利根は、日本海軍の重巡洋艦で、利根型重巡洋艦の1番艦。艦名は二等巡洋艦の命名慣例に従って、関東地方を流れる利根にちなんで名づけられた。
利根は、昭和13年三菱長崎造船所で竣工。最上型の五番艦として計画されたのだが途中で設計を改め、主砲を前部に集中させ、後部は航空機専用の装備を設け、ここに水上機六機を搭載した。
35ノットの高速。20センチ連装砲4基8門を配置。魚雷発射管は3連装4基、片側6門を装備。帝国海軍最新にして最強、そして最後の重巡であった。
支那事変・大東亜戦、ハワイ、インド洋、ミッドウェー、マリアナ沖、比島沖などの主な航空海戦に参加、俊足と索敵能力を発揮し活躍した。
ミッドウェーでの惨敗にはいくつか要因があるが、そのひとつが利根のカタパルトの故障であった。
合敵に先立ち多数の索敵機を発進させたが、利根のカタパルトだけが故障、10分遅れで発艦した。
そして敵発見の報を発したのは、よりによってこの出発の遅れた索敵機であった。その時すでに敵の攻撃機は、わが機動部隊に向かっていた。
一等巡洋艦「利根」は比島沖海戦で傷ついた艦体を修理した後、昭和20年2月海軍兵学校練習艦として江田内に回航、5月にはここから200メートル沖合に投錨して艦体を木の枝で覆い偽装していた。
しかし、7月24日から前後3回に亘る米艦載機の爆撃により応戦奮闘の甲斐もなく7月28日の夕闇が迫る頃軍艦旗を掲げたまま艫のほうから沈んで行った。
利根がこの沖に停泊してから空襲をうけるまでの期間それは僅か2ヶ月余の間だったが1400余名の乗組員は民家に宿泊し、或いはクラブを置いて島民の世話を受けたり家族のような交わりをもった。その心の繋がりのできた人達が海を血で染めて傷つき倒れ、一方島内に落ちた爆弾のため無辜の住民の中からも犠牲者が出た。
利根の戦没者128柱と島民の犠牲者17柱の御霊を慰めるため、20年目の昭和40年、ここに碑の完成をみた。
搭載する水偵はすでに無く、後部の航空作業甲板には機銃が設置され、昭和20年7月の大空襲では洋上の砲台と化して奮闘した。(米艦載機の撮影した写真を見ると全ての砲が空に向かっている)しかし4波、800機にも及ぶ空襲の結果、直撃弾を受け大破着底。
そのままの姿で敗戦を迎えた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます