今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

神戸開港記念日

2004-12-07 | 記念日
今日(12月7日)は、「神戸開港記念日」神戸市が制定。
1867(慶応3)年12月7日(新暦1868年1月1日)、神戸港が外国船の停泊地として開港した。新暦に換算した1月1日も「神戸港記念日」となっている。
1854(安政元)年、ロシア軍艦ディアナ号が大阪天保山沖から和田岬に来航。皇居に近い瀬戸内海への黒船進入は大反響を呼び、幕府は摂津防衛の強化に乗り出す。1863(文久3)年、4月、幕府の軍艦奉行勝安房守(勝海舟)は、将軍家茂に随行し摂津巡視のため神戸村小野浜に上陸。将軍の許可を受けて、神戸海軍操練所を開設した。操練所は半年余りで廃止され、海舟の海軍創設の悲願は中途で挫折したが、塾頭の坂本竜馬をはじめ陸奥宗光、伊藤祐享など、後年活躍した人々を生み出した。
1858(慶応3)年12月7日、(西暦1868年1月1日)、正午、神戸の沖合いに停泊した黒い外国船団から二十一発の祝砲がとどろく中で、「びーどろの家」(ガラス張りの家)と住民から呼ばれていた運上所(後の神戸税関)で、幕府役人と諸国外交官が参加して、兵庫開港式が行われた(兵庫開港と言っても実質は神戸開港であった)。1858年幕府が約束した兵庫開港が、長い曲折の末5年間も延期され欧米列強の強い圧力もあって、天皇の許しを受けたのがこの年5月25日のことであった。開港準備、居留地工事など殆ど未完成でこの日を迎えたといわれている。この日、波止場を埋めた村人たちは歓声と拍手でこれを迎えた。又、運上所の建物を囲んで「ええじゃないか、ええじゃないか」と踊り歩く人達がいた。西国街道沿いのひなびた農・漁村にすぎなかった神戸は、この開港とそれに伴う外国人居留地の造成、そして、神戸事件(慶応4年1月11日)などを経て、文明開化への急速な足取りをたどっていったのである。
この開港の前年慶応2年は、凶作と第二次幕長戦争に伴う穀物価格の急騰が大きな原因で、米の安売り、施金、施米などの要求運動が全国のあちこちで続発しており、勝海舟は、慶応2年4月28日付けの越前藩前藩主松平慶永(よしなが)宛の手紙で、長州征伐や幕府改革が容易に進展しないことを憂慮しつつ「かくの如くにて御永引き相成り候わば、下民一時に蜂起もはかり難く、人身の離反は日々相見え、是は尤も恐るべく、未だこの事甚だしきに及び申さず候うち、御内々の破れば然るべく候方も御座あるべく・・・」と述べ、これに対し、6月4日付け慶永の返事も、神戸と大阪の打ちこわしについてこれに応じているがこうしたやり取りの中に、幕府の政策追行能力の喪失が民衆蜂起を続発させることについての、深刻な危機意識があらわれている。この手紙の翌5月11日に、摂津西宮で米の安売り要求があり、これが一連の都市打ちこわしの発端となっている。5月8日には伊丹と兵庫湊川で、10日には池田で、米屋・酒屋・質屋などが打ち壊されるなどの事件も発生している。
これら慶応2年の諸運動にたいして、慶応3年の運上所前での「ええじゃないか」は、急騰を続けた米価が下落する局面で展開されており、「ええじゃないか」は、幕府権力の衰退の元で生まれた世変りへの漫然とした期待が、米価の下降と豊作の予想に結び付けられ増幅した祓浄除災と祝祭的な歓びがこめられて行われていたものであろう。全国各地に社寺のお礼参りが降り、「世直し踊り」とも呼ばれる「ええじゃないか」が全国を席巻していたのである。「ええじゃないか」が実際にどんな踊りかは明らかではないが、「ええじゃないか。ええじゃないか」という言葉の繰り返しが中心だったようで、どうも、「阿波踊り」のリズムと基本的的には同じ様なものだろうといわれている。神戸開港当時のことなどは、私の別館HP「nostalgia神戸」の「神戸のこといろいろ」でも、触れている。ついでに見てもらえると嬉しいが・・・。
参考:
別館HP「nostalgia神戸」
神戸のこといろいろの目次のページ
http://kobe.cool.ne.jp/yousan03/kobenokoto-mokuji.html
No9、神戸開港
No57神戸開港50年、市制実施30年記念祝賀会
No42兵庫運河と八尾善四郎とNo45開港博覧会
元町商店街連合会HP連載元町・夢街道「ええじゃないか 」
http://www.kobe-motomachi.or.jp/cont08/cont08-32.htm
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