今日(12月29日)「シャンソンの日」
1990(平成2)年12月29日、美和明宏、岸洋子、金子由香利などが出演し、シャンソン歌手の登竜門として知られ、文化の発祥地でもあった銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」が閉店した。
昭和38年頃、私が大阪の会社から東京の会社へ移って、まだ、東京の街を知らない頃、妹から東京に住む友達を紹介してもらい出合った。彼女に、銀座の裏通りにシャンソンが生で聞ける店があると案内されたのが「銀巴里」であった。その当時フランスのシャンソンが流行っていたので、私も、当時大阪の梅田にあったシャンソン喫茶などにちょくちょく行ってはいたが、シャンソンファンの彼女と違って、特別にシャンソンのファンでもないので、日本のシャンソン歌手は余り知らなかったが、「メケメケ」の歌で衝撃的なデビューをした丸山明弘(今は美輪明弘)だけは知っており、私が行った日に、その歌を目の前で生で聞けたのには凄く感動したのを思い出す。その後も、彼女と会った時にはよく「銀巴里」へ行ったが、たしかその翌年に、「ヨイトマケの唄」を聞いたように思う。彼が自ら作ったこの歌は、この後、テレビで歌い、大反響となり、全国的に大ヒットするようになった。この頃、越路吹雪の「サントワ・マミ 」も発売され、大ヒット していたな~。当時私は、越路吹雪の歌が大好きだった。
東京にいたのは、5年ほどであり、東京にいるときは酒を飲んで夜の街をさ迷っていたので「銀巴里」のことについても、美輪明弘が銀巴里の専属歌手であったことも何も知らないまま地元神戸へ帰ってきた。だから、「銀巴里」が日本のシャンソンのメッカであることを知ったのはずっと後のことである。1959(昭和34)年に銀巴里でシャンソン歌手の第1回オーデションが始まり、その後、このオーディションをパスして多くの歌手が育っていったんですね~。
話は、それるが、当時、夜の銀座で飲み歩いていた時など七丁目辺りで時々美輪明弘が女性に囲まれて歩いているのを見たことがあるが、当時の彼は、今のような女装はしていなかったな~。
(画像は1997年サンケイホールでの美輪明弘リサイタルのチラシ)
参考:
亀さんのシャンソン丸かじりページ
http://www.chansonkame.com/index.htm
美輪明宏
http://www.o-miwa.co.jp/index.html
1990(平成2)年12月29日、美和明宏、岸洋子、金子由香利などが出演し、シャンソン歌手の登竜門として知られ、文化の発祥地でもあった銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」が閉店した。
昭和38年頃、私が大阪の会社から東京の会社へ移って、まだ、東京の街を知らない頃、妹から東京に住む友達を紹介してもらい出合った。彼女に、銀座の裏通りにシャンソンが生で聞ける店があると案内されたのが「銀巴里」であった。その当時フランスのシャンソンが流行っていたので、私も、当時大阪の梅田にあったシャンソン喫茶などにちょくちょく行ってはいたが、シャンソンファンの彼女と違って、特別にシャンソンのファンでもないので、日本のシャンソン歌手は余り知らなかったが、「メケメケ」の歌で衝撃的なデビューをした丸山明弘(今は美輪明弘)だけは知っており、私が行った日に、その歌を目の前で生で聞けたのには凄く感動したのを思い出す。その後も、彼女と会った時にはよく「銀巴里」へ行ったが、たしかその翌年に、「ヨイトマケの唄」を聞いたように思う。彼が自ら作ったこの歌は、この後、テレビで歌い、大反響となり、全国的に大ヒットするようになった。この頃、越路吹雪の「サントワ・マミ 」も発売され、大ヒット していたな~。当時私は、越路吹雪の歌が大好きだった。
東京にいたのは、5年ほどであり、東京にいるときは酒を飲んで夜の街をさ迷っていたので「銀巴里」のことについても、美輪明弘が銀巴里の専属歌手であったことも何も知らないまま地元神戸へ帰ってきた。だから、「銀巴里」が日本のシャンソンのメッカであることを知ったのはずっと後のことである。1959(昭和34)年に銀巴里でシャンソン歌手の第1回オーデションが始まり、その後、このオーディションをパスして多くの歌手が育っていったんですね~。
話は、それるが、当時、夜の銀座で飲み歩いていた時など七丁目辺りで時々美輪明弘が女性に囲まれて歩いているのを見たことがあるが、当時の彼は、今のような女装はしていなかったな~。
(画像は1997年サンケイホールでの美輪明弘リサイタルのチラシ)
参考:
亀さんのシャンソン丸かじりページ
http://www.chansonkame.com/index.htm
美輪明宏
http://www.o-miwa.co.jp/index.html