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零戦五二型(A6M5)零式艦上戦闘機

2015-06-23 11:01:58 | 遺構 /人間魚雷 回天の島 大津島など

零式艦上戦闘機は第二次世界大戦期における大日本帝国海軍の主力艦上戦闘機。零戦(ぜろせん、れいせん。“ゼロ戦”とも)の略称で知られている。海軍の艦上戦闘機としては実質的に最終型式で、日中戦争の半ばから太平洋戦争の終戦まで前線で運用された。

零戦は太平洋戦争初期、2200kmに達する長大な航続距離・20mm機関砲2門の重武装・優れた格闘性能を生かして米英の戦闘機に圧勝し、太平洋戦線の占領地域拡大に寄与した。このため零戦は米英パイロットから「ゼロファイター」の名で恐れられた。しかし大戦中期以降には、アメリカ陸海軍の対零戦戦法の確立やF4UコルセアやF6Fヘルキャットなど新鋭戦闘機の大量投入、日本側の多数の熟練搭乗員の戦死、後継機の開発の遅れによって、零戦に頼る日本海軍航空隊は劣勢に追い込まれた。零戦は大戦末期には爆戦化され特攻や本土防空にも使用され、終戦まで日本海軍航空隊の主力戦闘機として運用が継続された。
零戦の開発元は三菱重工業(以下「三菱」という)であるが、三菱のみならず中島飛行機でもライセンス生産され、総生産数の半数以上は中島製である。零戦はアメリカ陸軍のP-51マスタング、ドイツ空軍のメッサーシュミット Bf109、イギリス空軍のスピットファイアなどとともに、第二次世界大戦期の代表的な戦闘機として知られている。


遊就館に展示されている零戦五二型 河口湖自動車博物館によって復元された五二型の内の1機(尾翼番号81-161)
五二型は二二型の発展型で、折り畳み機構を廃して翼幅を三二型と同じ11mに短縮したものの、二一型や二二型のように円形に整形された翼端を持つ主翼と、エンジン排気による空気の整流・推力増強を狙い排気管を分割して機首部の外形に沿って配置する推力式単排気管が外見上の特徴である。なお五二型は三二型と同一エンジン装備で正規全備重量で200kg近く増加しているにも関わらず、最高速度は約20km/h、上昇力も向上しており、推力式単排気管の効果を垣間見ることができる。ただし極初期生産型には推力式単排気管が間に合わず、二二型同様の集合排気管を装備している。単排気管装備後に排気管からの高熱の排気がタイヤや機体外板を痛めることが判明したため、最下部の排気管を切り詰め、残りの排気管口付近に耐熱板を貼り付けるといった対策が施されている。なお、後期生産型では無線機が新型の三式空一号に換装された他、翼内燃料タンクに自動消火装置を装備して防御力を高めている。
三菱では1943年8月から生産が行われ、中島でも1943年12月から転換生産が行われている。武装強化型の甲・乙・丙型を含めて終戦までに零戦各型でも最多となる約6,000機が生産され、レイテ沖海戦以降、特攻機としても使用された。


型名       零戦五二型     零戦五二甲型     零戦五二乙型     零戦五二丙型
機体略号     A6M5         A6M5a         A6M5b         A6M5c
全幅        11.0m
全長        9.121m
全高        3.57m
翼面積      21.30m²
自重        1,876kg       1,894kg        1,912kg        1,970kg
正規全備重量  2,733kg       2,743kg        2,765kg        2,955kg
発動機 栄二一型(離昇1,130hp)
プロペラ ハミルトン定速3翅 直径3.05m
最高速度     564.9km/h     559.3km/h      554.7km/h      544.5km/h
上昇力      6,000mまで7分1秒                            5,000mまで5分40秒
実用上昇限度 11,740m 10,200m
降下制限速度  666.7km/h     740.8km/h      740.8km/h      740.8km/h
航続距離    1,920km(正規)
/全速30分+2,560km(増槽あり)

武装:

九九式二号20mm機銃2挺(翼内) 九式二号20mm機銃2挺(翼内) 九式二号20mm機銃2挺(翼内)

九七式7.7mm機銃2挺(機首) 三式13.2mm機銃1挺(機首右舷)  三式13.2mm機銃1挺(機首右舷)
                    九七式7.7mm機銃1挺(機首左舷)
爆装 :30kg爆弾2発又は60kg爆弾2発 30kg爆弾2発
                                             60kg爆弾2発
                                             30kg小型ロケット弾4発
                                             以上より選択


当時の日本の軍用機は、採用年次の皇紀下2桁を名称に冠する規定になっていた。零戦の「零式」との名称は、制式採用された1940年(昭和15年)は皇紀2600年にあたり、その下2桁が「00」であるためである。
「(戦時中、英語は敵性語として使用を制限されていたから、)『零戦』を『ぜろせん』と読むのは誤り」と言う者もあり、一時は定説のように思われていた。しかし、戦時中の新聞報道に「兵士たちにはゼロセンと呼ばれており……」という記述があることからも、「ぜろせん」「れいせん」の両方が使われていたと考えられるばかりか、そのまま報道もされていた。渡辺洋二の著書や坂井三郎を始めとする関係者の話からも、「ぜろせん」という言葉は当時から一般的であり、中央から現場(実戦部隊)にいくにつれて「れいせん」より「ぜろせん」、時代が下るにつれて「れいせん」より「ぜろせん」と呼ばれる傾向が読み取れる。1942年(昭和17年)後半以降は部隊では「ぜろせん」であったらしく、1944年(昭和19年)11月23日付の朝日新聞で初めて零戦の存在が公開された際も「荒鷲などからは零戦(ゼロセン)と呼び親しまれ」とルビ付きで紹介されている。これに対し、“ゼロファイター”の和訳が戦後一般化したという一見それらしく思われる説には、根拠が存在しない。
連合軍が零戦に付けたコードネームはZeke(ジーク)。だが米軍側の将兵もZero(ゼロ)と呼ぶことが多かった。ただし三二型は出現当初、それまでの二一型とは異なり翼端が角張っていたためか別機種と判断され、Hamp(当初はHap)というコードネームがつけられた。

 


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