キハ52形は勾配区間用の一般形気動車で、キハ20形の2エンジン形です。国鉄の2エンジン気動車としては最初の両運転台車であり、急勾配のローカル線用車両として本州・四国・九州各地で重用されました。キハ20形に準じた両運転台、片開き2ドア、2段窓であるが、エンジン、変速機、放熱器をそれぞれ2基搭載する必要から、床下スペースの確保目的で、全長が1.3m長い車両限界一杯の21.3mとなり、それに伴い、ドア間の窓数もキハ20形の5個から6個に増えています。それでもなお床下は手狭なため、水タンクは床上(通路を挟んだ便所の反対側)に置かれました。
後期形(100番台) 1962年から1966年に製造された。キハ58形とキハ80形の好評を受け、騒音と振動の低減はもちろんのこと、量産効果の向上(コスト低減)の見地からも2エンジン車についてはすべて横形エンジンに統一されることになった。水平シリンダー形のDMH17Hを搭載し、床面点検蓋・車体中央壁面の排気管が廃止された。さらに、勾配線区での使用実績に基づきエンジンブレーキ機能が追加されている。末期にはキハ22形同様、外ハメ式の尾灯や、ハニカム構造の客扉が採用された。室内照明は蛍光灯で、キハ20形の中ではキハ22形と並んで例外的な温水暖房車。スタイルと旅客設備を除いたメカニズム面では、急行形気動車のキハ58形との共通点が多い。 100番台は静粛性に対する期待から、寝台気動車の試験[7]に供され、注目を集めたが、音振(おとしん)や変速ショックの点で採用には至らなかった。その後も日本では寝台気動車が実現した例はない[8]。 2010年3月12日には、大糸線で運用されていたJR西日本が保有する20系気動車最後の3両の運用が終了し、同年3月13日のダイヤ改正でキハ120形に置き換えられた。これらはそれぞれ、キハ52 115が岡山支社で静態保存、キハ52 125が同年12月にいすみ鉄道に譲渡され、キハ52 156のみが廃車される予定となっています。
キハ20形は一般型気動車であり、キハ22形を除いて定期の急行運用に就くことはまずなかったが[10][11]、本形式については、2エンジンで強力なこと、単行運転が可能なことから、只見線および会津線の急行「いなわしろ」として、1982年6月23日の東北新幹線開業による列車自体の廃止時まで、長らく使用された。この列車は気動車単行の急行で、なおかつ遜色急行であるとともに、急行「あがの」「いわき」と併結する多層建て列車として異色の存在でした。
キハ52形が運用された路線の多くは急峻な山岳路線であり、1 - 2両の短い編成で排煙を噴き上げながら登坂する姿がしばしば見られた。また、八ヶ岳山麓の小海線や阿蘇カルデラ一帯を走る豊肥本線など多くの景勝地における鉄道写真の題材ともなりました。
これに限らず、キハ20形一族は地方の風景に溶け込みやすい落ち着きのある車体デザインを持ち、そのほとんどが現役を退いた後も、郷愁の対象として愛好する鉄道ファンは少なくないとのこと。
キハ52形は大糸線非電化区間(糸魚川 - 南小谷)用として富山運転所に配置されたもの、越美北線用として敦賀運転所に配置されたもの、山陰本線・木次線用として米子運転所に配置されたものが承継された。写真はキハ52 115は旧津山扇形機関庫の車両です。
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