今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

三島由紀夫の忌日

2004-11-25 | 人物
今日(11月25日)は、「憂国忌」小説家・三島由紀夫の忌日である。
三島由紀夫1925(大正14)年1月14日東京生まれ。終戦直後東大を卒業し大蔵省に入省し官僚となるが、1年たらずで退職して作家生活に入る。
1949年「仮面の告白」、1954年「潮騒」1956年「金閣寺」などを発表。1960(昭和35)年、安保の頃よりナショナリズムへの傾倒を深める。1961「憂国」を発表。1970(昭和45)11月25日、自衛隊市ヶ谷駐屯地東部方面総監室にて自決した。(45歳)監督・主演した映画『憂国』に因み、毎年11月25日に「憂国忌」が営まれている。
1970(昭和45)年11月25日、東京、市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部で、三島由紀夫自らが主催する「楯の会」のメンバー4人と共に益田総監を人質にとって、自衛官を集合させた。三島は、2階のバルコニーに現れ、1000人程の隊員を前に、「自衛隊は10月21日(※参照)の時は、一体何をしていたのか。ならば、自分を否定する憲法を何故守るのだ。」などと約10分間の演説を行い自衛隊員に「憲法改正」への蹶起を促したが失敗。その後、総監室にひき返した三島は益田総監が止めるのも聞かず、持ってきた短刀で割腹、「楯の会」メンバーに介錯させた。同行の会員森多必勝もこれに続いた。2人が自決した後3人の会員は益田総監と共に部屋を出て自首した。逮捕された3人によると、最初は、陸上自衛隊第32普通科連帯をクーでターに立ち上がらせる計画だったが、連隊長が不在で戦術を変更したということらしい。
「楯の会」は、1968(昭和43)年10月、左翼と対決するために三島が早大、東大、京大などの学生で作った”民間防衛組織”で、90人余りの会員は自衛隊に度々体験入隊、小銃を使っての戦闘訓練を受けていた。事件当日、三島の持っていたカバンの中には、5人の辞世があり、三島は「散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐」と詠んでいたという。
三島は、ちいさい頃から、祖母に溺愛されて育ち、学生時代は小柄で、虚弱だった。しかし、1955(昭和30)年にボディービルをはじめて以来、剣道、空手などで体を鍛えた。「文」から「武」への軌道を、三島は「「武」とは花とちることであり、「文」とは不朽の花を育てることだ」とあるエッセイに書いているという。三島の行動に対して、当時の知識人はその暴力行為を咎め、この行為が民主主義と市民社会に対する暴挙と非難した。しかし、全共闘華やかなりし当時、日本には、「楯の会」と「赤軍派」の2つの「私設軍隊」があり、「赤軍派」に近い思想のものが、「三島に先を越された」とコメントしているものがいたといい、三島の「暴力」と「侠気」を肯定したのは、実際的な行動でしか時代閉塞の現状とその隘路を切り開けないことを当時の若い世代が漫然と感じていたのであろう。そして、その後、赤軍派の「よど号」ハイジャック事件、連合赤軍の「あさま山荘」銃撃戦事件など、なにか、内戦的な事件が発生していく。しかし、これらは、誰にも勝利感をもたらさず敗北感だけで終わってしまう。そして、それからの若者には何か無気力なシラケだけが残っているように思われるのであるが・・・。
日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることも出来ないがゆえに、日米安保のもと、アメリカに従属している現状は、三島ならずとも私でも歯がゆい気がする。しかし、三島は少し、ことを急ぎ過ぎましたよね~。でも、もう、そろそろ本気で、自国の力で自国を防衛することについて考え直さなきゃ~、諸外国からも馬鹿にされるのではないだろうかな~?
1961(昭和36)年『憂国』の本の出版後1966(昭和41)年に映画「憂国」(東宝)が上映される(制作は1965年)。『憂国』のあらすじは226事件に加わった友人の後を追ってひとりの軍人が自決するまでが描かれる。この軍人には「静子」という妻がいてこの妻も軍人の後を追って自害して映画は終幕する。軍人が「誠」という一文字の遺書を書く場面、切腹の場面など、見所であるが、軍人は言うまでもなく三島本人が演じている。
この映画の4年後(1970=昭和45年)、三島は本当に市谷自衛隊基地で割腹自殺を遂げた。その意味でこの本は三島が映画という形でしたためた遺書なのであろう。
※昭和44年10月21日、国際反戦デーで「東京戦争」を叫び赤軍派が手製爆弾などでゲリラ戦、1505人逮捕。このときの状況などは参考の「70年安保闘争史略年表」1969(昭和44)年10月21日のところなどを見てみてください)
(画像右三島由紀夫著「憂国」・新潮社)
参考:
三島由紀夫「憂国」(近代小説千夜一夜-小埜裕二)
http://sun-cc.juen.ac.jp:8080/~yuji/misima%2Cyuukoku.htm

盾の会隊長 三島由紀夫。三島がバルコニーから撒いた檄文より(一部口約
http://www004.upp.so-net.ne.jp/kuhiwo/dazai/mishima.html
憂国忌のご案内
「憂国忌」は三島由紀夫研究会によって運営されております。
http://www.nippon-nn.net/mishima/
三島由紀夫割腹余話
http://www.geocities.jp/kyoketu/6105.html
三島由紀夫 Cyber Museum - 三島由紀夫文学館収蔵品の紹介、生い立ち、質問コーナー、本人による朗読「サーカス」。
http://www.vill.yamanakako.yamanashi.jp/bungaku/mishima/
70年安保闘争史略年表
http://www.asahi-net.or.jp/~gr4t-yhr/zennen.htm

オペラ記念日

2004-11-24 | 記念日
今日(11月24日)は、「オペラ記念日」 歌劇の愛好家らが提唱。
1894(明治27)年11月14日、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)奏楽堂で、日本で初めてのオペラが上演された。日清戦争での傷病兵のための慈善興業で演目はグノー作曲の『ファウスト』第1幕で、オーストリア大使館職員が出演し、ドイツ海軍軍楽隊長で『君が代』を編曲したフランツ・エッケルトが指揮をした。合唱は音楽学校の生徒が務めた。
ドイツ人音楽家、エッケルト・フランツ・フォン【1852~1916 (嘉永5年~大正5年)】 は、1879年(明治12)来日し、海軍軍務局・宮内省雅楽所に勤務。翌年宮内省で作曲した「君が代」を吹奏楽用にアレンジした。1883(明治16)年からは文部省音楽取調掛にも出向し、1899(明治32)年任期満了で帰国。昭和天皇ご大葬のときに演奏された「哀しみの極み」は彼の1897(明治30)年、英照皇太后崩御の時の作品だそうである。
シャルル・グノー(1818-1893)は19世紀後半のフランス・ロマン派歌劇の最も知られたオペラ作曲家で、出世作は歌劇『ファウスト』(初演:1859年3月19日パリ・リリック座)。また、「ロミオとジュリエット」のアヴェ・マリアは、バッハの「平均率クラヴィア曲集」の第一番ハ長調の前奏曲にグノーがメロディーをつけたものとして有名だそうである。
このゲーテの『ファウスト』は、年老いた哲学者ファウストが、知識を得ること、書物から知恵を得ることに失望し、毒を飲もうとした時、悪魔のメフィストフェレスが現れ、ファウストの魂と引き換えに、若さを与えようと申し出ることに始る。第一部は契約を結んだファウストとマルグリートとの悲恋、第二部ではファウストは危うく地獄に落とされそうになるところを救われる、といった物語であるが、このゲーテの『ファウスト』に触発され音楽化に臨んだ音楽家は多くいたそうで、グノーがオペラ『ファウスト』を書いたが、この時すでに何人かが音楽家化しており、ベートーヴェンもオペラ化を考え、ワーグナーも『ファウスト序曲』を作曲しているそうである。
この明治27年の『ファウスト』の上演以来、明治期からの日本のオペラの流れをたどってみると、 1903(明治36)年7月、東京(とうきょう)で、グルック作曲「オルフォイス」が、ピアノの伴奏によって全曲日本語で上演された。東京音楽学校(今の東京音楽大学)の学生等などの歌劇研究会によるもので、これが正式な日本語による初の歌劇上演とされている。又、1906(明治39)年、東西の音楽と歌劇の研究・保存・創作・演奏を目的結成された楽苑会第1回公演が、神田YMCAにて、小松耕輔作詞作曲のオペラ「羽衣」が上演され、これが日本初の創作オペラといわれている。
1912(明治45)年、帝劇がロンドンから歌劇の指導者としてジョバンニ・ヴィットリオ・ローシーを招聘する。10月16日、帝劇、ローシー指導による最初の公演として、無言劇「犠牲」(ローシー作)を上演している。1916(大正5)年6月、ローシーとの契約を終え、帝国劇場歌劇部解散。同年10月、帝劇を去ったローシー夫妻により、喜歌劇専門の小劇場である赤坂ローヤル館が組織され、「天国と地獄」を上演。その後、大正期に入ると和製ミュージカルが人気を博した後、帝劇、ローヤル館と続く流れの中、ローシーの元でレパートリーを身につけた者たちが分派?、相次いで浅草に進出し、オペラ・オペラッタの上演を定着させたことで、浅草オペラがはじまった。浅草で上演した演目も、帝劇、ローヤル館で初演されたものが少なくなかったという。そして関東大震災直前まで栄える。その浅草オペラで育った故藤原義江などが、昭和期のオペラを支えて来て、現在に至っている。
明治期からの日本のオペラの流れはこのようになるようだが、今流行のミュージカルなどと比較すると、私のような者には、日本の伝統芸能歌舞伎と同様にどうも敷居が高くて馴染めない。ま、こんな「オペラ記念日」に、オペラのおさわり程度でも勉強してみようかな・・・。
(上画像は、左:ゲーテ。右:本、ファウスト(一)高橋義孝 訳:新潮文庫。)
参考:
ヴィデオディスクでオペラ入門
初心者向け。用語集、黎明期から現在までの歴史、作曲家、作品の解説。
http://www.d1.dion.ne.jp/~t_imac/
MIDIを使ってオペラのあらすじを説明しています。MIDIの使用はフリー。
映画「世界の中心で、愛をさけぶ」で流れていたアヴェ・マリア(バッハ=グノー)のMIDIが聞けますよ。
http://www.geocities.jp/music_yomoyama/
Academy of Opera & Operetta
オペラやオペレッタのあらすじをヴェルディ、プッチーニ、ワーグナー等の作曲家別に紹介。
http://www.and.or.tv/operaoperetta/
AI's OPERA NOTE - オペラ史、様式、声楽家の歌唱法、声域等の基礎知識。
http://www3.cty-net.ne.jp/~kato543/
浅草オペラ比較年表
http://www32.ocn.ne.jp/~tsuzu/asakusaopera-nenpu.html

樋口一葉

2004-11-23 | 人物
1896年 の今日(11月23日)は明治時代の女流小説家樋口一葉(1872年3月25日生)の忌日。
2004(平成16)年11月1日に日本銀行が発行した新五千円札に、はかなくも24歳の人生で生涯を閉じた樋口一葉の肖像が採用された。女性の肖像が採用されたのは戦後初めてのこと。時代に翻弄されることなく常に信念をもって、自分の思いを作品に綴り、明治文学界に燦然と輝く文学作品を遺し24歳の若さで人生を終わった樋口一葉。
樋口一葉の本名は「奈津」。東京に生まれる。小さいときから抜群の成績をあげ,15歳で和歌を中島歌子に学ぶが,兄や父が続いてなくなり,18歳で一家を扶養する責任を課せられた。苦しい生活のなか小説を書くことを決意,師である半井桃水(なからいとうすい・朝日新聞の小説記者)の提案で筆名「一葉」を使うようになる。しかし、小説で生計を立てるのは難しく、知人に借金をしながら何とか生きてゆくのがやっとであった。小説が世に出るようになってもなお生活は苦しかったが、執筆活動に専念した。明治27年12月「文学界」に「大つごもり」を発表してから一葉を一躍有名にした「たけくらべ」が完結する明治29年1月までの14ヶ月で、最高傑作といわれる代表作の全てを書き上げており、この期間は「奇跡の14ヶ月」と言われている。しかし肺結核がしだいに進行し,24歳でこの世を去った。
 代表作の「たけくらべ」は一葉の小説の中では最も長い小説で、少年少女の淡い恋物語である。流れるような美しい文体は「雅文体」とか呼ばれ、今紫式部とか、今清少納言にも讃えらる。しかし、私も、学生の頃読んだが、難しかったな~と言う記憶がある。
一葉という筆名は、達磨が一枚の芦の葉に乗って中国に渡った故事にちなみ、達磨に足がないことから『おあしがない』と貧乏をしゃれのめしたもの」らしいが、貧しい生活の中で、女性が世に出ることすら難しかった時代を強い意思で逞しく生き抜き、社会や文学界に大きな影響を与える作品を生み続けた情熱。当時とは比べものにならないほど、地位が向上した現在の女性にも、一葉の情熱、苦境に負けない逞しさは学ぶところが多いであろうと思う。
参考:
お金について:新しい日本銀行券(五千円券)の印刷開始と偽造防止技術についてなど(日本銀行HP)
http://www.boj.or.jp/money/money_f.htm
樋口一葉「たけくらべ」(近代小説千夜一夜ー小埜裕二)
http://sun-cc.juen.ac.jp:8080/~yuji/higuti-takekurabe.htm
樋口一葉「にごりえ」(近代小説千夜一夜-小埜裕二)
http://sun-cc.juen.ac.jp:8080/~yuji/higuti-nigorie.htm

いい夫婦の日

2004-11-22 | 記念日
今日(11月22日)は、「いい夫婦の日」
「いい(11)ふうふ(22)」の語呂合せと、11月が「ゆとりの創造月間」に指定されたことを受け1988年に、財団法人余暇開発センター〈現(財)社会経済生産性本部〉が制定した。
他に、「よい夫婦の日」講談社が制定。「よい(4)ふうふ(22)」の語呂合せ。(4月22日)
「夫婦の日」毎日新聞社・味の素などが1987(昭和62)年に制定。 (毎月22日)などがある。
これからは、高齢化や少子化が進むにつれ、「夫婦」ふたりだけで過ごす時間や機会が、よりいっそう増え、今まで以上に「夫婦」であることの意義が問われる時代が来ている。
妻のことを、オンナだと思っていますか。夫のことを、オトコだと思っていますか・・・・なんか、物騒な文句は、TBS日曜劇場「夫婦」のサブタイトルである。
田村正和が黒木瞳と夫婦役で出演しているが、田村正和が、この日曜劇場「夫婦」では「夫婦とは何か?」「人はなぜ結婚するのか?」というテーマを投げかける夫を演じている。
最近は、同じ屋根の下に暮らしていても会話もなく、気持ちはとっくに冷めていて家庭にはない。しかし、子どものために、又、お金のために意に沿わない結婚生活を続けているカップルが五万といるいう。
いい夫婦関係を築くことは、いい家族関係を築くことにもつながり、ひいては、明るい社会を築く礎(いしづえ)ともなるだろう。コミニュケーションが苦手だといわれる日本人の「夫婦」が、この「いい夫婦の日」を機会に、お互いに感謝の気持ちを確かめ合うのは、いいことではないだろうか。
インターネットリサーチの株式会社マクロミルによる『いい夫婦の日』に関する2002年アンケートの公開調査データーを見ると・・・
「夫婦にとって最も大切なこと」を尋ねたところ、全体では「思いやり」が41%で最も高かったそうだ。
又、男性に「夫として期待されていると思うこと」を、女性に「夫に期待すること」を尋ねたところ、妻は夫に「思いやり」「健康でいること」を期待する一方、夫は妻から「経済力」を最も期待されていると感じているようだ。
そして、男性に「妻に期待すること」、女性に「妻として期待されていると思うこと」を尋ねたところ、「思いやり」「健康でいること」「夫を信頼すること」などの項目は男女の意識差はほとんどないが、男性が思う以上に女性は「家事」「母親としての役割」「育児」を期待されていると感じていることが窺えるという。やはり、男と女では微妙に期待しているものが違うようだ。
結婚生活が長くなると自分たち夫婦のことなど考えることは少なくなる。この日は、ご互いの気持ちを確かめ合い、お互いに感謝しあう機会になればいいなあ~。何かをプレゼントするだけの日にだけはしたくないよな~。
参考:
いい夫婦の日 - 推進団体による記念日の解説、イベントの案内
http://www.fufu1122.com/what/o_index.html
ネットリサーチ[マクロミル]『いい夫婦の日』に関するアンケート こんな時代だから?
http://www.macromill.com/client/r_data/20021120i_fufu/index.html

歌舞伎座

2004-11-21 | 歴史
1889(明治22)年の今日(11月21日)は、東京・木挽町(現在の東銀座)に歌舞伎座が開場した日。
今、歌舞伎座の建っている東銀座は、昭和26年までは木挽町といい、銀座ではなかった。江戸時代、歌舞伎は最大の大衆娯楽であったが、このような歌舞伎小屋は日本橋など江戸城城下に多くあった。大衆に大変な人気があり、人が大勢集まり、庶民に大きな影響力があった為、1842(天保13)年水野忠邦による『天保の改革』により、浅草へ強制移転させ、監視をする為、芝居の興行を官許制にし、江戸においての興行は中村座(堺町から移転)、市村座(葺屋町から)、森田座(木挽町から)の三つに限り、これを江戸の「三座制」といった。以降、歌舞伎の興行を許可なく、むやみに出来ないようにしたのである。しかし、歌舞伎はこれらの三座のみで行われていたわけではなく、この他にも、市谷八幡、芝神明、湯島天神など寺社の境内や浅草・両国などにある宮地芝居や小規模の芝居小屋はあったらしいが、ともかく、この三座制は、1,982(明治5)年まで続いたという。
歌舞伎座は、その約半世紀後の明治22年、演劇改良を主張する福地源一郎の主唱によって創設された。この時の建物は洋風デザインの木造作りで、内部は伝統的な和風の建物であった。11月21日の柿落しには、明治の三大名優と謳われた”團菊左”、九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次が揃って出演したという。
その後、明治44年に、歌舞伎座は純日本式の宮殿風に大改築したが、この改築はこの年3月に、東京丸の内に建てられた純洋風の帝国劇場に刺激されてのことであった。そして、大正時代に入ると、新興の帝劇や関西から進出してきた松竹合名社の勢力に押され気味だったが、大正4年には松竹の経営するところとなった。
1921(大正10年)10月に失火で全焼した為、1923(大正13)年12月に建て替えられた建物は、岡田信一郎が初めて手掛けた和風の鉄筋コンクリートを使用した耐震耐火の日本式大建築であり、奈良朝の典雅壮麗に桃山時代の豪宕妍爛(ごうとうけんらん)の様式を伴わせたものであった。
敷地は東西50間(約91m)、南北45間(約82m)、延建坪3,606坪7合(約11,930平方メートル)、本館の屋根の高さ100尺(約30m)に達する。観客席は東西の桟敷席だけを畳敷にして次の間付の贅沢ななものにした他は、全部椅子席で冷暖房完備。舞台間口は15間、廻り舞台の直径60尺(約18m)で、世界的にも珍しい蛇の目廻しとなっていた。照明設備はアメリカとドイツから取り寄せるなど、内容外形ともに日本一を誇る大劇場であり、岡田信一郎の代表作のひとつに数えられている名建築である。大正14年1月6日、華々しく開幕した。
しかし、太平洋戦争時、空襲で、屋根が落ち、客席など内部も全焼し、戦後しばらく廃墟状態であったが、昭和24年から25年にかけて大がかりな改修工事を行い再建された。外観は、戦前の歌舞伎座を踏襲して奈良及び桃山の優雅な味と近代性を持たせているが、中央に高く聳えていた大屋根は姿を消したものの、左右の破風がその威容を誇っている。
歌舞伎の興行では、昔から、先代の名籍を受け継ぐ形での襲名披露興行などが行われていますよね~。それは、江戸三座制の名残で、官許が中村勘三郎(中村座)・市村羽左衛門(市村座)・森田勘弥(森田座)の個人の名義に対して出されおり、官許を得たものが、それぞれ権利を持つ座元となり、小屋を建てて興行していた。つまり、官許が、人間でなく名前に出されたものなので、名前を継ぐ(世襲制)ことで権利を受け継ぎ、興行が行われてきたと言うことなのでしょうね~。
それと、大正の頃は、劇場間の俳優の融通も比較的自由になり、歌舞伎座にも他の劇場座付きの俳優も多く出演しているが、松竹が経営にあたるようになってからは、さらに顕著になった。
新劇女優の草分け松井須磨子(大8・1歿)も、『復活』の中で歌った「カチューシャの歌」が大流行した全盛期の、大正3年8月には歌舞伎座に出演し、ズーデルマンの『マグダ』などを演じたことがあったそうだ。
経営の主体は、従来の歌舞伎座株式会社が昭和6年4月には松竹興行株式会社に併合され、昭和12年4月からは松竹の組織が松竹株式会社に変わった。
年間を通じて、顔揃いの大歌舞伎を中心に、ときには中堅・若手の公演や新派公演なども交えながら、興行を打ち続けるという方針に変わりはなかった。戦後の昭和30年頃になると劇界は、歌舞伎と新派、あるいは新劇・映画界というような異なるジャンルの俳優が共演する、交流の現象が目立ち始めていた。昭和35年10月、歌舞伎座では、本公演で松緑主演の『シラノ・ド・ベルジュラック』を上演、新しい演劇制作と観客の開拓に、大きな冒険を試みている。また、7月には歌手を中心にした興行を試みて成功したが、これは翌年から恒例になった三波春夫公演をはじめ、歌手や映 画スターを主軸にした興行の先駆になっている。昭和40年には、歌舞伎が重要無形文化財として総合指定され、伝統歌舞伎保存会が発足している。
(画像は、大正13年に岡田信一郎により建設された当時の歌舞伎座)
参考:
歌舞伎座ホームページ
http://www.kabuki-za.co.jp/
江戸三座
http://www.asahi-net.or.jp/~FJ9M-ISGR/edotokyo/f_sanza.html
建築家別建物インデックス岡田信一郎」(1883-1932)―東京の近代建築―
http://members.aol.com/nk10jo/kiko1/tokin/tokin13.html