僕と猫のブルーズ

好きな音楽、猫話(笑)、他日々感じた徒然を綴ってます。
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オレの311

2012年03月11日 | 東北のためできること

311より1年が過ぎた。
嫁@パンダはコレクターズライブを見に東北遠征。
山形出身の嫁、この時期に東北に行くのは嫁なりの想いがあるんだろう。
(嫁@パンダは何も話さないが(^^;)ゞ)

仕事で疲労困憊。いつもなら休日はお散歩して寝て過ごすがずっと家にいた。
映画とゴミ拾い以外は、ひたすらTVの震災関連番組を見てた。
映し出されるのは被災地で頑張る皆さん、ボランティア、支援に尽力するスポーツ選手。
「分かりやすい感動のオンパレード」。
皆さんのそれぞれの行動は素晴らしい。ボクも感動したし良い誠実な番組もある。
でも全TV局(TV東京以外(笑)が横並びに一斉に同じテーマを取上げる。凄く違和感。
オセロ中島の宗教話と同じで「震災1年」がホットな話題だから出してるだけでは?

そして、こういった番組は一体「何のために?誰のために?」創るんだろう??
被災者の人は今更見たくないだろう。思い出したくもないだろう。
じゃあ無事だった被災していない人たちのためか?
無事だった人たちが忘れないよう風化しないように。そのために創るのか?

同じだ。忘れる奴は忘れるし、かんがえない奴はかんがえない。
こういう番組を見る人は元々忘れてないし、忘れない。
ならば311特集はNHKのみで民放は被災地の人が喜ぶような楽しい番組を創ったらどうだ?
全部が全部「おなじ」である必要はないだろう。

オレはどうだろう?あの日のことを1日たりとも忘れたことはない。
嫁とヨモギが心配で不安で会社から歩いて帰った。あの日感じた恐怖は忘れない。
自分の命の安全どうのこうのより嫁とヨモギが無事か?それだけでアタマがイッパイだった。
そしてボランティアで見た仙台の荒れ果てた海岸。破壊され尽くした土地。
あのとき、感じた怒りと無力感・・・どうやったらあれを忘れられると言うんだ?

でも、自分の中でも一寸づつ風化しているのかも知れない。
11月にボランティアに行って以来、東北支援活動は止めている。
参加NPOのプランがまだ発表されていないのが理由だけど、そんなの言い訳だ。
その気になれば他のNPOのツアーに参加すればイイ。でもオレはそれをしてない。
僅かな募金をしてるだけで他は何もしてない。
時間が経って明らかに情熱が薄れてきている。醒めてきている。
所詮、偽善者。その程度の熱意しか無い。情けない話だ。

今日近所のゴミ拾いをした。何かをしたくて、せずに居られなくて。
こんなことしても被災地には何の役にも立たない。
でもTVにかじりついて進まない復興に苛々するよりは何でもイイから行動したかった。

TVで色んな人が語ってた。「忘れないように、風化させないように」。
おっしゃるとおりだ。全く正しい。でも、その次は無いのか?その次を語らないのか?
「忘れない」なんて当たり前だ。大切なのは次にどんなアクションを起こすか?だ。
部屋の中で「オレは忘れない」ってネットで呟いてても何も変わらない。
大事なのは何をするか?だ。
やり方はそれぞれでイイ。
自分の仕事が復興に繋がる人は仕事を頑張ればイイ。
募金、物資支援、励ましの手紙、何でもイイ。
被災地を支援してるアーティストを応援するのもイイ。

オレは・・・なんだろう?オレにできるのはなんだろう?
分かりきったことだ。
考えるべきは「一方向に流されない・大きな声に同調しない」
するべきは「東北に直接行く」「自分の手を汚して血を流して東北のため働く」だ。

分かってるならウチでウダウダ言ってないで、さっさと動け>自分
「御託を並べて河の水が澄むのを待ってる間に人生は終わっちまう。ざまぁ見ろ。」(BY Cocco)

長い休みはもう終りだ。いい加減立ち上がろう。
にゃにゃん、地震野郎・津波野郎とのケンカをはじめるぜ。もう1度☆

コメント

違和感を抱えていく・・・映画「311」雑想

2012年03月11日 | 東北のためできること
金曜日の夜、Sクンと呑んで会社の問題点について意見交換。
2人とも共通したのは幹部社員の「問題意識・危機感の薄さ」。
此れって直し様がない。「問題ない」と思ってる輩に指摘しても「何が悪いの?」で終わるだけ。
これは震災後の日本も同じ。渋谷や新宿の喧騒・狂騒を見てると311が丸で無かった様だ。
震災前と何も変わってない。勿論、みんなが暗い顔して消費を控える必要は無いよ。
フツーに暮らすことが復興に繋がるはずだし。
浮かれてる人たちに「被災地のことを考えろ」と言ってもうざがられるだけだろう。

違和感は至るところで感じる。
絆だの皆一緒に!とか散々ほざきながら福島から避難した人を差別、
東北地方からの瓦礫受入れを感情的に拒絶する市民。助け合いも思いやりも無い。
この国は分断されている。
都市と地方、被災地とそうで無い土地、政府と自治体、一般の人。ハッキリ分れてる。
だから1年経っても「みんなが手をつないで」復興のアクションが進まないんだろう。

そしてニュースやドキュメントから流される「被災地からの感動レポート」の大売出し。
感動って誰が?お茶の間のオレ達かい?
何で傷ついた被災者が頑張って平穏無事なオレ達を感動させなくちゃいけないの?
ガンバルのはこっちだろう?被災者に必要なのは支援と休養と慰安だ。
TVはなぜ「キレイごと」ばかり流す?
頑張れない、動けない、怒りに燃えて罵詈雑言を吐く、そういう映像を流さない?

今日、映画「311」を見てきた。震災後4人の映像作家が被災地を訪れ取材する。
http://docs311.jp/intro.html
福島ではガイガーカウンターの数値が上がるのを見て異様にはしゃぐ男達。
岩手や宮城県では被災者に「家流されたの?」「家族は無事?」とズケズケと聞く。
終いには遺体を撮影しようとして一悶着を起こす。見てて不快だった。
ここでも違和感を感じた。でもTVや渋谷の狂騒を見て感じたモノとは違う。

彼等の行為にモラル上の怒りを感じた?悲惨な光景に堪えきれなくなった?
そうであるような、違うような妙なモヤモヤ。そして苛立ちを感じた。
苛立ちを感じたのはドラマチックな展開に成らない映画の展開に対してでは?
TVニュースの様に穏便無事で無く露骨に迫る作家達に覚えてる妙な共感では?
オレも知らず知らずに被災者の悲惨な物語を楽しもうとしてないか?
その意味ではオレは感動物語を作って流してるメディアと同じ。
渋谷・新宿で浮かれてる若者とオレも同じ。
オレも震災というネタに飛びついて浮かれてるだけ。

映画では破壊された建物の中、怪我人が収容されている病院、遺体置き場を映す。
ボランティアで被災地を訪れたが建物は外から見るだけ。中には入れない。
カメラが破壊され尽くした屋内を縦横無尽に映すとき
悲惨さに息を呑むと同時に・・・・初めて見る映像にエキサイトした。

主人公達は目の前のあまりの光景に次第に言葉を失う。素の個人に戻る。
最初インタビューでしていた質問は「感動・悲劇」を引出す様な誘導めいた内容
だったが最後は被災者の皆さんが語るのを只聞くだけになる。

そう、あの光景を前に何を言う?言葉なんて意味がない。黙るしかないだろう。
ここだけが、この映画で唯一共感を覚えた。

見終わった後、モヤモヤしたキモチが残った。やりきれなかった。
でも・・本音を言えばオレはこういう映像を見たかったのかも知れない。
被災地の悲惨さ(直に体験したわけじゃないが)をストレートに伝えてくる映像を。
そういう映像を期待し、且つオレ自身も痛みを感じたかったのかも知れない。
東北の皆さんが感じた痛み・苦しみのホンの幾分かでもオレも感じたかった。
じゃないと申しわけない。だから、この映画を見た。そんな気がする。

映画館を出ると渋谷は饗宴状態。さっき見た被災地の映像とのあまりの落差。
同じ日本でこうも違うのか?愕然とした。吐き気がした。
でも、こういう無邪気なパワーこそ次につながるのかもしれない。

帰宅したらヨモギが寂しかったのか、甘えてくる。よしよし(^_^;
たぶんこのブログを更新したら酒呑みながら震災1年の番組を見るんだろう。
でも・・・今日映画を見て感じたモヤモヤ、やり切れなさは忘れまい。
感動だの絆だの言う分かりやすいキャッチコピーにごまかされない。
自分自身が抱えてるモヤモヤ・違和感を信じて地震・津波と闘っていこう。

さぁ・・・いよいよ1年だ。そして、まだまだこれから、だ。

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