今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

レモンの日

2005-10-05 | 記念日
今日(10月5日)は、「レモンの日」
1938(昭和13)年10月5日、高村光太郎の愛妻・智恵子が亡くなった。
高村光太郎、(彫刻家、詩人。小説、美術評論、短歌、絵画、書など多彩な分野で活動)は、約3年半にわたる欧米での留学を終え、1909(明治42)年6月に帰国。光太郎は、当時流行のデカダン(退廃芸術)に流れていったが、長沼智恵子と出会い、彼女の純愛によってそれまでの退廃生活から救われた。そして、智恵子と出会って2年後の1914(大正13)年32歳の時、デカダンとの決別宣言とも言える記念碑的詩集『道程』(処女詩集)を出版した。「僕の前に道はない、僕の後ろに道は出切る」とうたい、前途に何が待ち受けようとも自ら人生の道を切り拓いて行こうという強い決意を表している。この『道程』が出版された年に光太郎は智恵子と結婚した。光太郎は32歳、智恵子は29歳であった。見合い結婚が当たり前の時代の恋愛結婚である。智恵子は、1886(明治19)年,福島の酒造業長沼家の長女として生まれ,日本女子大学校を卒業した洋画家であり、初期『青鞜』の表紙絵を描き,当時の新しい女性の1人と目されていた。しかし、結婚後、愛妻・智恵子は精神分裂症に陥る。千恵子の心をいやそうと、光太郎の仕事もそっちのけの世話もむなしく、病状は悪化し、ついには肺結核をも患い入院。そして、亡くなる数時間前に光太郎の持参したレモンを手にした彼女が、そのレモンに歯を立てて、レモンのすがしい香りと汁液とに身も心も洗われ、精神病を病んでいた千恵子が意識を正常に戻し、もとの智恵子となって静かに息をひきとったという。智恵子、53歳であった。東京都品川区南品川に高村光太郎の文学詩碑が建っており、高村光太郎が妻・智恵子との永却の別れを哀惜して詠まれた、有名な詩「レモン哀歌」が詩碑に刻まれている。この場所は、智惠子が晩年療養生活を送っていたゼイムス坂病院のあったところだそうだ。「レモンの日」は、この 智恵子抄の『レモン哀歌』に因むものである。
レモン哀歌(詩:高村光太郎)
そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白いあかるい死の床で
私の手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関ははそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光つレモンを今日も置かう
智恵子は、高村光太郎との結婚の後、精神障害を発症。豊かな才能を結実させることなくこの世を去った。光太郎にとって、最愛の妻を失ったショックは大きく、智恵子の死後、情熱のほとばしる恋愛時代から、短い結婚生活、そして発病から永遠の別れ……など、彼女と共に生きてきた思い出を一心に書きつづって完成させたのが、1941(昭和16)年8月20日刊行の『智恵子抄』である。彼は、『道程』に次ぐこの『智恵子抄』で一躍国民的詩人になった。しかし、智恵子が死んだ年1938(昭和13)年は、日中戦争勃発直後であり、日本が太平洋戦争に向かって歯止めがかからなくなった時期である。同年、12月、日本放送協会は、高村光太郎ら25人に委嘱した「愛国詩」の放送を開始。太平洋戦争を聖戦と考え、戦争を熱烈に賛美する愛国詩も多数発表した。智恵子を失い、芸術への製作目標を見失った彼は、戦争への協力によって、心の空白を埋めようとしたのではないだろうか。
1945(昭和20)年、空襲にあい、岩手県花巻に疎開、のち、同郊外の山林の掘っ立て小屋で農耕自炊生活を続けた。これは、戦争への協力者である自分を罰するための行為だったといわれている。
『智恵子抄』の中に収められている「レモン哀歌」は教科書にも出てくるとても有名な詩だよね~。
学生時代に、読んだことはあるが、特別文学青年でもなかった男の子にとっては、当時、余り、関心もなく、よく理解もしていなかったが、今、改めて読み直して見ると、光太郎の彼女への愛と思慕、そして彼自身の苦悩と悲しみがぐっと胸に迫って来る。
それにしても、レモンをかじったのは何故だろう?この時代の人には遠い国から渡来した異国の果物・貴重品のレモンに対する思い入れは相当強かったようだ。
レモンと言えば、31歳の若さで夭折した梶井基次郎の有名な短編「檸檬(レモン)」がある。胸を病み、憂うつな気分でいる私の心を、檸檬の冷たさと香りが吹きはらった。自らも病に苦しみながら青春期の焦燥・苛立ち・苦悩を独特の詩的文体で綴った作品群を遺した著者の代表作である。1925(大正14)年1月、同人誌『青空』の創刊号に発表。現在では梶井基次郎の代表作ではあるが、当時は、ただ静かに一同人誌に発表されただけであったようだ。しかし、この短編を智恵子は当然読んでいたのだろうね。
(画像は、レモン哀歌―高村光太郎詩集 集英社文庫)
参考:
高村光太郎~愛と芸術~
杉浦覚「台東区」の台東区ゆかりの文学者より
http://www.aurora.dti.ne.jp/%7Essaton/bungaku/koutaro.html
高村智恵子(1886~1938)
http://www.town.adachi.fukushima.jp/kankou/chieko/chieko.html
作家別作品リスト:梶井 基次郎(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person74.html