1694(元禄7)年 の今日(10月12日)は、「芭蕉忌.時雨忌」。つまり、俳諧師・松尾芭蕉の忌日である。<享年51歳> [1644年生]
松尾芭蕉(まつお ばしょう)は、江戸元禄時代の俳諧師で、松尾は本名の姓であり、俳号としては単に芭蕉(はせを)である。言葉の遊びに過ぎなかった俳諧(※)を文芸の域にまで高めた。俳聖といわれ、翁又蕉翁(しょうおう)とも呼ばれる。1694(元禄7)年、大阪南御堂前、花屋の座敷で亡くなった。南御堂境内(南御堂前にあった花屋仁左衛門宅跡地)に松尾芭蕉終焉石碑がある。最後の句はあの有名な「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」で、この句は芭蕉が亡くなる4日前の10月8日の夜の吟と伝えられている。辞世の句を望んだ門人に対して芭蕉は「平生即ち辞世なり」とことさら辞世の句を与えていない。芭蕉は「きのうの発句はきょうの辞世、きょうの発句はあすの辞世、一句として辞世ならざるはなし」と言ったと花屋日記に書いてあるそうだ。この言葉に芭蕉の俳句への厳しい姿勢と人生観が窺える。
亡き骸は芭蕉の生前からの遺言により、彼の愛した風光明媚な琵琶湖岸にある大津膳所(ぜぜ)の義仲寺(ぎちゅうじ)に葬られた。
花屋の屋敷での芭蕉の終焉前後の様子を、門弟や縁者たちの日記と手紙により再構成した、という形で描いた偽作「花屋日記」(蓬莱文暁作)。偽作とはいえ,正岡子規がこれを読んで感動の涙をこぼしたといわれるが、芥川竜之介もこれ を土台として「枯野抄」を書いている。
芭蕉の忌日を芭蕉忌、翁忌、時雨忌などという。芭蕉が、「時雨」の句を好んでよく詠み、10月の別称が「時雨月」であることからこう呼ばれる。例えば、芭蕉七部集と呼ばれるものの一つの「猿蓑」の発句に「初時雨」が詠まれているが、この蕉門の総力を結集した作品集(編者は去来と凡兆、芭蕉は撰の監修をしている)である「猿蓑」は、芭蕉の俳諧理論である、マンネリからの脱却を目指し、俳諧に新しみを取り入れることを提唱した「不易流行」を具体的に示した撰集で、門人の許六は「宇陀法師」の中でこれを「俳諧の古今集也」と表しているという。
タイトルである「猿蓑」は、芭蕉が「おくのほそ道」の旅を終えて故郷伊賀上野に向かう途中、初時雨に震える猿に出会い「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」と詠んだ句に由来する。
「俳句」といえば「芭蕉」の名前が出てくるほどに有名な俳人だが、芭蕉が忍者だったのではないかという説がある。余り、俳句などという高尚なものとは縁のない、単なる物好きにとっては、こちらの方に興味がある。
忍者説には、彼が、伊賀忍者に関係の深い伊賀(三重県)上野の城下町で、忍者と縁が有った家の子供として生まれていること、又、彼が若い頃に、忍者の頭目と言われている伊賀上野城の城代家老の藤堂家に仕えていたことがあること。そして、奥の細道では自らも翁と称する46才で旅立っているが、常人では歩けない距離、1日に50kmも歩いている日が幾日もあること。同行した曾良との2人分の旅行費用が多額であるが、その出所先が不明であること。最後に同行した曾良が後日幕府探索の仕事をしていると言ったことなどが理由に挙げられている。これらは、まだまだ憶測の段階の様であるが謎の多い人物ではある。
※俳諧(はいかい):俳諧連歌の略。俳諧歌とは滑稽、おかしみのある和歌の一体。連歌とは和歌を何人かで作る言語遊戯。
(画像は明治の絵葉書よりイメージ写真)
参考:
芭蕉翁絵詞伝-花屋の病床
http://www.bashouan.com/psBashouNa12.htm
芭蕉DB
松尾芭蕉とその周辺の人物、「奥の細道」等の文集テキストと解説、50音順や製作年順による俳句全集、書簡集等のデータベース。
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/basho.htm
猿蓑(芭蕉db)
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/shitibusyu/sarumino.htm
F.E.R.C Research Report - File No.1890
松尾芭蕉は本当に忍者だったのか?
http://www.ntv.co.jp/FERC/research/20020901/f1890.html
徹爺の話“ 松尾芭蕉の忍者説 ”
http://hb4.seikyou.ne.jp/home/Takeo.Horii/tetsuya/basyouno.html
松尾芭蕉(まつお ばしょう)は、江戸元禄時代の俳諧師で、松尾は本名の姓であり、俳号としては単に芭蕉(はせを)である。言葉の遊びに過ぎなかった俳諧(※)を文芸の域にまで高めた。俳聖といわれ、翁又蕉翁(しょうおう)とも呼ばれる。1694(元禄7)年、大阪南御堂前、花屋の座敷で亡くなった。南御堂境内(南御堂前にあった花屋仁左衛門宅跡地)に松尾芭蕉終焉石碑がある。最後の句はあの有名な「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」で、この句は芭蕉が亡くなる4日前の10月8日の夜の吟と伝えられている。辞世の句を望んだ門人に対して芭蕉は「平生即ち辞世なり」とことさら辞世の句を与えていない。芭蕉は「きのうの発句はきょうの辞世、きょうの発句はあすの辞世、一句として辞世ならざるはなし」と言ったと花屋日記に書いてあるそうだ。この言葉に芭蕉の俳句への厳しい姿勢と人生観が窺える。
亡き骸は芭蕉の生前からの遺言により、彼の愛した風光明媚な琵琶湖岸にある大津膳所(ぜぜ)の義仲寺(ぎちゅうじ)に葬られた。
花屋の屋敷での芭蕉の終焉前後の様子を、門弟や縁者たちの日記と手紙により再構成した、という形で描いた偽作「花屋日記」(蓬莱文暁作)。偽作とはいえ,正岡子規がこれを読んで感動の涙をこぼしたといわれるが、芥川竜之介もこれ を土台として「枯野抄」を書いている。
芭蕉の忌日を芭蕉忌、翁忌、時雨忌などという。芭蕉が、「時雨」の句を好んでよく詠み、10月の別称が「時雨月」であることからこう呼ばれる。例えば、芭蕉七部集と呼ばれるものの一つの「猿蓑」の発句に「初時雨」が詠まれているが、この蕉門の総力を結集した作品集(編者は去来と凡兆、芭蕉は撰の監修をしている)である「猿蓑」は、芭蕉の俳諧理論である、マンネリからの脱却を目指し、俳諧に新しみを取り入れることを提唱した「不易流行」を具体的に示した撰集で、門人の許六は「宇陀法師」の中でこれを「俳諧の古今集也」と表しているという。
タイトルである「猿蓑」は、芭蕉が「おくのほそ道」の旅を終えて故郷伊賀上野に向かう途中、初時雨に震える猿に出会い「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」と詠んだ句に由来する。
「俳句」といえば「芭蕉」の名前が出てくるほどに有名な俳人だが、芭蕉が忍者だったのではないかという説がある。余り、俳句などという高尚なものとは縁のない、単なる物好きにとっては、こちらの方に興味がある。
忍者説には、彼が、伊賀忍者に関係の深い伊賀(三重県)上野の城下町で、忍者と縁が有った家の子供として生まれていること、又、彼が若い頃に、忍者の頭目と言われている伊賀上野城の城代家老の藤堂家に仕えていたことがあること。そして、奥の細道では自らも翁と称する46才で旅立っているが、常人では歩けない距離、1日に50kmも歩いている日が幾日もあること。同行した曾良との2人分の旅行費用が多額であるが、その出所先が不明であること。最後に同行した曾良が後日幕府探索の仕事をしていると言ったことなどが理由に挙げられている。これらは、まだまだ憶測の段階の様であるが謎の多い人物ではある。
※俳諧(はいかい):俳諧連歌の略。俳諧歌とは滑稽、おかしみのある和歌の一体。連歌とは和歌を何人かで作る言語遊戯。
(画像は明治の絵葉書よりイメージ写真)
参考:
芭蕉翁絵詞伝-花屋の病床
http://www.bashouan.com/psBashouNa12.htm
芭蕉DB
松尾芭蕉とその周辺の人物、「奥の細道」等の文集テキストと解説、50音順や製作年順による俳句全集、書簡集等のデータベース。
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/basho.htm
猿蓑(芭蕉db)
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/shitibusyu/sarumino.htm
F.E.R.C Research Report - File No.1890
松尾芭蕉は本当に忍者だったのか?
http://www.ntv.co.jp/FERC/research/20020901/f1890.html
徹爺の話“ 松尾芭蕉の忍者説 ”
http://hb4.seikyou.ne.jp/home/Takeo.Horii/tetsuya/basyouno.html