今日(1月3日)は「駆け落ちの日」
1938(昭和13)年1月3日、女優の岡田嘉子は、共産党員で新協劇団の演出家で、恋人でもある杉本良吉と、当時日本領土であった樺太(現サハリン)の国境を越えてソ連へ亡命した。
ソ連で二人はスパイ容疑で国家警察に逮捕され、岡田は、禁錮10年、強制収用所送りとなり、杉本は国家反逆罪で銃殺された。1947(昭和22)年釈放された岡田は、翌年モスクワ放送に日本向け番組のアナウンサーとして採用される。更に1952(昭和27)年、50歳にして、ルナチャルスキー国立演劇大学に入学。卒業公演に「女の一生」を演出して、ソ連演劇界から高い評価を受けたという。
岡田嘉子は、1902(明治35)年生まれ。1919(大正8)年初舞台。1920(大正9)年に舞台協会に参加。翌1921(大正10)年帝劇公演「出家とその弟子」の芸妓役で一躍脚光をあびる。 1922(大正11)年には映画にも出演。1925(大正14)年10月の映画女優の人気投票でトップとなり、日本の代表的な映画スターとしての地位を決定的なものにし、大正末期から昭和初期にかけて全国的なファンをバックに大活躍をしていた。
その岡田が、日中戦争勃発で風雲急を告げる1938(昭和13)年1月3日に、突然に愛人の杉本良吉との国境を越えた「恋の逃避行」はあまりにも有名な話である。岡田と杉本のすべてを捨ててのソ連への亡命は、日本国内でも謎とされていたが、岡田は亡命の動機を自叙伝「悔いなき命を」のなかで、「モスクワへ行けたら、そこには土方与志と佐野碩がいるはずで、彼はそこで国際的左翼演劇機関と連絡をとって仕事をする。私は演劇の勉強をするはずだった。」と回想しているという。
岡田には、杉本と違って、思想上のトラブルは過去になかったようだが、逃避癖があったようだ。岡田は、舞台協会に参加した翌年、1921(大正10)年には仲間の俳優服部義治との間に男の子を生んでいるが、世間体をはばかり、岡田の両親の子供として届けられているという。服部は岡田と別れた後、鉄道自殺を遂げているそうだ。その後も、同じく俳優の山田隆弥と内縁関係にあったようだが、1927(昭和2)年には「椿姫」撮影中に内縁中の山田隆弥を捨てて、相手役の竹内良一と京都からの失踪事件を起こし、世間を騒がせているなど彼女の相手は次々と変り、ついに杉本良吉とのソ連越境に至ているのである。随分と恋多き乙女というか、恋に一途な女性だったのだろうね~。
その、岡田嘉子が、日本の新劇人の支援で1972(昭和47)年11月にモスクワ発日航機で34年ぶりに帰国。羽田空港に着いた彼女は宇野重吉ら旧知の新劇人やファンに出迎えられた。そのとき、彼女の胸に抱かれていたのは・・・、ソ連で結婚した夫・滝口新太郎の遺骨であった。
その後、日本で「男はつらいよ」シリーズなど幾つかの映画に出演していたが、1986(昭和61)年に、「日本での女優活動も限界」「ソ連もゴルバチョフになって住みやすくなったでしょう」とモスクワに戻り、1992(平成4)年2月10日、彼女は、モスクワの自宅で89歳の生涯を閉じた。遺体は、杉本の遺骨が埋められているドンスコイ火葬場で焼かれ、遺骨は日本に戻った。岡田家之墓の側に滝口新太郎と岡田嘉子の自筆が刻む墓石が建ち、その墓石には「悔いなき人生をひとすじに」と刻まれている。
(画像は、「人間の記録 ・田嘉子―悔いなき命を 」岡田 嘉子 (著)。日本図書センタ- )
参考:
誰か昭和を想わざる 雪の樺太逃避行
w.geocities.jp/showahistory/history2/13a.html
国境を越える夢と逆夢
http://homepage3.nifty.com/katote/Border.html
岡田嘉子の墓
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/okada_yo.html
1938(昭和13)年1月3日、女優の岡田嘉子は、共産党員で新協劇団の演出家で、恋人でもある杉本良吉と、当時日本領土であった樺太(現サハリン)の国境を越えてソ連へ亡命した。
ソ連で二人はスパイ容疑で国家警察に逮捕され、岡田は、禁錮10年、強制収用所送りとなり、杉本は国家反逆罪で銃殺された。1947(昭和22)年釈放された岡田は、翌年モスクワ放送に日本向け番組のアナウンサーとして採用される。更に1952(昭和27)年、50歳にして、ルナチャルスキー国立演劇大学に入学。卒業公演に「女の一生」を演出して、ソ連演劇界から高い評価を受けたという。
岡田嘉子は、1902(明治35)年生まれ。1919(大正8)年初舞台。1920(大正9)年に舞台協会に参加。翌1921(大正10)年帝劇公演「出家とその弟子」の芸妓役で一躍脚光をあびる。 1922(大正11)年には映画にも出演。1925(大正14)年10月の映画女優の人気投票でトップとなり、日本の代表的な映画スターとしての地位を決定的なものにし、大正末期から昭和初期にかけて全国的なファンをバックに大活躍をしていた。
その岡田が、日中戦争勃発で風雲急を告げる1938(昭和13)年1月3日に、突然に愛人の杉本良吉との国境を越えた「恋の逃避行」はあまりにも有名な話である。岡田と杉本のすべてを捨ててのソ連への亡命は、日本国内でも謎とされていたが、岡田は亡命の動機を自叙伝「悔いなき命を」のなかで、「モスクワへ行けたら、そこには土方与志と佐野碩がいるはずで、彼はそこで国際的左翼演劇機関と連絡をとって仕事をする。私は演劇の勉強をするはずだった。」と回想しているという。
岡田には、杉本と違って、思想上のトラブルは過去になかったようだが、逃避癖があったようだ。岡田は、舞台協会に参加した翌年、1921(大正10)年には仲間の俳優服部義治との間に男の子を生んでいるが、世間体をはばかり、岡田の両親の子供として届けられているという。服部は岡田と別れた後、鉄道自殺を遂げているそうだ。その後も、同じく俳優の山田隆弥と内縁関係にあったようだが、1927(昭和2)年には「椿姫」撮影中に内縁中の山田隆弥を捨てて、相手役の竹内良一と京都からの失踪事件を起こし、世間を騒がせているなど彼女の相手は次々と変り、ついに杉本良吉とのソ連越境に至ているのである。随分と恋多き乙女というか、恋に一途な女性だったのだろうね~。
その、岡田嘉子が、日本の新劇人の支援で1972(昭和47)年11月にモスクワ発日航機で34年ぶりに帰国。羽田空港に着いた彼女は宇野重吉ら旧知の新劇人やファンに出迎えられた。そのとき、彼女の胸に抱かれていたのは・・・、ソ連で結婚した夫・滝口新太郎の遺骨であった。
その後、日本で「男はつらいよ」シリーズなど幾つかの映画に出演していたが、1986(昭和61)年に、「日本での女優活動も限界」「ソ連もゴルバチョフになって住みやすくなったでしょう」とモスクワに戻り、1992(平成4)年2月10日、彼女は、モスクワの自宅で89歳の生涯を閉じた。遺体は、杉本の遺骨が埋められているドンスコイ火葬場で焼かれ、遺骨は日本に戻った。岡田家之墓の側に滝口新太郎と岡田嘉子の自筆が刻む墓石が建ち、その墓石には「悔いなき人生をひとすじに」と刻まれている。
(画像は、「人間の記録 ・田嘉子―悔いなき命を 」岡田 嘉子 (著)。日本図書センタ- )
参考:
誰か昭和を想わざる 雪の樺太逃避行
w.geocities.jp/showahistory/history2/13a.html
国境を越える夢と逆夢
http://homepage3.nifty.com/katote/Border.html
岡田嘉子の墓
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/okada_yo.html