
菊川駅は、東海旅客鉄道(JR東海)東海道本線の駅です。堀之内軌道線の時代は堀ノ内駅として開業いたしました。所在地は静岡県菊川市堀之内にあります。報恩寺から境内の土地の提供を受け建設されました。近年では駅前広場(バスターミナル)拡張のため、さらに土地の提供を受けています。
駅の南側は菊川市の中心市街地で、商店や住宅が立ち並んでいまする。昭和50年代に計画された中心市街地再開発事業が2006年現在においても継続中であり、再開発の長期化による商業の衰退と人口の郊外への流出がみられます。近年は駅から1kmほど南の菊川インターチェンジ周辺で宅地・商業地開発が盛んであり、これらに対応する送迎用ターミナルの整備が2008年度までに行われました。
北側は茶畑などが広がる丘陵地帯である、駅の近くには緑ヶ丘や柳町といった住宅街が整備されたものの、駅には旭テックの本社が隣接しており北口がないため、駅を利用するには遠回りをしなければなりません。
現在、駅北の柳町・潮海寺地区と駅南との交通の便を向上するアンダーパス築造工事が進行中であり、駅に北口を新設する構想です。
両隣の掛川駅と金谷駅が旧東海道沿線にあるのに対し、菊川駅は旧東海道を外れて5kmほど南下した場所にある。(日坂宿(現在の掛川市日坂)と金谷宿の間の宿である菊川宿は、現在の島田市菊川であり、菊川駅の立地する菊川市とは関わりがない)
特に菊川駅と金谷駅の間は、それまで東西に走っていた東海道本線が南北に走るほど、大きく方向を変えています。(菊川駅‐金谷駅間は、関ヶ原付近と同様にR400(半径400m)の急カーブが多い区間である)そのため、なぜ旧東海道を通らずに、これほどまでに線路が曲げられたのか、という疑問をもたれることがある。
これに関して、東海道本線建設時、日坂村の住民らから、農業への悪影響(蒸気機関車の吐く煙によって茶葉に煤がつく、振動で茶の根が緩む、等)を懸念した根強い反対運動(鉄道忌避)が起こったこと、代替案として考えられていた海岸ルート(現在の御前崎市を通るルート)でも同様の鉄道忌避が起こり、それと対照的に、堀之内村(現在の菊川市堀之内)の住民らは県知事への陳情を行うなど積極的な誘致活動を行ったために現在のルートに決まった、とする伝承が残されており、児童書「ちいさな村に汽車がきた ~東海道線菊川駅ものがたり~」にも取り上げられています。
しかし、他の鉄道忌避伝説と同様、この地においても鉄道誘致を行なっていたことを示す証拠はあっても鉄道忌避が起こったことを示す証拠はなく、仮に存在したとしてもそれがルート変更の理由になったかどうかは不明です。
技術的側面から考えれば、当時の技術では急勾配の坂を越えることや長大なトンネルを建設することは難しく、当時はこの菊川沿いのルート以外は考えられなかった、と『静岡県鉄道興亡史』は結論づけています。
なお、駅の誘致活動を行った住民らは、1889年(明治22年)に堀ノ内駅(菊川駅)が開業すると、駅周辺の商業地としての発展を願い、駅前から自主的に移転して別の場所に、旧くからの堀之内村の住民の集落であることを示す「旧村」(きゅうそん)という農業集落を形成しました。旧村はその後旧村自治会となり、現在の菊川市堀之内自治会となっています。いまでも駅前の土地の多くは旧村地区の地主が所有しているとのことです。
単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、合計2面3線のホームを有する地上駅。構内南側から駅舎、1番線(単式ホーム)、2番線・3番線(島式ホーム)の順に並んでいまする。なお、2・3番線が本線、1番線が副本線となっています。
駅舎に隣接する1番線は一部の列車が発着するのみで、通常は跨線橋を渡った2番線または3番線を発着いたします。
3番線の北側には留置線がある。この留置線は上り貨物列車の待避用に使用されてきたが、2002年のサッカーワールドカップ開催時に下り側の信号機が整備されエコパスタジアムでの催事等には臨時列車の発着にも利用されています。
下り線では1本だけ当駅始発の長距離運用の普通列車が設定されています。平日は岡崎行き、土休日は名古屋行きです。車両は掛川駅以東ではほとんど見られない大垣車両区の311系で運用される。発車番線は1番線です。
駅長は配置されない駅員配置駅(直営駅)であり、掛川駅が当駅を管理。みどりの窓口が設置されています。
菊川駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先 備考
1 ■東海道本線 下り 浜松・豊橋方面 当駅始発のみ
上り 静岡・沼津方面[1]
2 ■東海道本線 下り 浜松・豊橋方面
3 ■東海道本線 上り 静岡・沼津方面
1889年(明治22年)4月16日 - 堀ノ内駅(ほりのうちえき)として、官設鉄道静岡駅 - 浜松駅間の開通時に開業。一般駅。
1895年(明治28年)4月1日 - 線路名称制定。東海道線(1909年に東海道本線に改称)の所属となる。
1899年(明治32年)8月1日 - 駅前に城南馬車鉄道(馬車鉄道・後の堀之内軌道)が乗り入れ。
1935年(昭和10年)5月10日 - 堀之内軌道線休止(同年12月4日正式に廃止)。
1956年(昭和31年)4月10日 - 菊川駅に改称。
1975年(昭和50年)3月1日 - 貨物の取扱を廃止。
この頃まで、旭テック工場へ続く専用線があった。
1985年(昭和60年)3月14日 - 荷物の取扱を廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、東海旅客鉄道(JR東海)の駅となる。
1992年(平成4年)11月28日 - 自動改札機を導入。
2008年(平成20年)3月1日 - TOICAのサービス開始。
電報略号 キク
ホノ(改称前)
駅構造 地上駅
ホーム 2面3線
乗車人員
-統計年度- 4,254人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1889年(明治22年)4月16日
備考 駅員配置駅
みどりの窓口 有
* 1956年に堀ノ内駅から改称。
堀之内軌道線:明治22年4月16日東海道本線の静岡~浜松間が開業し堀之内駅(現・菊川駅)が開設されると堀之内の駅周辺は徐々に栄えて行き、やがて明治26年堀之内~池新田間に鉄道を敷設する計画が地元の有力者や実業家の間でもたれた。明治29年8月28日馬車鉄道敷設の申請が提出され明治30年6月1日に堀之内~南山間の鉄道敷設許可が認可されると、明治31年9月21日城東馬車鉄道株式会社が設立され軌道の敷設工事が始められ、明治32年8月1日に堀之内~南山間に軌間2尺(606mm)延長約9.4kmの馬車鉄道が開通した。その後城東馬車鉄道株式会社は南山から御前崎方面への路線延長をめざし大正6年(1917)1月20日御前崎軌道に社名を変更する。御前崎方面への路線延長に当たり当初は動力を馬力から蒸気機関車へ変更する計画であったが、第一次世界大戦のために石炭が高騰した事により蒸気動力をあきらめ水力発電による電気軌道へと計画を発展させ、御前崎軌道は副業として電力事業へと乗り出すことになる。しかし電気軌道への計画は実現せず、電力事業は他社へ合併され御前崎軌道は大正10年(1921)11月28日堀之内運輸株式会社へと譲渡され、やがて延長工事が開始さ大正12年(1923)12月29日南山~池新田間軌間762mm約4.8kmが開通する。その後馬車鉄道の区間も南山から徐々に堀之内方向へ軌道の改軌が進められ、また乗客や荷役の便を図るため堀之内駅から国鉄の堀之内駅前までを延長し、堀之内駅前~池新田間14.8kmが全通する。軌道の延長のころから使用されたのはオット機関車と呼ばれるドイツ製のオットサイクルエンジンを使用した機関車で、付近の産業である製茶工場でオットサイクルエンジンの使用実績があったため採用されたようで、日本ではもっとも初期のディーゼル機関車の使用例だと思われる。やがて時代が昭和へと移るとバスやトラックの輸送が台頭しそれに昭和恐慌が重なり堀之内運輸の自動車部門の運行の拡大とは逆に軌道は徐々に運行の数を減らして行き昭和10年(1935)5月10日休止となり同年12月4日に廃止となった。(09Railpage HPより)
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