小さな庭

デジタルな仕事について20数年、だからという訳でもありませんが、アナログな世界に惹かれます。

日光街道第4回 栗橋宿 から 野木宿

2013-06-14 | 街道歩き

2日目は午前8時に幸手駅より隣の南栗橋駅まで電車で行き、前日の到達ポイントからスタートしました。

しばらく旧道は、国道4号、利根川と平行して続きます。街道は住宅地の中をまっすぐ進み、まもなく江戸から7番目の宿場
栗橋宿に入ります。

村の鎮守である八坂神社があり、ここの夏祭りの御神輿は盛大に行われるそうです。また、狛犬ならぬ狛鯉が鎮座し、
その横に鯉が広げる古書の石のモニュメントには、この神社の神様は、利根川の洪水時に水波の中を鯉と亀とが運んできた
ものと伝えられていました。


昭和22年の台風で利根川が決壊したときの浸水線があり、そのテープ跡は、はるか人の背を越えているものでした。

今はゆったりと流れる利根川橋をわたります。川を境に茨城県古河市に入ります。

堤防を下りてすぐに、江戸から8番目の宿場である中田宿に入ります。ここの宿場は当時の旅人の多くは江戸を発って
2日目に、ここに宿を取ったと言うのですから、昔の旅人の健脚ぶりには驚きです。

この街道には神社も多く点在していました。
源頼朝が相模国鶴岡八幡宮の分霊を勅請したと言われる鶴峯八幡神社(写真上左)
鎌倉鶴岡八幡宮にあった大銀杏と同じようにここにも大銀杏がありました。奥に見える神楽殿では、古河市の無形文財
である神楽を伝えています。(写真下左)
光了寺 静御前が帰依した寺としても有名(写真下左)

次の宿場、古河宿までは長い交通量の多い街道をひたすら歩きます。古河宿の手前に一里塚跡があるのですが、
高校校庭のグランド隅にありフェンス越しに覗くことになります。

古河宿の入り口は、すっかり整備された歩道が続き、江戸時代の大名土井藩主の城下町として栄え、日光街道宿場と
しても栄えていたようです。高札場跡、本陣跡、など古い街並みが残る整然とした街の印象をうけました。


古河宿から3キロほどで、次の野木宿に着きます。この野木宿は比較的小さな宿場だったようです。

参道を紫陽花が覆う先に野木神社があり、1600年前の仁徳天皇時に建立されたもので、樹齢1200年の大銀杏と
いい、社殿の彫刻もりっぱなものでした。

この途方もない長い歴史をもつ神社を地元の小学生が一生懸命写生していました。
近くの渡良瀬川に埋もれていたという錨(写真下左)、その船の大きさが偲ばれます。


今回の日光街道はどこも紫陽花が満開を迎えていて、日本のこの季節の美しさをあらためて感じることができました。
歩行距離13キロ

帰路につく東北本線「野木駅」は、湘南新宿ラインも通っていて、乗り換えなしの2時間、グリーン車とビールを奮発して、車中の
人となりました。しかし、あっという間の2時間、あぁー、電車って便利!

コメント (11)
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日光街道③ 粕壁宿から南栗橋

2013-06-14 | 街道歩き

やっと厚い雲が空を覆って、梅雨空が戻ってきました。ほっとします。しばらくは鬱陶しいお天気も我慢です。

今週始め、まだ梅雨空に戻る前、日光街道を春日部から栃木県野木宿まで歩いてきました。
薄曇りの中、思ったより暑くもなく、歩いている時は汗ばみますが、風は爽やかでした。

粕壁宿入口 ~ 杉戸宿 10:00
家は朝7時前に出たのですが、前回の街道の到着ポイント(粕壁宿入口)まで戻ったので、時間がかかってしまいました。

街道はすっかり整備され、比較的若い層が多く住む街という印象でしたが、当時の趣を残す商家や道標がありました。

写真上:東陽寺 芭蕉が宿泊した寺と言われ、同行した僧侶の随行日記の碑が残っています。
写真下:粕壁道標「西南は岩槻、北は日光、東は江戸」と書かれています。

高札場や河岸場もあった古い街並みを通り、古利根川に架かる新町橋を渡ります。
市街地から離れ、まわりがのどかな風景に変わり、やがて道は二股にわかれます。「左日光道」と刻まれています。


国道16号線を横断し、しばらく行くと観音院が見えてきます。県指定文化財となっている趣のあるものですが、東日本大震災で
大きなダメージを受けたのでしょう。今にも崩れそうな山門でした。

歩道の幅がぐっと広がったあたりに、地球儀の大きなモニュメントがあり、ここが国道4号線と北緯36度線が交差する地点に
あたると書かれていました。埼玉県北葛飾郡杉戸町を通過します。

杉戸宿に入るあたりからは畑や田んぼが目立つようになり、緑が疲れを癒してくれます。
家屋に沿うように植えられている大きな生垣は防風壁の役目も果たしているのでしょうか。
当時の古い商家も残ります。
写真左下:御成街道 徳川家康の遺骸を駿河の久能山から日光に移した以降、江戸時代に将軍の日光参詣に使われた。


やがて御成街道は日光街道と一緒になり幸手宿に入ります。

幸手宿 ~ 南栗橋
実は、この日は幸手駅近くのホテルを予約していたのですが、まだ午後2時半でしたので、ホテルで少し休憩した後、
もう少し距離を伸ばすことにしました。

幸手宿は、日光御成道と日光街道が合流し、筑波道が分岐する地点の宿場町として問屋場跡、本陣跡が残り、賑わった宿場と
言われています。

幸手の市街を抜け、権現堂川(中川)を渡り、車の激しい国道と平行している旧道に入ると、道幅は狭く田んぼが広がります。
なかにはすっかり干上がった田んぼもあり、水不足の現実を目の当たりにします。
このあたりの地区を外国府間「そとこうま」と呼び、道標には「右つくば道、左日光道」とあります。


旧道の左側に東武日光線が走っています。午後5時30分、ちょうど南栗橋駅近くになったので、この日の行程を終えて、
電車で幸手駅まで戻りホテルに入りました。 歩行距離は21.8キロでした。

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