今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

四十七士討ち入りの日,忠臣蔵の日

2004-12-14 | 記念日
今日(12月14日)は、「四十七士討ち入りの日,忠臣蔵の日」
1702(元禄15)年、赤穂浪士が本所の吉良邸に討ち入りし、主君の仇討ちを成し遂げた日。
1701(元禄14)年3月14日、播磨赤穂城主・浅野内匠頭長矩(ながのり)が、江戸城松之廊下で幕府の礼式を司る高家筆頭の吉良上野介義央(よしなか)に刃傷に及んだ。この日は幕府の年賀の礼に対する答礼のため京都から遣わされた勅使に対し、将軍綱吉の挨拶が白書院で行われることになっており、浅野は勅旨の接待係を命ぜられていた。浅野が吉良に斬りつけたのは白書院に通じる松乃廊下と呼ばれる場所で、事件が起こったのは、勅使らが到着する直前のことであった。浅野は「折柄と申し殿中を憚(はばか)らず、理不尽に切付候段、重々不届き至極」として、即刻切腹・改易の厳罰に処せられたが、吉良には一切のお咎めがなく、これが事件の発端となった。家臣たちは主君の仇を討つ為に綿密に計画を練り、1年後の12月14日、大石良雄率いる四十六人の士が、本所にあった吉良邸へ討ち入り、吉良を殺害しその首を泉岳寺の長矩の墓前に捧げるという事件が起こった。
世論は武士の本懐を遂げた赤穂浪士たちを讃えたが、幕府は翌年2月4日、一同切腹という処置をとった。
赤穂浪士の数についてであるが、幕府から切腹を命じられたのは四十六人で、この中には、赤穂浪士連名状に名を連ねている中の1人足軽・寺坂吉右衛門は入っていない。寺坂がどうして入っていないのかは、諸説あり、今でも定かではないらしい。
この事件を題材として、歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」他、数多くの物語が作られ、現在まで語り継がれている。
赤穂浪士の討ち入り事件は、「仮名手本忠臣蔵」が、余りにも有名なため、「忠臣蔵」の通称で呼ばれることが多いが、「仮名手本忠臣蔵」は、大星由良之助とお軽勘平の悲恋を二つの大きな柱とする物語であり、特に後者のお軽勘平の物語は赤穂浪士の討ち入り事件とは全く無関係な義理人情の物語である。
歌舞伎の、「仮名手本忠臣蔵」も大筋としては、武士道を主張しているが、忠義のために死のうということと同じ又、それ以上に、大儀のために愛を犠牲にせねばならないことの辛さを謳いあげたことによって、当時の上層・中層の町人たち特に女性たちに受けたのであろう。
余談であるが、大石内蔵助は、吉良を討つ意志がないことを世間に示すため、祇園の一力茶屋あたりで派手に遊んだことになっているが、これは、うそで、もう少し安いところへ通っていたというのが定説らしいが、遊ぶのは好きで本当に良く遊んだのは事実のようだ。そして、内蔵助にかかわりのある女性の「お軽」は、芝居では、早野勘平の恋人、そして、由良之助の妾となり、一力茶屋で活躍している。しかし、実際の「お軽」は、内蔵助の妾ではあるが、勘平とは全く関係がないそうである。一説によると、小山源吾左衛門あたりが、内蔵助があまり遊びすぎるので世間の評判は悪いし身を少し慎まそうと妾の世話をしたとも言われており、遊びすぎて金も底をついてきて、祇園遊びをするよりも妾を置いて遊ぶ方が安上がりということだったのかも知れない。
大正初期から映画が大衆娯楽の重要な位置を占めるようになってからは、この赤穂の事件は、「忠臣蔵」を謳っても、お軽勘平の悲恋物語から大石良雄に次ぐヒーローとして、武断派の堀部安兵衛などが活躍するようになってきた。これ以降、このような義士伝者が日本人に愛好され今日に至っているが、さすが、今の時代にこのような義士伝も受けなくなってきたのか、TBでの放映も少なくなった。それでも、今日も、どこかの局で「忠臣蔵」は放映されているのだろうが・・・。
今の時代に「忠義」だの「義士」だのと言った言葉は、死後となってしまったのではないか?
そういえば、昨日、今年の世相を象徴する漢字として清水寺では「災」が発表されましたね。本当に、来年は、「災を転じて福」となして欲しいものです。
(画像は由良之助 <7代>市川団十郎:早稲田大学坪内博士記念演劇博物館ウェブ・ギャラリーのものより借用)
参考:
赤穂義士史料館
関係人物、史料文献、史跡、研究者の紹介。
http://www.age.ne.jp/x/satomako/TOP.htm
忠臣蔵 
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/
早稲田大学坪内博士記念演劇博物館ウェブ・ギャラリー
http://www.waseda.jp/enpaku/gallery/gallery.html