今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「良寛忌」禅僧・良寛の忌日

2006-01-06 | 人物
今日(1月6日)は「良寛忌」。禅僧・良寛の1831(天保2)年の忌日。
良 寛は、1758(宝暦8)年、越後国・出雲崎の名主山本家(橘屋)の長男として生まれた。山本家は代々名主職であり石井神社の神職も兼ねていたそうだ。又、回船問屋も営んでいたという。経済的にも豊かな名主の総領であったが、子どもの頃から純粋で「正直一途」なものの、本ばかり読んでいる内気で生真面目な性格だったらしい。だから、成人して、名主を継いだものの、社交性や政治性に欠け、百姓たちを説得したり代官と交渉したりと云うような駈け引きがまるで出来ず失敗ばかりしていたそうだ。結局、代官、百姓の双方から、無能者扱いされ、18歳の時に、突然、名主の仕事を投げ出して、光照寺という禅寺へ逃げ込み、頭を剃って出家してしまったという。そして、22歳の時に、良寛は、禅僧修行のために越後を離れ、備中玉島(岡山)の円通寺へ、そこで厳しい修行に打ち込み、師の国仙和尚から、印加を受けるが、33才の時、師が亡くなったあとの跡目争いや揉め事に嫌気がさして、全てを投げ捨て、諸国行脚 、修行の旅に出る。1795(寛政7)年良寛38歳の時、父以南が、京都桂川に入水している。 そして、39歳の時帰国。1797(寛政9)年 40歳のとき、人里離れた山中に ささやかな庵(五合庵)を結びここに住む。しかし、この人生の選択において、名主の総領でありながら家を継がず、僧になったが、その後、父以南の自殺、家督を継いだ弟由之の失脚と、没落してゆく家の様子を見聞きする度に、良寛の負い目となったようであり、後年、良寛は自分の身の上については、決して人に話さなかったという。
良寛と言えば、多くの人達は、先ず、幼い頃から、絵本などで見た、子供たちと手まりをつく笑ましい坊さんをイメージする、又、書や詩歌に優れた才能を多く残した良寛・・・とまでは、知っていても、以外に、禅僧としての実像は良くわかっていない。良寛と言うのは”法名”つまり僧侶として名前であるが、道号は”大愚”。「愚」とはおろか者のことだから「大愚」は大馬鹿者の意。出家した時から、良寛は自らを「大愚」と称していた。
そんな良寛に、晩年29歳の貞心尼という恋人ができた。その時良寛70歳、年の差はなんと40歳。もっとも、恋人というよりは尊敬しあう仲、実際は、熱烈に師を慕うお弟子さんと言ったところだろう。晩年は良寛を慕う人も多く、世間の尊敬を集めたが、やはり、清貧な生活を送り、最後は何も残さず、権威や肩書き、財とは無縁の生涯を終えたという。1831( 天保2)年正月6日、74歳であった。ただただ、正直を徳とし、純粋な心を宝とした人生であったそうだ。生前、良寛さんが嫌ったものが三つあったという(三嫌)。
それは、「詩人の詩、書家の書、歌詠みの歌=題をだして歌よみをすること」だったという。(「大愚良寛」 相馬御風=良寛研究家・童謡「春よ来い」などの作詞者)それらは、どうも見た目ばかりで、心に触れるものがない。上手・下手は別のこと、心の中の物を写せば足りる、というのが彼の主眼であった。好きだったものは、「子供、手まり、おはじき。」
貞心尼は、1831(天保2)年、良寛が74歳で亡くなった後、良寛と会って以来、良寛と貞心尼が唱和した歌を書き添えた142首を収めた「はちすの露」一巻を書き残している。 
良寛と言えば、手まりを付つく良寛を思い出す。山の庵に住んだ晩年、村里の子どもたちを相手に「ひい、ふう、みい」とまりを突く姿は多くの絵になっている。
貞心尼が初めての訪問の際、師に、”良寛さんは手鞠をついて遊んでいると聞きますが、そこに尽きせぬ仏への精進の道 が、私には窺われます。私も一緒に遊び、仏道を学びたいと存じます。 未来永劫尽きることのない仏道の心髄を体得して、悠々自適の生活を楽しんでいら れるのでしょうが、私もお導き下さいませんでしょうか”との問いに対し、
「つきて見よ 一二三四五六七八九十を 十とおさめて また始まるを」と、返したという。 つまり、”この手鞠をついて、無心になる気持を求めるならば、理屈や言葉ではなくて、あな たもどうぞ一緒に手鞠をついてごらんなさい。一二三と十までついたら、また繰り返して 、ひたすらついていく。夢中になっている時に、実は本当の仏の世界が開けてくるんで すよ・・・”と言うことらしい。 又、良寛の残した辞世の歌と言われているものに、「うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ」という俳句がある。
この句の意味は、”自分のいいところも、わるいところも、かざらずすべて見せてきたから思い残すことは ない。人間死ぬるときは、うそもまこともなく、自然に還って散って行くものじゃ。” と言う意味だそうだ。良寛には若いころから激しい無常感があった。この句は自分の作ではなかったとも言われるが、自分の今の心境をよく伝えるために 書き残したそうだ。
なんとなく良寛の考え方がわかったかな?。良寛と貞心尼の相聞歌など、以下参考の「良寛・貞心尼」を見れば良くわかるよ。
(画像は、「良寛さま」相馬 御風 (著)実業之日本社 )
参考:
良寛記念館
http://www.town.izumozaki.niigata.jp/bouzu4.html
新潟良寛研究会のホームページ
http://www.geocities.jp/umezu34/
ryoukan
http://www.city.kashiwazaki.niigata.jp/hidamari/ryoukan/ryoukan.htm
良寛と蕩兒 その他
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/1931_gyofu_01.htm
良寛・貞心尼
http://www2.tokai.or.jp/mm/