今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「八百屋お七」が放火した日

2004-12-28 | 歴史
1682年の今日(12月28日)は 「八百屋お七」が放火した日。
「喧嘩と火事は江戸の華」といわれるが、恋に狂った八百屋お七の放火といわれる天保2年12月の大火は歌舞伎、浄瑠璃にまでなり有名になった。
実際、江戸では、江戸時代の二世紀半の間に、数町以上が罹災した規模の火災だけでも80数回にのぼり、3年に1度は大火に見舞われていたことになる。中でも、明和3年の大火(振袖火事)、明和9年の大火(目黒行人坂火事)、文化3年の大火(丙寅火事・牛町火事)は三大火事と呼ばれる。また、八百屋お七の放火とされる天和2年12月の大火その他を加えて10大火事と呼ばれるものも被害が大きかった。
火事は、家屋や家財などを焼失させ、罹災者には甚大な損害となったが、一方で、復興作業を通じて、木材その他の需要が喚起されるために、よく時代劇にも見られるように悪い奴の放火によるものも多かったようである。
天保2年12月28日、駒込大円寺から発した大火について、井原西鶴は、「好色五人女」の中八百屋八兵衛の娘お七が、この大火を機縁に駒込吉祥寺の寺小姓吉三郎と恋仲になり、火事があれば再会できると思い放火し、捕らえられて鈴ケ森で火刑にされたと書いた。これは、事実としては正しくないようであるが、その後、歌舞伎・浄瑠璃などの題材となり、お七の放火のように脚色されて「お七火事」の俗称が生まれたという。
当時、江戸で、様々な都市問題が表面化してきた中でも第一は防火問題で、これに本格的に取り組んだのがドラマでお馴染みの大岡忠相である。
大岡が先ず取り組んだのは、江戸の不燃化である。飛火を防ぐため費用の問題で抵抗も大きかったようだが根気よく説得し板葺きを瓦葺にした。また、従来の消防隊は旗本で編成した定火消、大名火消で、余り効果がなかったので、「いろは四十七組」の町火消を編成させた。本当にこの人は偉かったんだね~。
余談であるが、天保2年の大火に関連して、八百屋お七の悲恋物語が、江戸で評判になったころ、京都では、大経師(だいきょうじ)の人妻おさんと茂兵衛の不倫心中があり、これが、上方でも大評判となる。これに刺激されてか、貞享(1684~)から、元禄、宝永、正徳、享保にかけて、三都で心中が大流行したという。これらは、読売、絵草紙、流行節、歌祭文(うたざいもん)などのミニコミや「曽根崎心中」など人形浄瑠璃となって全国的に伝えられたんだそうだ。
師走も押し迫ってきて、空気も乾燥している、火元には十分に注意して、「火の用心、火の用心」
(画像は、芳年 八百屋お七「松竹梅湯島掛額」部分、東京消防庁蔵。NHKデーター情報部編ビジュアル百科「江戸事情」第3巻より)
参考:
八百屋お七の地蔵
http://www.photo-make.co.jp/hm_2/ma_24.html
八百屋お七
http://tsukuyomi-club.com/yobanashi/oshichi.html
百屋お七『好色五人女』から
http://www.tokyo-kurenaidan.com/yaoya.htm