのひとつに、同じ大学で遭遇した元新聞記者の著者。長く心に抱え込んでいたテーマに決着をはかるべく、半世紀の時を経て追った執念のルポである。当時の記憶、記録をもとに大学構内におけるリンチの末の虐殺がどのように起きたのか、学内の状況や大学当局の対応、決起した一般学生が内部分裂により闘いを終えるまでの過程が克明に記される。事件発生1年後、実行犯のひとりの供述から「密室殺人」の全容が解明された。本の後段では転向した二人に接触、リンチ状況を詳述したひとりから事件への思い、贖罪の人生について取材。著者は<暴力行使を正当化するイデオロギーの魔力>とともに<敵味方の選別をめぐる組織の論理の過酷さ>に戦慄を覚えたと書く。そして二人目、当時のセクト幹部とは対談形式で当時と今に至る心境を聞き取る。正直に思いを吐露していると読める一面、事件そのものへの謝罪やセクトに対する評価が明確に語られていない不満が残る。ただ最後の「寛容」「不寛容」のやり取りで<人間の本質は寛容、人類は寛容の方向に進化してきた。自分なりの性善説を広めていければ>の言葉に少し救われる。「寛容・非暴力」が「不寛容・暴力」に対して絶対的な劣勢は、文中にも出て来る香港やミャンマーの若者、市民の闘いを見ても然り。世界の悪者、ロシアのプーチンに「寛容」の心が芽生えるとはとても思えないが、それでも長い歴史の中で信じたい。勉学途中だった彼と同様、多くの無念の死を無駄にしないためにも。

         


兄弟とは・・・『黛家の兄弟』

2022年06月16日 | 読書

武士社会の時代、筆頭家老の家に育った3人の兄弟の生きざまと深い絆。青年期から後年まで、末弟の主人公の心情を通して描かれる。藩の実権を握ろうと様々な画策を行なう悪役の次席家老。その息子を斬り殺してしまった次兄に主人公は役目柄、切腹を命じざるを得ない。何とか助命を図ろうとする主人公と長兄、父も交えての心の葛藤、緊迫の場面は大いに読ませる。そして時は流れて13年後、今や筆頭家老の座に就いた仇敵に重用され、長兄とも付き合いを絶っていた主人公。ついに積年の意趣返しに出る。大いなる野望が潰えた相手が狼狽して発する問いに対して決然と言い放つ「(それはわれらが)黛家の兄弟だからでござる」と。何と気持ち良い場面か。冬、たれこめた暗黒の雲が取れ、一面に青空が広がるようである。長兄とも兄、弟としての会話が復活する。随所にのぞく四季の風景、登場人物のしぐさや心の動きの描写もいい。本のカバーに描かれている清々しい絵は青い水面を飛び立つ三羽の水鳥。これも兄弟だろうか。

       


交渉の総括を『消えた四島返還』

2022年05月13日 | 読書

悲惨な海難事故のあった知床半島。そのほぼ中央部にある羅臼岳の山頂を踏んだのは20年前。眼下のオホーツク海に横たわる国後(くなしり)島を、自由に往来が出来ない北方領土がこんなにも近くにあるのかと眺めた記憶がある。あの終戦時に北海道の半分をソ連領地とする計画があったとも知り、元北海道民として四島返還には人一倍関心を持ち続けてきた。この本は第二次安倍政権時代、通算27回にも及ぶ安倍首相とプーチン大統領との返還をめぐる首脳会談を追い続けた取材記録である。歯舞群島と色丹島の2島引き渡しを明記した日ソ共同宣言をベースに四島返還をめざしてきた長年の交渉から「2島先行返還」への切り換え。その道筋も見えないままの四島における共同経済活動の協議開始。選挙区山口での温泉接待など蜜月関係を演出し、レガシー(政治遺産)づくりに前のめりする安倍首相。対して、より強固さを増すプーチンの原則論的な考え方。ロシアの北方領土領有は「第2次世界大戦の結果」、「島の非軍事化」、日米安保や日米地位協定における「日本の主権への疑い」などなど。交渉停滞が続く中で軍事基地の増強や他国の経済資本の導入を含む四島の実効支配が進む。ついには「領土の割譲禁止」を明記したロシア改正憲法まで発効した。北海道新聞取材班は、そうした経緯を<重ねた妥協、残ったのは「負の遺産」>と言い切る。あとがきで<安倍政権下の対ロ外交をしっかり見つめなおすこと。浮かび上がった数々の課題をどう乗り越えていけばいいのか>と問題提起する。しかし今、非道の限りを尽くしているプーチンのウクライナへの軍事侵攻を目にするとき、そうした作業は果たして意味があるのか。そんな思いすら抱くが、次につなげる総括は政治の責務としてぜひやってもらいたい。それが無ければ手が届きそうなあの島影は永遠に戻っては来ない。

        

 

(表紙裏より)

 


根源的な問題を考えた『小説8050』

2022年03月11日 | 読書

時折り、新聞やテレビに出て来る「8050問題」。一般的には80代の親が家に引きこもっている50代の子どもの面倒をみるという社会問題を指している。100万人とも言われる引きこもりの当事者と家族をテーマとしたこの物語。ページをめくるごとに出て来る壮絶であり、深刻な場面にひと息つく間もない。幸せそうな歯科医の家に実は中学生のときに不登校になって以来、引きこもって7年も経つ子どもがいる。手を尽くしてきたが一向に改善せず、将来を想像すると悲観するばかり。ついに結婚する姉の相手の家族の前でパトカーを呼ぶ騒ぎになる。が、しかし引きこもりの原因が中学時代のいじめと初めて知る親。以降の後半部は学校と元同級生の謝罪を求める裁判へと展開するが、簡単には進まない。学校、いじめを行なった張本人の不誠実な対応の中で証拠集めに難航、予想もしない波乱も起きる。証人尋問における原告・被告側の攻防は知人の医療過誤裁判の場面をも思い出す。裁判が終結し、全てハッピーエンドとはならないものの再生へと歩み出す結末。当事者含め家族に同情するとともに深く考えさせられた。引きこもるには、さまざまな理由やきっかけがあるのだということ。この例に限らず、本人や親子関係だけでなく社会に根源的な問題が潜んでいるのではないか。「8050問題」を他人事とせずに関心を持ち続けていきたい。

          


「花うた」を聴きながら『スモールワールズ』

2022年01月21日 | 読書

文体も登場人物もテーマも異なる6つの短編からなるこの本は読み手泣かせかもしれない。それぞれの物語の出だしの情景や会話から筋書きをイメージするのに時間がかかる。出て来る一風変わった人物や暮らしぶりも想像しにくい。しかし読み進めていくうちに、そうした景色が世の中の片隅には潜んでいるようもに思えてくる。生きづらい現実や不自由さの中にいる人々に寄り添う「思いやり」や「優しさ」が沁みる。そんな作品集の中でもより異質なのは、兄を殺された妹とその刑で刑務所に服役している加害者との往復書簡で綴る『花うた』。お互いにぎこちなく始まった手紙の交換。天涯孤独となった妹は当然のごとく怒りを滲ませる。しかし幾数年を経て予想外の展開、さらに年月を経て迎えた何という結末か。手紙で始まり、手紙だけで終わる物語。読む側の想像力も大いに試され、そして涙腺緩むこと間違いなし。他の作品もそれぞれ味わいある世界を描いているが一番のお薦めである。