今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「日劇ダンシングチーム(NDT)」が初公演した 日

2006-01-13 | 歴史
1936(昭和11)年の今日(1月13日) 「日劇ダンシングチーム(NDT)」が初公演した 。
東京の有楽町の日劇で演じられていた「日劇ダンシングチーム」こと”NDT”は日本のトップダンサーたちが所属していた、今でいうダンスカンパニーと言えるだろう。日劇正しくは「日本劇場」の開館は、1933(昭和8)年12月24日。主に映画とミュージカル等実演と併演するタイプの東宝系の大劇場であった。開館8日後の元日に、目と花の先の日比谷公会堂 に東京宝塚劇場がオープンしたものの、東京の興行街は浅草・松竹(國際劇場)対日比谷・東宝(日劇)の主導権争いとなったが東宝系の日劇は、ニューヨークのラジオシティーミュージックホールのロケットガールのラインダンスにヒントを得て、7世松本幸四郎の甥にあたる秦豊吉(はた・とよきち)の猛特訓の下、専属の日劇ダンシングチーム(NDT)を創設し、1936(昭和11)年1月13日に初公演をした。この1月13日の最初の公演は、日本映画のアトラクションとしてのもので、あくまでメインは、映画であり、レビューは添え物だったようであり、翌1937(昭和12)年の明治維新70年レビューが人気を呼び、1ヶ月公演が定着したようだ。その後、男性ダンサーも加わったNDTは宝塚と松竹歌劇団(SKD)の女性レビューしかしらなかった当時の人々に新鮮な衝撃を与え、1944(昭和19)年3月1日に政府によって公演停止命令が命じられるまで、レビューは戦中の娯楽として多くの観客の支持を集めた。戦後の1945(昭和20)年12月いち早くも復活し、暗い世相に娯楽を求める客が長蛇の列を作った。昭和23年にSKDの川路龍子などがゲスト出演した世界のクリスマスショーでは、5日間で3万人を動員、昭和34年にはダンサー300人を抱えてピークを迎えていた。丹下清子、北原三枝、重山規子などのスターも輩出、のべ1万人がNDTを卒業していった。(付け足し:今話題のあのマツケンサンバの振付師真島茂樹さんも、当時日劇のトップダンサーだったのだよ。)しかし、日劇の主役はレビューから歌手のショーへと変り始め、昭和40年代に入るとテレビが普及、ナベプロがスクールメイツを結成し、厳しい練習のNDTへの入団希望者が激減、芸能界志望者の若い女性はステージよりもテレビを選んだ。そして、華やかなステージに暗い影を投げかけたのは特に昭和48年の石油ショックが大きかったと言う。衣装代や大装置代の高騰、観客の減少、人件費の負担、もろもろのしわ寄せが一気にレビューを襲った。NDTはラスベガスやパリからトップレスの外人ダンサーを招いて難局を乗り切ろうとしたが、話題にはなったものの売り上げには結びつかなかったという。そして、昭和52年4月25日、とうとう、NDTのレビューは特別公演もないまま、通常のプログラムの途中で41年間の歴史に幕を下ろした。最終公演となったこの夜は立ち見客も出る大盛況で、ダンサー達は涙でラストラインダンスを踊り収めたと言う。
東京にはかって、レビューという華やかなステージがあったのだ。東京の2大レビューは有楽町の日劇で演じられていたNDTこと「日劇ダンシングチーム」と浅草の國際劇場で演じられていたSKDこと「松竹歌劇団」であった。NDTの最終公演があった後も、水の江滝子、そして小倉みね子、オリエ津阪、などを輩出していたSKDも不振であり、規模を縮小し、小規模のミュージカルチームとして頑張っていたが、これも、國際劇場の客席を余り埋めることが出来なくなり、國際劇場が姿を消す。國際劇場撤退後も暫くは頑張っていたが、平成8年に解散した。ここに、本格的なレビュー時代が日本から去ったといえる。
日劇は、戦前は日劇ダンシングチームからエノケン(榎本健一)を初めとする東宝国民劇を生み1941(昭和16)年2月21日紀元節(今の建国記念日)の日には、映画「蘭印探訪記」とショー「歌ふ李香蘭」(3回公演)の二本立てに押しかけた人々が円形の日劇を七まわり半取り巻いたと言う。お目当ては、長谷川一夫との中国を舞台にしたメロドラマ映画で人気絶頂の李香蘭が目当てであった。整理にあたった警察官は、群集にホースで水をぶっ掛け、「時局を認識せよ」と叫んだという。この事件は、その後、俗に「歌ふ李香蘭」の七周り半事件の伝説は今日まで長く伝えられている。そして、2度目は、戦後で、1958(昭和33)年2月8日から始まった「ウエスタン・カーニバル」であった。日劇のエポックは妙に2月に縁があるようで、ニッパチといって、客の入らない2月に若者目当てのロカビリーをという企画が大当たりし、14日までの1週間に5万人が入場し「ウエスタン・カーニバル」は一躍、日劇のドル箱となり、新時代のヒーロー平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキーカーチス、のロカビリー3人男を生み出した。仕掛け人はマダムロカビリーと呼ばれた渡辺美佐である。第2回は水原ひろし、井上ひろし、守屋浩の三人ひろし。第3回は坂本九が登場。男性中心のラインナップだったが、第4回目はからは女性陣も目立ち始める。日本を代表する一大イベントだったが1971(昭和46)年幕を閉じた。又、エロティシズムが売り物の日劇ミュージックホール・・・と日本の芸能史上重要な役割を果たした劇場であったが、この日劇自体も、半世紀にわたる歴史に幕を閉じた。「サヨナラ日劇フェスティバル あゝ栄光の半世紀」公演は、1981(昭和56)年1月28日から始まった。第1部が日劇ダンシングチーム(NDT)のグランドデビュー、第2部がかっての日劇(日本劇場)のステージを飾った歌手達の日替わり出演を主体としたものだった。最終日、2月15日のラストステージでは、トニー谷が「ありがとう日劇、さよなら」と床に口付けしたという。また、笠置シズ子も現れた。終戦直後、この舞台から東京・ブギウギを歌った当時のことを語り、そうして、大詰めには長谷川一夫とかっての映画で人気カップルだった李香蘭が駆けつけ、服部良一の指揮で「蘇州夜曲」をデュエットした。欧米では、ショービジネスの復活と再生が論じられていると言う。又、日本でも新しい形のショービジネスが復活したらよいのにと思うが・・・。
有楽町のシンボルだった日劇の半円形ビルの建物跡地には有楽町マリオンのビルが建てられた。昭和30年代の後半。私は青春時代の一時期を東京で過ごしたことがある。当時、フランク永井の「有楽町で会いましょう」の歌がはやっていた。有楽町の日劇の前は、デイトスポットであり、東京に慣れていない私を会社の仲間が誘ってくれて、このビルの前へ、彼女探しに連れて行ってくれた。いつも大勢の女性達が、ビルの前でたむろしていた。誘ってくれた当時の友人が言った。「5人誘って誰も付いてこなければ男じゃないよ」・・・っと。言われた私は男であることを証明できた。・・青春時代の懐かしい思い出ではある。
(画像は、コレクションの絵葉書より東京名所絵葉書。左が「日本劇場」右が「国際劇場」。写真は戦後のものだろう。この絵葉書の裏には、有楽町には、日劇を中心にして日比谷劇場、有楽座、東京宝塚劇場、ピカデリー劇場、オリオン座、日活映画劇場等が有楽街をなしていたとある。)
参考:
昭和レビュー狂時代
http://homepage3.nifty.com/yachan-ndt/
東京からレビューが消えた日
http://www.geocities.jp/showahistory/history6/52a.html
歌謡スター名鑑(美空ひばり)
http://www.ringohouse.com/starFiles/hibari/hibari1.html