私の住む富士見町には調べてみたら22程の史跡があるようです。 そこで仕事の中抜けにでも回ってみようかな~・・・と 先ずは少し聞きなれない史跡
『ドルメン類似遺跡』 縄文の遺跡の多い富士見高原に、あまり聞き慣れない名前の遺跡があります。 ・???ですよね~
富士見の公式サイトの説明によると
立沢地区の西南、本郷小学校近くの立場川左岸の低地に位置する坪平遺跡内にある。大正時代に考古学者の鳥居龍蔵によって発掘された石で覆った
墓と目される遺構。直径1m余りの蓋石がいくつかの支石の上に被せられていたことからヨーロッパ考古学のドルメンと称する支石墓に似ていることから
この名前がつけられた と言う事です。
と、何時もの手抜きをと・・・・思いましたが意外と読みにくい ので
ここ坪平遺跡は、大正の末年、郡史編纂調査の一環として民族・考古学者の鳥居龍蔵博士らによって発掘され、「ドルメン類似遺跡」と称せられた。
発掘されたのは石で覆われた墓と目される遺構で、四メートル近い間隔で二基ならんで発見された。片方は偶然、地主の植松夏平氏によって掘り起こされた。
南北五.七メートル、東西四.五メートルばかりの長方形に積石がなされ、その北端に長さ十五メートル弱の人形をした石製品(立沢区所蔵)があったという。
もう一方もやはり南北五メートル、東西三.六メートルほどの長方形に積石がみられた。掘り起こして見ると六十センチほどの深さに積まれており、中央
やや北に寄ったところには直径一メートル余の大きな蓋石がいくつかの支石の上に被せられていた。支石で囲まれた不規則な室は長さ九十センチ、
幅三十センチほどであるが、そこに遺物は見当たらず、蓋石の北側から石器や土器片が発見されたという。
このような支石と蓋石のあり方はヨーロッパ考古学で「ドルメン」と称する支石墓(しせきぼ)に似ており、これらは石器時代の墳墓である。そして、日本にも
巨石文化の小規模なものが存在したと、鳥居龍蔵は考えた(『諏訪史』第一巻)。
こんにち、坪平遺跡は縄文時代後期(およそ三八〇〇年前)の遺跡として認識されている。いっぽう、一九八〇年来、八ヶ岳南麓の北巨摩郡下では墓や
墓域に大量の石を用いた同時代の遺跡がいくつか発掘されてきた。それらに照らしてみると、坪平の遺構を支石墓と断定することには疑問もあるが、
諏訪における考古学史上記念すべき遺跡であることに変わりはない。その時の発見箇所一〇〇平方メートルほどが、区有地として保護されている。
なお平成十年、この東に隣接する土地五〇〇平方メートル余りを発掘調査した。しかし、墓跡と思しき穴三基を検出したにとどまり、同類の遺構は見当たらなかった。
(富士見町教育委員会設置の案内板から・平成17年)
と、書かれております。
史跡を示す石碑の後ろに見える橋は「立沢大橋」で、富士見町役場方面から八ヶ岳に向かって走ると「立沢大橋」手前の道を右に下って、小さな『橋』
「坪平橋」を渡った先、10メートル程の左手に『コブシ』の木が見えます。その下が『坪平遺跡・ドルメン類似遺跡』です。
草刈は行われているようですが・・・・どの石がどのように支石で墓石なのか?良く解りません・・・・(図解が欲しい所です)
何故に第一回を此処にしたのか? 単純明快!!自宅から車で5分と近い!通勤途中! なんだ~ 単なるネタが無かっただけか~ 嫌
もう少しちゃんと自分の住む町の情報を・・・なので、これからたま~~~に『富士見町の史跡』巡り行いますよ。