毎月18日は頭髪の日だそうだ。「1(とう)8(はつ)の語呂合わせから、全国理容環境衛生協同組合連合会が1978(昭和53)年に制定した。他に、「とう(10)はつ(20)」の語呂合せから、日本毛髪科学協会が制定した、10月20日の「頭髪の日」がある。いろいろな団体が色々な 記念日を制定しているが、同じ名前の記念日は紛らわしいね~。
髪の毛の伸びる早さには個人差はあるが、1日で約0.3~0.5mmづつ伸びるらしい。人の平均的な髪の毛の本数は10万本位らしく、又平均、1本の髪の毛が1日に0.5ミリ伸びるとすれば、髪は1日50メートルも伸びていることになるそうだ。
「健康でありたい」「若くありたい」「美しくありたい」と言うのは、人間の基本的な欲求であろうが、この頭髪の悩みを抱えている人は結構多いのだね~。
日本毛髪科学協会のHPを見ると、薄毛や脱毛症を抱える人は、日本で1000万人以上に上ると言われているそうで、そんな髪にまつわる悲喜こもごもを、ユーモアたっぷりの川柳にして笑い飛ばしてしまおうと、同協会では、「頭髪の日」に、“毛髪川柳コンテスト”なるものを催している。2005年はその第2回目となるようだが、最優秀賞に選ばれているのが、 「薄毛にも 構造改革 植える髪 」。
他の優秀賞などにも面白いものがあるが、私は、スポンサー賞 に選ばれている「植毛後 写真の数が グッと増え 」・・・これが面白いなと思った。
髪の毛は人間の表面的なものでしかないのだが、その髪の毛によって、その人の雰囲気が随分と変わり、そしてその人の気持ちまでも変えてしまうようで、特に、女性の美しさを顕著に表現するのが「髪の毛」だと言われている。ことわざに「女の髪の毛には大象(たいぞう)も繋(つな)がる」と言うのがあり、これは、女性の髪で作った綱は、大きな象を引っ張れるほど強い。と言う意味であり、又、女性の美貌が男を引き付ける力の強いことをもいうのだとか。だから、男女同じ様に頭髪の悩みをかかえていても、男性よりも美しくありたいと願っている女性の方がより深刻なのだろう~。
平安時代、女性の髪形はそれまでの唐様式から、国風文化と呼ばれる王朝の優美な文化が形成されていく中で、女性の髪形も自然な垂髪にして裾に引く形へと変化していった。戦乱のない平和な時代が続いたことや、高貴な女性が室内に閉じこもって生活し、彼女たちの社会に参加する度合が少なくなってきたことも髪形の変化に大きく影響しているようだ。このような垂髪は労働には向いていないので、働く必要のある女性たちは、垂髪の1~2ヵ所を元結(もとゆい)で結び背後にまとめることで、動作の便をはかっていた。
紫式部の「源氏物語」は、光源氏の恋の遍歴の物語であるが、登場する女性たちが実に魅力的に描かれている。この時代、背丈より長い髪は「女の命」。この「源氏物語」の中でも、女性の髪に関する記述は繰り返し描かれている。当時、外にいる男性が、室内に閉じこもって生活している女性たちのことを想像しようとすれば、御簾の下からわずかに見える衣の裾や、長く引く黒髪くらいしかその手がかりとなるものがなかった。又、瀬戸内寂聴さんの「源氏物語」の解説の中にも、この時代では、たとえ貴族の家でも油は貴重品なので、夜は殆ど明かりをつけなかった。 だから、密事を行うときも真っ暗な中。 手探りの密事のときに、手に触れるものが髪の毛だった。 長い髪の手触りで「この女は、髪が長くて、つやつやしていて、いいな。」って、男が撫でた。 だから、愛撫のために非常に女の髪の毛は重要な役目をしただろう・・・と書いてあった。 つまり、髪は、顔を見せない当時の女性たちが唯一見せる身体の一部であったようであり、髪が重要視されたのもむりもないことらしい。そのようなことから、「源氏物語」の場合には、「長い髪の持主」すなわち「美人(顔)」であるというわけではなかったようである。
「源氏物語」に出てくる故常陸宮の姫君 末摘花(すえつむはな)をご存知?。決して美人とはいえない容貌ながら、光源氏をも魅了した見事な黒髪をもつ女性である。彼女の髪の長さは、「頭つき髪のかかりはしも美しげにめでたしと思ひ聞ゆる人にもおさおさ劣るまじう袿の裾にたまりて曳かれたるほど一尺ばかり余りたらんと見ゆ。」とあるように、「源氏物語」に登場する女君たちの中で一番の長さであったようだ。だから、身長よりも長い髪を持っていることが当時の美人の基準となっていたともいえる。
日本語の豊かな表現に、擬音語や擬態語があるが、髪の毛について、「つやつや」としたと言った表現がある。以下の参考「擬音語・擬態語に魅せられる(山口仲美)」によると、「源氏物語」では、擬態語などを登場人物の人柄を象徴させる方向で巧みに使っており、例えば、黒髪の形容すら人物造型の方向で使われているという。「源氏物語」には、黒髪の描写として「つやつや」と「はらはら」と「ゆらゆら」の三種の擬態語が出て来るが、この三種の擬態語は、どれも髪の美しさをあらわすのだとか。美しい髪なら、誰に使ってもいいはずであり、事実、『源氏物語』以外の作品では、長い髪の女性なら、だれかれかまわず、三種の語をまぜこぜに使っているが、「源氏物語」は違うのだとか。「つやつや」で、黒髪の光沢美をたたえられるのは、女主人公格の女性に限られており、「はらはら」で黒髪のこぼれかかる美しさを形容される人物は、美しいけれど脇役的な性格をもつ女性に限られるのだそうだ。「つやつや」は、髪の毛自体の美しさを意味し、それは繕わなくても整い輝く天性の美で、「はらはら」は、髪の毛自体の美しさというより、衣服や枕や顔といった他の物が介在し、それとの調和によってもたらされた二次的な美なのだそうだ。「源氏物語」の作者は、天性の美を二次的に生み出された美よりも上位におき、「つやつや」を女主人公格の女性にのみ使用して区別しているのだそうだ。又、「ゆらゆら」は、小さな子供の髪の美しさに用いている。子供の髪は短いし、子供は動くので、区別して使った理由がよく分かる。他の作品では、「ゆらゆら」も女性の黒髪の美しさの形容に使い、区別していないという。このように、「源氏物語」では擬態語を区別して使用し、人物造型までおこなっているのだとか。流石に紫式部は表現の天才だね~。
この時代の社会において、「社会人」とは皇族や貴族の男性だけを意味していて、女性は社会の枠組みの中には入っていなかった。また、髪の長さは美しさの基準であり貴族の女性にとって重要な身体表現の1つであったと、同時に、それは“働かない女”の身体でもあった。「源氏物語」の中には、髪を切った女性を美しいと表現している部分も数多くある。長い髪の毛は男性に縛られて生きる女の象徴であり、髪を切るということが、女性を見られる身体からの解放を意味していたようだ。「源氏物語」では、 どの女も、源氏に言わないで黙って次々と出家していく。出家したとわかったら 源氏は女のもとへ飛んでゆき、女にとりすがって許しを請うのである。物語では、最初に出家するのは藤壺であった。この当時、出家と言っても丸坊主になる訳でもなく、髪を肩まで切るだけなのだがこれが大変なことだったわけだが、しかし、このことによって、女性は男を見返すことが出来たのである。
与謝野 晶子 の古典研究は、短歌創作や評論活動、教育活動などと並ぶ重要な分野の一つであり、特に「源氏物語」については、現代語訳を生涯で三回行っている。その与謝野 晶子 が24歳の時(1901=明治34年)、処女歌集『みだれ髪』を夫与謝野寛の編集で刊行している。
「くろ髪の千すじの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる」
「その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」
「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」。凛然と、誇らかな情熱をもって、命がけの恋心を、今この時の自身の美しさを歌いあげた。
「くろ髪の・・・」の歌は、一人孤閨にあつて思ひ乱れる麗人の心緒を髪の乱れに具象した作で、歌集の「乱れ髪」の題となったものか。明治34年のまだ、女性が自我や性愛を表現するなど考えられもしなかった時代に、このように女性の官能をおおらかに謳いあげたものだが、『みだれ髪』とタイトルでこれをよくあらわしている。
女性の「美しい髪」は、歌の中で又数多くの物語の中で女性を具象化する重要な素材として多く採りあげられている。
「髪の乱れに 手をやれば 赤い毛だしが 風に舞う・・・・・」
この歌は、1987(昭和62)年の美空ひばりの復帰作「乱れ髪」である。「乱れ髪」は低音から高音まで、ものすごく音域の広い歌であり、「ひばりにしか唄えない歌を作ってやろう」 と、作詞:星野哲郎、作曲:船村徹の名コンビで作られた名曲 で、私の大好きな歌であるが、同様である。
この歌の三番には「春は二重に~」と言うのがあり、万葉集の大伴家持の短歌の「一重のみ妹が結ばむ帯をすら三重結ぶべく吾が身はなりぬ」をベースにしたものらしく、つまり、貴方を想うあまりにこれほどやつれてしまった、という切ない恋の思いを表現したすばらしい詩である。「乱れ髪」が情勢の切ない気持ちを表している。本当に、女性の気持ちや身体表現をするのに「髪の毛」はぴったりだな~。
長い髪の毛の女性は今でも男性から見ると魅力的であり、女性が長い髪の毛を手でくねくねいじっている姿は誘惑的である。しかし、映画「ローマの休日」のオードリー・ヘップバーン。映画の中の彼女はショートカットだった。映画が公開された当時の女性は髪の毛の長さと美しさを競っていた。日本だけでなく外国でも、女性の魅力は髪の毛にあると考えていたからである。しかし、この映画で、ヘップバーンはショートカットの可愛いらしさを見せつけてくれ、このときからショートカットが瞬く間に世界中に流行した。やはり、美しい女性は、髪の毛が長くても短くても魅力的だね~。ただ、その美しさの表現に髪の毛が重要であることに変りはない。流行がどんどん移りゆく現代では、女性にとって髪はファッションの一部ともなっている。それだけに、髪が抜けやすい、髪が薄くなったと感じている女性の悩みが男性以上に深刻なのは良くわかる気がするね~。
(画像は、百人一首の紫式部の札。歌は「めぐりあいて みしやそれとも わか沼に雲がくれにし 夜半のつきかな」。)
参考:
図書カード:源氏物語(副題6末摘花。翻訳者:与謝野 晶子)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000052/card5021.html
日本文学インタビュー フェリス女学院大学 三田村 雅子先生
http://www.kawai-juku.ac.jp/prof/kokubun/kokubun-mitamura.html
論文4…擬音語・擬態語に魅せられる(山口仲美)
http://www015.upp.so-net.ne.jp/naka0930/ronbun4.html
有鄰 No.444 P3 インタビュー 瀬戸内寂聴さんに聴く-源氏物語
http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/yurin_444/yurin3.html
髪の手入れ
http://evagenji.hp.infoseek.co.jp/co-2002-6-6.htm
源氏物語研究
http://homepage2.nifty.com/Eva-Genji/book-genjikenkyuu.htm
み だ れ 髪 (作詞) 星野哲郎 (作曲) 船村 徹
http://www.d5.dion.ne.jp/~toshi.tk/midaregami.htm
今日(5月29日)は「白櫻忌,晶子忌」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/4640636a8e15f9ff1736f74843dccf5b
NPO法人日本自毛植毛センター
http://www.jimou.jp/
日本毛髪科学協会とは髪の悩みは育毛発毛増毛辞典におまかせ!
http://kaminoke.kenjin.biz/archives/2005/10/post_202.html
全国理美容団体
http://www.salon-net.org/group/
髪の毛の伸びる早さには個人差はあるが、1日で約0.3~0.5mmづつ伸びるらしい。人の平均的な髪の毛の本数は10万本位らしく、又平均、1本の髪の毛が1日に0.5ミリ伸びるとすれば、髪は1日50メートルも伸びていることになるそうだ。
「健康でありたい」「若くありたい」「美しくありたい」と言うのは、人間の基本的な欲求であろうが、この頭髪の悩みを抱えている人は結構多いのだね~。
日本毛髪科学協会のHPを見ると、薄毛や脱毛症を抱える人は、日本で1000万人以上に上ると言われているそうで、そんな髪にまつわる悲喜こもごもを、ユーモアたっぷりの川柳にして笑い飛ばしてしまおうと、同協会では、「頭髪の日」に、“毛髪川柳コンテスト”なるものを催している。2005年はその第2回目となるようだが、最優秀賞に選ばれているのが、 「薄毛にも 構造改革 植える髪 」。
他の優秀賞などにも面白いものがあるが、私は、スポンサー賞 に選ばれている「植毛後 写真の数が グッと増え 」・・・これが面白いなと思った。
髪の毛は人間の表面的なものでしかないのだが、その髪の毛によって、その人の雰囲気が随分と変わり、そしてその人の気持ちまでも変えてしまうようで、特に、女性の美しさを顕著に表現するのが「髪の毛」だと言われている。ことわざに「女の髪の毛には大象(たいぞう)も繋(つな)がる」と言うのがあり、これは、女性の髪で作った綱は、大きな象を引っ張れるほど強い。と言う意味であり、又、女性の美貌が男を引き付ける力の強いことをもいうのだとか。だから、男女同じ様に頭髪の悩みをかかえていても、男性よりも美しくありたいと願っている女性の方がより深刻なのだろう~。
平安時代、女性の髪形はそれまでの唐様式から、国風文化と呼ばれる王朝の優美な文化が形成されていく中で、女性の髪形も自然な垂髪にして裾に引く形へと変化していった。戦乱のない平和な時代が続いたことや、高貴な女性が室内に閉じこもって生活し、彼女たちの社会に参加する度合が少なくなってきたことも髪形の変化に大きく影響しているようだ。このような垂髪は労働には向いていないので、働く必要のある女性たちは、垂髪の1~2ヵ所を元結(もとゆい)で結び背後にまとめることで、動作の便をはかっていた。
紫式部の「源氏物語」は、光源氏の恋の遍歴の物語であるが、登場する女性たちが実に魅力的に描かれている。この時代、背丈より長い髪は「女の命」。この「源氏物語」の中でも、女性の髪に関する記述は繰り返し描かれている。当時、外にいる男性が、室内に閉じこもって生活している女性たちのことを想像しようとすれば、御簾の下からわずかに見える衣の裾や、長く引く黒髪くらいしかその手がかりとなるものがなかった。又、瀬戸内寂聴さんの「源氏物語」の解説の中にも、この時代では、たとえ貴族の家でも油は貴重品なので、夜は殆ど明かりをつけなかった。 だから、密事を行うときも真っ暗な中。 手探りの密事のときに、手に触れるものが髪の毛だった。 長い髪の手触りで「この女は、髪が長くて、つやつやしていて、いいな。」って、男が撫でた。 だから、愛撫のために非常に女の髪の毛は重要な役目をしただろう・・・と書いてあった。 つまり、髪は、顔を見せない当時の女性たちが唯一見せる身体の一部であったようであり、髪が重要視されたのもむりもないことらしい。そのようなことから、「源氏物語」の場合には、「長い髪の持主」すなわち「美人(顔)」であるというわけではなかったようである。
「源氏物語」に出てくる故常陸宮の姫君 末摘花(すえつむはな)をご存知?。決して美人とはいえない容貌ながら、光源氏をも魅了した見事な黒髪をもつ女性である。彼女の髪の長さは、「頭つき髪のかかりはしも美しげにめでたしと思ひ聞ゆる人にもおさおさ劣るまじう袿の裾にたまりて曳かれたるほど一尺ばかり余りたらんと見ゆ。」とあるように、「源氏物語」に登場する女君たちの中で一番の長さであったようだ。だから、身長よりも長い髪を持っていることが当時の美人の基準となっていたともいえる。
日本語の豊かな表現に、擬音語や擬態語があるが、髪の毛について、「つやつや」としたと言った表現がある。以下の参考「擬音語・擬態語に魅せられる(山口仲美)」によると、「源氏物語」では、擬態語などを登場人物の人柄を象徴させる方向で巧みに使っており、例えば、黒髪の形容すら人物造型の方向で使われているという。「源氏物語」には、黒髪の描写として「つやつや」と「はらはら」と「ゆらゆら」の三種の擬態語が出て来るが、この三種の擬態語は、どれも髪の美しさをあらわすのだとか。美しい髪なら、誰に使ってもいいはずであり、事実、『源氏物語』以外の作品では、長い髪の女性なら、だれかれかまわず、三種の語をまぜこぜに使っているが、「源氏物語」は違うのだとか。「つやつや」で、黒髪の光沢美をたたえられるのは、女主人公格の女性に限られており、「はらはら」で黒髪のこぼれかかる美しさを形容される人物は、美しいけれど脇役的な性格をもつ女性に限られるのだそうだ。「つやつや」は、髪の毛自体の美しさを意味し、それは繕わなくても整い輝く天性の美で、「はらはら」は、髪の毛自体の美しさというより、衣服や枕や顔といった他の物が介在し、それとの調和によってもたらされた二次的な美なのだそうだ。「源氏物語」の作者は、天性の美を二次的に生み出された美よりも上位におき、「つやつや」を女主人公格の女性にのみ使用して区別しているのだそうだ。又、「ゆらゆら」は、小さな子供の髪の美しさに用いている。子供の髪は短いし、子供は動くので、区別して使った理由がよく分かる。他の作品では、「ゆらゆら」も女性の黒髪の美しさの形容に使い、区別していないという。このように、「源氏物語」では擬態語を区別して使用し、人物造型までおこなっているのだとか。流石に紫式部は表現の天才だね~。
この時代の社会において、「社会人」とは皇族や貴族の男性だけを意味していて、女性は社会の枠組みの中には入っていなかった。また、髪の長さは美しさの基準であり貴族の女性にとって重要な身体表現の1つであったと、同時に、それは“働かない女”の身体でもあった。「源氏物語」の中には、髪を切った女性を美しいと表現している部分も数多くある。長い髪の毛は男性に縛られて生きる女の象徴であり、髪を切るということが、女性を見られる身体からの解放を意味していたようだ。「源氏物語」では、 どの女も、源氏に言わないで黙って次々と出家していく。出家したとわかったら 源氏は女のもとへ飛んでゆき、女にとりすがって許しを請うのである。物語では、最初に出家するのは藤壺であった。この当時、出家と言っても丸坊主になる訳でもなく、髪を肩まで切るだけなのだがこれが大変なことだったわけだが、しかし、このことによって、女性は男を見返すことが出来たのである。
与謝野 晶子 の古典研究は、短歌創作や評論活動、教育活動などと並ぶ重要な分野の一つであり、特に「源氏物語」については、現代語訳を生涯で三回行っている。その与謝野 晶子 が24歳の時(1901=明治34年)、処女歌集『みだれ髪』を夫与謝野寛の編集で刊行している。
「くろ髪の千すじの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる」
「その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」
「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」。凛然と、誇らかな情熱をもって、命がけの恋心を、今この時の自身の美しさを歌いあげた。
「くろ髪の・・・」の歌は、一人孤閨にあつて思ひ乱れる麗人の心緒を髪の乱れに具象した作で、歌集の「乱れ髪」の題となったものか。明治34年のまだ、女性が自我や性愛を表現するなど考えられもしなかった時代に、このように女性の官能をおおらかに謳いあげたものだが、『みだれ髪』とタイトルでこれをよくあらわしている。
女性の「美しい髪」は、歌の中で又数多くの物語の中で女性を具象化する重要な素材として多く採りあげられている。
「髪の乱れに 手をやれば 赤い毛だしが 風に舞う・・・・・」
この歌は、1987(昭和62)年の美空ひばりの復帰作「乱れ髪」である。「乱れ髪」は低音から高音まで、ものすごく音域の広い歌であり、「ひばりにしか唄えない歌を作ってやろう」 と、作詞:星野哲郎、作曲:船村徹の名コンビで作られた名曲 で、私の大好きな歌であるが、同様である。
この歌の三番には「春は二重に~」と言うのがあり、万葉集の大伴家持の短歌の「一重のみ妹が結ばむ帯をすら三重結ぶべく吾が身はなりぬ」をベースにしたものらしく、つまり、貴方を想うあまりにこれほどやつれてしまった、という切ない恋の思いを表現したすばらしい詩である。「乱れ髪」が情勢の切ない気持ちを表している。本当に、女性の気持ちや身体表現をするのに「髪の毛」はぴったりだな~。
長い髪の毛の女性は今でも男性から見ると魅力的であり、女性が長い髪の毛を手でくねくねいじっている姿は誘惑的である。しかし、映画「ローマの休日」のオードリー・ヘップバーン。映画の中の彼女はショートカットだった。映画が公開された当時の女性は髪の毛の長さと美しさを競っていた。日本だけでなく外国でも、女性の魅力は髪の毛にあると考えていたからである。しかし、この映画で、ヘップバーンはショートカットの可愛いらしさを見せつけてくれ、このときからショートカットが瞬く間に世界中に流行した。やはり、美しい女性は、髪の毛が長くても短くても魅力的だね~。ただ、その美しさの表現に髪の毛が重要であることに変りはない。流行がどんどん移りゆく現代では、女性にとって髪はファッションの一部ともなっている。それだけに、髪が抜けやすい、髪が薄くなったと感じている女性の悩みが男性以上に深刻なのは良くわかる気がするね~。
(画像は、百人一首の紫式部の札。歌は「めぐりあいて みしやそれとも わか沼に雲がくれにし 夜半のつきかな」。)
参考:
図書カード:源氏物語(副題6末摘花。翻訳者:与謝野 晶子)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000052/card5021.html
日本文学インタビュー フェリス女学院大学 三田村 雅子先生
http://www.kawai-juku.ac.jp/prof/kokubun/kokubun-mitamura.html
論文4…擬音語・擬態語に魅せられる(山口仲美)
http://www015.upp.so-net.ne.jp/naka0930/ronbun4.html
有鄰 No.444 P3 インタビュー 瀬戸内寂聴さんに聴く-源氏物語
http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/yurin_444/yurin3.html
髪の手入れ
http://evagenji.hp.infoseek.co.jp/co-2002-6-6.htm
源氏物語研究
http://homepage2.nifty.com/Eva-Genji/book-genjikenkyuu.htm
み だ れ 髪 (作詞) 星野哲郎 (作曲) 船村 徹
http://www.d5.dion.ne.jp/~toshi.tk/midaregami.htm
今日(5月29日)は「白櫻忌,晶子忌」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/4640636a8e15f9ff1736f74843dccf5b
NPO法人日本自毛植毛センター
http://www.jimou.jp/
日本毛髪科学協会とは髪の悩みは育毛発毛増毛辞典におまかせ!
http://kaminoke.kenjin.biz/archives/2005/10/post_202.html
全国理美容団体
http://www.salon-net.org/group/