今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

ホテルの日

2004-11-20 | 記念日
今日11月20日は「ホテルの日」。
ホテルという名称は、いつどこで使われ始めたのか。いくつかの説があるが、17~18世紀頃にイギリスやフランスで使われ始めたというのが定説だそうである。19世紀になると、ヨーロッパやアメリカで宿泊施設の名前として一般的に使われるようになった。語源的には、ホスピタル(病院)やホスト(男性の接客係)、ホステス(女性の接客係)と同じ。人の世話をする施設(仕事)という共通点がある。紀元前の古代ギリシャやローマ時代には既に貿易使節をもてなす迎賓館のあったことが知られているとか。
1890(明治23)年の今日(11月20日)海外からの賓客をお迎えする「日本の迎賓館」として帝国ホテルが開業した。
それまであったいくつかの洋式ホテルは、海外からの賓客をお迎えするには、規模・設備の面でも、不十分なものが殆どであり、現実問題として、一国の首都に、それに似つかわしい設備と規模を有するホテルが存在しないことは明治政府にとっては由々しい問題であっただろう。治外法権の撤廃及び関税自主権の回復を目的に展開されていた欧化政策の時代に、時の外相井上馨の「国運と世界の情勢を達観し、来遊外人の旅情を慰め、又、外交上の要務を帯びて来朝した外人の生命財産を安全ならしめる設備のある一大ホテルの建設を必要」との提唱により、1887(明治20)年 有限責任東京ホテル会社(現・株式会社帝国ホテル)が設立された。 当時の財界の渋沢栄一、大倉喜八郎をはじめ、宮内省も20%強を出資した。そして、帝国ホテルを開業したのが1890年である。その後、1923(大正12)年には、アメリカ建築家・フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright、1867年~1959年)の設計による新館(ライト館)が完成している。この建築家の名前はご存知ですか?ライトを一躍有名にしたのは、この帝国ホテルであると言われている。彼の設計した新館が完成した1923(大正12)年8月末の 翌9月1日、突如、大震災が関東一円を襲った(関東大震災)。このとき多くの建物が倒壊し甚大な被害を蒙ったが、帝国ホテルは、この震災で被害を受けずに残った。ライトは既にアメリカの近代建築家としての評価は高かったが、このことで名声はより高まったそうです。
開業以来観光名所にもなったほどの豪華な帝国ホテル。そもそも帝国ホテルは、外国から訪れる賓客のための宿泊・接遇の場を提供しようという明確な目的をもって誕生したホテルである。そこへ訪れたゲストも豪華で、アインシュタイン、チャップリン、ベーブ・ルース、ヘレン・ケラーなどなど。大リーグのホームラン王、ジョー・ディマジオと結婚した世界のトップ女優・マリリン・モンロー。彼女は1954(昭和29)年2月、夫と共に新婚旅行の途中にやってきた。帝国ホテルでの記者会見で、「夜は何を着て寝るか」と聞かれ、「シャネルの5番」と、ウィットに富んだ答えぶりをみせたのは有名な話である。
1950年に帝国ホテルは、政府登録ホテル第一号となている。
1970(昭和45)年、新本館完成。そして、1983年にはインペリアルタワー開業 。このインペリアルタワーの開業は、帝国ホテルのホテル事業そのものが増収となった他、タワーの地上5階から18階までをオフィススペースとして、内外の著名企業に賃貸したことが、収益に大きく貢献するようになる。これが、1996年、帝国ホテル大坂開業に結びついたとか・・・。
大阪にはこの「帝国ホテル大阪」の他に、「大阪帝国ホテル」というよく似た名前のホテルがあり、「帝国ホテル」とは一切関係のないホテルだそうで、いつ建ったのかは知らないが、よく商標問題にならなかったものですね~。「帝国ホテル大阪」オープン当時、タクシーで「帝国ホテルに行ってくれ」と言うと、「大阪帝国ホテル」に行ってしまったなどというエピソードもあったらしいですよ。
※ホテル一般のことを簡単に知りたいなら、参考の櫛田 恵(2002)をみると良くわかるよ。
参考:
帝国ホテル
http://www.imperialhotel.co.jp/cgi-bin/imperial_hp/index.cgi
帝国ホテル物語
http://www.funfan.jp/avenue/teikoku/page1.html
櫛田 恵(2002)1.観光とは・・・?2.ヨーロッパの観光3.ホテルの歴史4.ホテルあれこれ5。ホテルの重要性、旅に関する雑学辞典1.旅とは。2.タクシーあれこれ3.鉄道Q&A4.ホテル用語
http://www.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/kusida.htm

小林一茶

2004-11-19 | 人物
1827(文政10)年の今日(11月19日)は、俳諧師・小林一茶(こばやし いっさ)1763(宝暦13年 )~1827(文政10)年の忌日。
一茶の本名は信之(幼名は弥太郎)。信濃柏原(現在、長野県信濃町)の人。俳諧行脚の生活を送ったが、晩年は故郷に帰り、俳諧宗匠(そうしょう)となった。作風は方言と俗語を巧みに利用して、家族的に不幸な経験からにじみ出た主観的、個性的な句を作ったことで有名。
一茶は柏原の農家の長男として生まれた。3歳の時に母をなくし、祖母に育てられたが、8歳の時に継母が父に嫁いできて、その母親と摩擦もあったらしいが、それをかばってくれていた祖母が14歳の時に亡くなりその翌年、15才で江戸へ奉公に出されている。
江戸に出た当初の行動ははっきりせず、どういう経緯を経てかは分からないが、俳諧を葛飾派の宗匠ニ六庵竹阿などに学び、25才頃から「一茶」の号での俳句を残している。「一茶」とは、消えやすい茶の泡のように、はかない身の上の例えとのこと。31才の時から7年間、九州・四国・京阪など西国へ俳句修行の旅に出て、ここで知り合った俳人と交流した作品は、句集「たびしうゐ」「さらば笠」として出版した。39歳の時、故郷へ帰り、病の父の看病をしたが甲斐なく死亡。このときの様子は、「父の終焉日記」に日記形式で綴られているが、そこには、日々衰弱してゆく父の姿と遺産問題に端を発した継母・義弟との確執がなまなましく描かれている。父の死後、まもなく江戸へ戻り、その後、上総、下総の弟子達を指導して暮らしていたらしいが、51才で故郷柏原に帰り、菊と結婚(初婚)し、65才で亡くなるまで故郷で俳壇の指導者として生涯を送る。一茶の句日記としては最大のものである「七番日記」は、一茶の48歳から56歳までの9年間にわたる句日記(自筆稿本)である。この中には《痩蛙(やせがえる)負けるな一茶是(これ)に有(あり)》など,代表作が多数含まれている。
小林一茶の人生は家庭的には不遇なものであった。晩年故郷に帰ったが、そこでは相続争いに巻き込まれ、大変な苦労をした。遅まきながら菊と結婚し、人並みに安定した家庭生活を送るようになり三男一女をもうける。長女「さと」が生まれたのは56歳になってから、しかし、不運にも、「さと」が満1歳と1ヵ月になった頃、突然痘瘡 (天然痘) にかかり死亡し、その後も次々と生まれた子供が死ぬ。一茶は「さと」への挽歌ともいえる句文集 「おらが春」 の中で、次の句を詠んでいる。
「露の世は 露の世ながら  さりながら」
この俳句は、あまりの悲しさにただただ呆然としていた様子をよく伝えている。『おらが春』の始まりの句は「目出度さも ちう位也 おらが春」そして、終結の句は「ともかくも あなた任せの としの暮」 である。
57歳にもなって生まれた娘を前に喜びを噛みしめながら、凡人の目出度さとしては、春(正月)も中くらいとその心情を詠み、、60歳に近づいて子供を次々亡くし、終結の句では、仏の前に身を投げ出し、あなたまかせにどうにでもお好きなようにしてくださいよとの居据りに似たようなものが伺える。
妻菊も62歳の時に病気で亡くし、2番目の妻を迎えるが、気に入らずに別れ、3番目の妻を迎えている。この1年余りの後、柏原に大火発生時、一茶の家も焼け、焼け残りの土蔵で暮らすうちに、その年の11月19日脳溢血で死亡している。日本の俳句の中でも、このような不遇の中から、かざりけのない「人間」のすがたをありのままによんだところに、一茶の俳句の生命があるといえるだろう。
参考:
一茶記念館
http://park3.wakwak.com/~issakinenkan/
長野郷土史研究会の一茶の句碑一覧
http://www.janis.or.jp/users/kyodoshi/kuhi.htm
一茶発句全集
http://www.janis.or.jp/users/kyodoshi/issaku.htm
SimGさんの草庵 /小林一茶の俳句や国文学情報をGIFアニメやVBScriptアニメ等で紹介。
http://www2j.biglobe.ne.jp/~sim_g/

ミッキーマウスの誕生日

2004-11-18 | 記念日
ミッキーマウスの誕生日
ミッキーマウス(Mickey Mouse)は、ウォルト・ディズニーとアブ・アイワークスが生み出した、世界で最も有名なアニメのキャラクター。
1928(昭和3)年の今日(11月18日)ニューヨークのコロニーシアターでミッキーマウスが登場する短編アニメーション『蒸気船ウィリー』がトーキー作品として初めて公開された。この映画は実際には三番目に製作されたミッキーマウス作品で、これより前に「プレーン・クレイジー」「ギャロッピン・ガウチョ」の2作品がサイレント映画として制作されていたが、後にトーキー作品として修正され、蒸気船ウィリーに続く形で公開されたため、この作品が公開第1作とされ、又、ミッキーの誕生日ということになっているいるそうだ。この映画では、テーマ曲となった”蒸気船ビル”のメロディーをミッキーが口笛を吹きながら運転しているが、この当時はミッキーの声をウォルト・ディズニー( Walt Disney) 本人が演じているので有名。
このキャラクターの生みの親はウォルト・ディズニーであるが、キャラクターのアイデアは相棒のアブ・アイワークス(Ub Iwerks)、「ミッキーマウス」の名付け親は彼の妻のリリアンだそうだ。この映画は公開と同時に未曾有の大ヒットとなり、翌年には、ミッキーの人気は全米中に広がり、その後のディズニー王国の基礎を築いた。当時のミッキーは、今のミッキーとは若干容貌が異なり、大きくて真っ黒な目と細長い手足が特徴で、オールドミッキーと呼ばれている。そして、ミッキーとともに「蒸気船ウィリー」にも登場し、ミッキーの永遠の恋人となったのがミニーマウスである。これから、75年以上たった今もミッキーは多くの人に愛され続け、1983(昭和58年)年4月には東京ディズニーランドが開園し今年(2004年)で21周年を迎えているが、益々、人気の衰える様子はない。ただ、ディズニーのキャラクター人気ナンバーワンは、ミッキーマウスからイギリス生まれの「くまのぷーさん」に移ったといわれているが・・・。
予断であるが、パソコンで使用している、ポインティングデバイスとしての「マウス」は、ダグラス・エンゲルバートが1968年に発明したものだが、この「マウス」の感度を示す単位は「ミッキー」であり、1ミッキーは1/100インチマウスを動かすことを意味しており、命名者はマイクロソフトのプログラマーであったクリス・ピーターズであり、この単位名はミッキーマウスに由来する一種のジョークなんだそうだ。さすがジョーク好きのアメリカ人らしいネーミングですね~。
(画像は、旧三菱銀この貯金箱、ミッキーとミニー)
参考:
ディズニー・オフィシャルホームページ
http://www.disney.co.jp/index_flash.html
東京ディズニーランドホームページ
http://www.tokyodisneyresort.co.jp/tdl/

第1回ドラフト会議

2004-11-17 | 歴史
11月17日
1965年(昭和40年)の今日(11月17日)、日本のプロ野球で、第1回ドラフト会議が開かれた。ドラフト会議とは、正式名称を「新人選手選択会議」と言い、日本のプロ野球球団が、アマチュア選手との契約交渉権を獲得するために行う会議のことであり、社団法人日本野球機構が主催する。
ドラフト会議という制度は1964年まではなく、プロを希望する選手は球団と交渉し、自分の希望する球団に入ることが出来た。しかし、人気のある球団に入団希望選手が集中し、弱い球団には人が集まらず、人気球団はますます強く、弱い球団ははますます弱くなるという状態が発生すると同時に、選手獲得のための契約金が年々高騰化することとなった。
ドラフト会議はリーグ全体の発展の為に、各球団に有望選手を分散させ、各チームの均等を図ろうとするものであるが、契約金抑止の狙いもあっただろう。しかしこの会議があることで、球団経営に余り熱心ではない球団が、余り選手獲得の努力をしなくてもクジ運だけで有望選手を獲得しようとするような弊害も出てきた。又、プロを希望する選手も、「くじ引き」により球団を決められるのを不満とし、逆に選手の方が入団したい球団を指名するようになるが、選手が希望していない球団が、強行指名して結果的に選手から入団を拒否され、大学や、社会人野球に行くという事態が多発するようになる。
そこで、1993年からは大学生、社会人(2年以上)選手に限り、1位、2位の選択を希望することが出来る「逆指名制度」が採用された。(同年に「FA制度」も導入)だが、高校生にはこれらは適用されず、従来からの抽籖方式のままとなっている。そして、2001年以降「自由獲得枠」に変更され(1チーム最大2名)今日に至っている。このことにより、再び戦力の均等化は難しくなってきた。
なお、1978年のドラフト会議において読売ジャイアンツが、ドラフト会議に関する規約を強引に曲解し『空白の一日』説をぶちあげて強引に江川卓の入団発表を強行した・・・。所謂、江川騒動は日本ドラフト制度史上最大の事件であった。
当然、巨人の無茶苦茶なやり方に対して、リーグは巨人の届け出を拒否したが、それに対して、巨人が、西武を誘って新リーグを設立し、その際他の2~3の球団が追随して、球界再編になるのではと大騒動をし、結果的には、ドラフト会議で、阪神が江川を指名し、当時のコミッショナーが「江川は阪神に入団して巨人にトレードで移籍する」というとんでもない裁定を下した。そして、可哀想にも、巨人のエース小林繁投手が阪神江川との交換トレードの犠牲者にされてしまった。この事件では、巨人ファンも含め、多くの人々からの批判が集まり、金子コミショナーは辞任したが・・、読売新聞ただ一社、一貫して巨人擁護記事を書き続け、ファンおよび購読者の離反を招くことになった。
・・・、この事件、今年の近鉄とオリックスの合併問題から、ひいては、「2リーグ維持か1リーグ移行かの再編問題で揺れているプロ野球界」。場合によっては巨人がセリーグからパリーグへ移るかもといった話となんか、似ていると思いませんか・・・?
巨人が明治大エースに対して現金を渡していたことで、渡辺恒雄オーナーが球界から去り、その後他球団でも同様のことが・・・。新人選手の獲得には巨額の裏金が動いていたであろうことは、今回の不祥事からも「氷山の一角」と推測される。その背景は、人気と資金力のある球団に有力選手が集中するドラフト制度の仕組みに問題があるのだろう。
※16日の朝日新聞朝刊に、「最年少15才指名か」と言う見出しの記事があった。カリフォルニア州サンタアナのマタディーハイスクールに在籍中の辻本投手(神戸市出身)、12歳で渡米、今高校を休学して日本に帰国中の15才の選手が、今日17日のドラフト会議で指名されればドラフト制ができて65年以降最年少選手となる。日本の高校生ならダメだが、彼は米国の高校生だからドラフトが適用されるのだろう・・・どうなるか注目したい。
参考:
スポーツCENTURY(SANSPO)
昭和53年11月21日ドラフトの“不備”つき電撃入団…日本中を敵に回した怪物
江川空白の一日…52年“合法的チャンス”あえて使わず
http://www.sanspo.com/morespo/century/century0035.html

梅田コマスタジアム

2004-11-16 | 歴史
1956年の今日(11月16日)は、大阪に梅田コマスタジアムが開場した日。
1956年4月、京阪神急行電鉄(株)(現阪急電鉄)株主への割当て募集により(株)梅田コマ・スタジアムを設立 し、同年11月、梅田コマ劇場、コマ・ゴールド劇場、コマ・シルバー劇場の3劇場を開場した。(同年12月に開場した新宿コマ劇場は別会社の【株】新宿コマ・スタジアムが設立したもの)
1992(平成4)年9月に、 梅田コマ・スタジアムを北区茶屋町へ移転に伴い梅田コマ劇場、コマ・ゴールド劇場、コマ・シルバー劇場などは閉鎖したが、梅田コマ劇場は、同年11月 「劇場飛天」と名を改めて開場した(この年シアター・ドラマシティ竣工)が、初期の目的を達成できず、入場客数も落ち込んだため、2000(平成12)年4月「劇場飛天」は名称をもとの「梅田コマ劇場」に戻した。しかし、その後も経営不振は続き、阪急電鉄グループが、2004年07月28日、経営再建中のグループ会社(株)コマ・スタジアム所有の「梅田コマ劇場」及び「シアター・ドラマシティー」の資産を2005年3月31日付けで取得し、2005年4月1日より、新たに、梅田コマ劇場及びシアター・ドラマシティーの両劇場を総称して「梅田芸術劇場」とし、現梅田コマ劇場を「メインホール」に改称。現在の梅田コマ劇場に約2億円を投じて、クラシック・コンサート等の開催に相応しい音響レベルを確保するための音響反射板を新設して、貸館サービスを行い、クラシック、オペラ、コンサート等、多彩な公演の招聘を図っていくという。「シアター・ドラマシティー」の名称は引き続き使用するらしい。メインホールでは宝塚歌劇を開催し、宝塚大劇場で同時期に行っている公演とは異なる演目の上演を予定している由。
今までの(株)コマ・スタジアムも引き続き年間4ヶ月程度、当ホールを賃借するかたで公演するとか。
梅田花月、中座、そして近鉄劇場もなくなり、又、梅田コマ劇場までなくなるのかと心配したが、兎に角、阪急グループの手で、新しい芸術劇場として再生するのは喜ばしいことだ。
35年間劇場として西日本一の観客を集めてきた大坂・キタの「梅田コマ劇場」が、阪急不動産茶屋町ビルに移り、コマ劇場の1.5倍の広さ、東京帝国劇場の9mを越える11mの高さをもつ日本一の舞台となり、名称も「劇場飛天」と改め、大衆演劇から脱皮し、大阪の演劇のルネッサンス(復興)を目指し、こけら落としも森繁久弥らによる「孤愁の岸」の豪華な演目で、華々しく幕開けしたが、その分料金も高くなり観客数が激減。バブル崩壊や阪神大震災の直撃もあったが、目的は達成されず挫折。1992(平成4)年に、名称も元の「梅田コマ劇場」に戻し、入場料もかってのレベルまで、引き下げ、観客の呼び戻しを図ったものの、これも、上手く行かず経営が悪化し、先に述べたような結果になったのであるが、今度こそ、成功してもらいたいものだ・・・・。
参考:
(株)コマ・スタジアムからの劇場資産取得並びに劇場運営会社の立ち上げ
http://www.hankyu.co.jp/ir/data/200407282N4.pdf
コマ・スタジアムホームページ
http://www.koma-sta.co.jp/
シアター・ドラマシティ
http://www.dramacity.co.jp/