1902(明治35)年の今日(1月30日)は、 ロンドンで、「日英同盟」が締結 された日である。日英同盟は、近代日本が世界の大国と結んだ最初の軍事同盟である。 第1次日英同盟協約から第2次・第3次と継続更新され、1923(大正12)年8月17日に失効した。第一次世界大戦終了時まで、日本の外交政策の基盤となった同盟である。
日清戦争で中国が敗れると、清朝の無力さが暴露され、列強による中国分割が進んだ。それは、租借地・鉄道敷設権・鉱山採掘権などの獲得・租界の充実などにより、列強それぞれの勢力範囲を形作っていった。ロシアは、中国東北部(満州方面)・旅順・大連。日本は、朝鮮半島・台湾・台湾の対岸(福州・アモイ方面)。ドイツは、膠州湾・青島。イギリスは、揚子江流域・香港・九龍半島・山東半島北岸の威海衛。フランスは、雲南方面・広州湾。(アメリカは、中国に特別な勢力をもっていなかった。)
こうした情勢のなかで、ヨーロッパでは三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)と露仏同盟とが対立するという構図のなかで、イギリスだけは「光栄ある孤立」と呼ばれる非同盟主義をとっていた。一時、ドイツとの接近が試みられたが不調に終わった。その頃、イギリスは、アジア全域でロシアと対峙していた。ロシアは中国への進出を一層積極化しつつあった。義和団の乱が満州に波及すると、これを利用して、大軍を満州各地に進駐させ、乱後も撤兵させず、満州の占領に乗り出した。
また、日本は、ロシア、フランス、ドイツによる三国干渉で遼東半島を返還させられ、中国東北部・朝鮮(東アジア)でロシアに脅かされていた。
そのような情勢下で、ロシアを牽制したいイギリスは、それまでとっていた伝統の「栄光ある孤立」政策を捨てて日本との同盟を結び、東アジアでのロシアの南下をくいとめようと考えた。このころ、日本には、前首相伊藤博文や元老井上馨らが対ロシア宥和策を進めようとしていたが、これに対する、列強のどこかを巻き込んで対ロシア対決へと国策転換を図ろうとする元老山科有朋、桂太郎首相、林公使らの勢力が支持された。
日英同盟の締結において、明治政府首脳に決断させる最大の誘因となった三国干渉が、当時の首脳に与えた印象は脅迫観念に近いものであり、国家の独立を担うことを使命とする政治家にとっては、屈辱的なものであったろう。列強の合従連衡の中、戦争に敗れた国家がすべての主権を失うことは、清の先例に明らかであった。当時の国際情勢の下では、国益の保全を図る上で同盟国の存在が必要不可欠で、その相手国は「対露協調」か「日英同盟」かだったが、選択の結果、1902年(明治35)1月30日同盟の締結を見るに至ったものである。
この条約は、前文と6ヶ条からなるが、主要な内容は、(1)日英両国が清国と韓国とにそれぞれ持っている「権益」が、第三国の「侵略的行為」や清国・韓国での「騒擾(そうじょう)」のために脅かされる事態が起こった際は、それぞれ「必要な措置」をとることを互いに承認する。(2)日英どちらかが他の一国と「戦端」を開いたときは、他方は厳正中立」を守る。(3)その戦争が二国以上の他国を相手とすることになった場合には、他方も直ちに戦争に加わって同盟国を助ける。また、調印と動じに交わされた秘密交換公文では、平時から日英両国海軍の共同行動と便宜の供与(港・ドックの利用や石炭の塔載など)と、極東海域で他の第三国海軍力より優勢な海軍力を維持・集合させ得るよう努力することを約束したものであり、この文書は、イギリス外交文書が1927(昭和2)年に公表されるまで秘密にされていたという。(朝日クロニクル・週刊20世紀)
この当時、イギリスは依然として世界第一の富力と海軍力を保有する大国であり、全世界に睨みを利かしていた。この同盟によって、日本は、ある一国だけを相手取って戦い得る態勢ができた。同盟から2年後の1904(明治37)年、日本は、日露戦争へと進み、イギリスは中立を守った。イギリスは、ドイツ帝国の台頭が脅威であり、極東における日本の海軍力を高めその力を利用したかったのである。又、日本は、イギリスの援助で、世界水準の海軍力を育てた。
日露戦争では、日本が勝利した。日英同盟は、日露戦後、1905(明治38)年の第2回、1911(明治44)年の第3回と改定され、拡大・強化されて存続した。1914(大正3)年、第一次世界大戦に際し,日本はこの同盟の参戦義務遵守を名目として参戦した。大戦後の、1921(大正10)年12月末のワシントン会議において、日本、イギリス・アメリカ・フランスの間に四国条約が締結され、1923(大正12)年8月17日に発効すると同時に、この軍事同盟は廃棄された。
日露戦争の勝利、議会民主主義の実現など、明治日本はイギリスとの同盟により、念願の列強入りを果たした。もし、日英同盟がなかったら、明治の日本は、ロシアの南下政策という脅威にさらされ、また列強の植民地支配が迫り来る中で、それらの力に屈していたかもしれない。しかし、その後のドイツとの連盟によって、日本は破滅の道へと追い込まれた。第二次大戦後、日本は、アメリカとの日米安全保障体制を中核とする日米同盟を結んでいるが、もし、この同盟がなければ、戦後、日本が共産主義勢力の侵攻を防げたかは疑問であるともいわれている。同盟国と言うものはすわと言う時には共に闘わなければならない。アメリカとの同盟によって、色々と問題に巻き込まれることを心配する人たちも多いが、それでは、どこの国と同盟関係を結ぶのが良いのだろうか。過去の歴史から見ても、国家の盛衰は同盟国の選択によって決まるといえるかもしれない。私には、良く分らないが、今の日本の選択が必ずしも間違っているとも思えないが・・・。
(画像は、コレクションより、「日英同盟記念絵葉書」。逓信省発行)
日英同盟 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%8B%B1%E5%90%8C%E7%9B%9F
日英同盟 にちえいどうめい
http://www.tabiken.com/history/doc/N/N349L100.HTM
日英同盟(日英同盟と日米安保条約)
http://wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/jhistd/jhist2_4_7.htm
外務省: 日米同盟:未来のための変革と再編(仮訳)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/hosho/henkaku_saihen.html
日清戦争で中国が敗れると、清朝の無力さが暴露され、列強による中国分割が進んだ。それは、租借地・鉄道敷設権・鉱山採掘権などの獲得・租界の充実などにより、列強それぞれの勢力範囲を形作っていった。ロシアは、中国東北部(満州方面)・旅順・大連。日本は、朝鮮半島・台湾・台湾の対岸(福州・アモイ方面)。ドイツは、膠州湾・青島。イギリスは、揚子江流域・香港・九龍半島・山東半島北岸の威海衛。フランスは、雲南方面・広州湾。(アメリカは、中国に特別な勢力をもっていなかった。)
こうした情勢のなかで、ヨーロッパでは三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)と露仏同盟とが対立するという構図のなかで、イギリスだけは「光栄ある孤立」と呼ばれる非同盟主義をとっていた。一時、ドイツとの接近が試みられたが不調に終わった。その頃、イギリスは、アジア全域でロシアと対峙していた。ロシアは中国への進出を一層積極化しつつあった。義和団の乱が満州に波及すると、これを利用して、大軍を満州各地に進駐させ、乱後も撤兵させず、満州の占領に乗り出した。
また、日本は、ロシア、フランス、ドイツによる三国干渉で遼東半島を返還させられ、中国東北部・朝鮮(東アジア)でロシアに脅かされていた。
そのような情勢下で、ロシアを牽制したいイギリスは、それまでとっていた伝統の「栄光ある孤立」政策を捨てて日本との同盟を結び、東アジアでのロシアの南下をくいとめようと考えた。このころ、日本には、前首相伊藤博文や元老井上馨らが対ロシア宥和策を進めようとしていたが、これに対する、列強のどこかを巻き込んで対ロシア対決へと国策転換を図ろうとする元老山科有朋、桂太郎首相、林公使らの勢力が支持された。
日英同盟の締結において、明治政府首脳に決断させる最大の誘因となった三国干渉が、当時の首脳に与えた印象は脅迫観念に近いものであり、国家の独立を担うことを使命とする政治家にとっては、屈辱的なものであったろう。列強の合従連衡の中、戦争に敗れた国家がすべての主権を失うことは、清の先例に明らかであった。当時の国際情勢の下では、国益の保全を図る上で同盟国の存在が必要不可欠で、その相手国は「対露協調」か「日英同盟」かだったが、選択の結果、1902年(明治35)1月30日同盟の締結を見るに至ったものである。
この条約は、前文と6ヶ条からなるが、主要な内容は、(1)日英両国が清国と韓国とにそれぞれ持っている「権益」が、第三国の「侵略的行為」や清国・韓国での「騒擾(そうじょう)」のために脅かされる事態が起こった際は、それぞれ「必要な措置」をとることを互いに承認する。(2)日英どちらかが他の一国と「戦端」を開いたときは、他方は厳正中立」を守る。(3)その戦争が二国以上の他国を相手とすることになった場合には、他方も直ちに戦争に加わって同盟国を助ける。また、調印と動じに交わされた秘密交換公文では、平時から日英両国海軍の共同行動と便宜の供与(港・ドックの利用や石炭の塔載など)と、極東海域で他の第三国海軍力より優勢な海軍力を維持・集合させ得るよう努力することを約束したものであり、この文書は、イギリス外交文書が1927(昭和2)年に公表されるまで秘密にされていたという。(朝日クロニクル・週刊20世紀)
この当時、イギリスは依然として世界第一の富力と海軍力を保有する大国であり、全世界に睨みを利かしていた。この同盟によって、日本は、ある一国だけを相手取って戦い得る態勢ができた。同盟から2年後の1904(明治37)年、日本は、日露戦争へと進み、イギリスは中立を守った。イギリスは、ドイツ帝国の台頭が脅威であり、極東における日本の海軍力を高めその力を利用したかったのである。又、日本は、イギリスの援助で、世界水準の海軍力を育てた。
日露戦争では、日本が勝利した。日英同盟は、日露戦後、1905(明治38)年の第2回、1911(明治44)年の第3回と改定され、拡大・強化されて存続した。1914(大正3)年、第一次世界大戦に際し,日本はこの同盟の参戦義務遵守を名目として参戦した。大戦後の、1921(大正10)年12月末のワシントン会議において、日本、イギリス・アメリカ・フランスの間に四国条約が締結され、1923(大正12)年8月17日に発効すると同時に、この軍事同盟は廃棄された。
日露戦争の勝利、議会民主主義の実現など、明治日本はイギリスとの同盟により、念願の列強入りを果たした。もし、日英同盟がなかったら、明治の日本は、ロシアの南下政策という脅威にさらされ、また列強の植民地支配が迫り来る中で、それらの力に屈していたかもしれない。しかし、その後のドイツとの連盟によって、日本は破滅の道へと追い込まれた。第二次大戦後、日本は、アメリカとの日米安全保障体制を中核とする日米同盟を結んでいるが、もし、この同盟がなければ、戦後、日本が共産主義勢力の侵攻を防げたかは疑問であるともいわれている。同盟国と言うものはすわと言う時には共に闘わなければならない。アメリカとの同盟によって、色々と問題に巻き込まれることを心配する人たちも多いが、それでは、どこの国と同盟関係を結ぶのが良いのだろうか。過去の歴史から見ても、国家の盛衰は同盟国の選択によって決まるといえるかもしれない。私には、良く分らないが、今の日本の選択が必ずしも間違っているとも思えないが・・・。
(画像は、コレクションより、「日英同盟記念絵葉書」。逓信省発行)
日英同盟 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%8B%B1%E5%90%8C%E7%9B%9F
日英同盟 にちえいどうめい
http://www.tabiken.com/history/doc/N/N349L100.HTM
日英同盟(日英同盟と日米安保条約)
http://wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/jhistd/jhist2_4_7.htm
外務省: 日米同盟:未来のための変革と再編(仮訳)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/hosho/henkaku_saihen.html