今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

横綱大鵬が史上初の6場所連続優勝を果たした日

2005-05-26 | 歴史
1963(昭和38)年の今日(5月26日)、横綱大鵬が東京・蔵前国技館で行われた大相撲夏場所で全勝優勝し、史上初の6場所連続優勝を果たした。それまでの記録は栃木山、双葉山らの5連勝だった。
昭和30年代は、その年の「国民生活白書」で「もはや戦後ではない」という言葉に象徴されるたように、昭和31年の神武景気、昭和34~36年の岩戸景気を中心に、日本が急激に豊かになっていく時代であり、昭和35年、池田内閣の「所得倍増計画」もあったように、サラリーマンの所得も倍増し、各家庭には「モノ」が行き渡りはじめ、サラリーマンが、狭いながらもマンションなどを手に入れ、明るい電灯が灯された居間で家族揃ってテレビを見るなど、物質的充足感を満たし始めた幸せな時代であったともいえる。
スポーツの面では、30年代後半から、プロ野球では、長島や王が活躍し、国技である大相撲では大鵬が活躍した。
戦前から、野球とともに、人気のあった大相撲。昭和20年代後半から、突っ張りで人気のあった横綱・千代の山を中心とする戦後第1期黄金時代を迎えた後、横綱・栃錦と若乃花(初代)の所謂「栃若時代」を迎えた。小兵の両者がそのスピードと切れる技で、大きな力士を倒す醍醐味で相撲ファンを満喫させ、空前の相撲ブームが興った。そして、その後、昭和30年代後半から40年代前半にかけては、横綱・柏戸と大鵬の「柏鵬時代」の到来である。
第48代横綱・大鵬 幸喜(たいほう こうき)は、本名、納谷 幸喜。樺太庁敷香町出身で、北海道川上郡弟子屈町で育った。父親はウクライナ人。納谷は母の姓である。日本人とロシア人のハーフである彼は、色白で大柄、大変な美男子であり、入幕時より非常に人気があったが、その彼の人気は、入幕初日からの連勝で決定的なものになった。とにかく華やかなムードの新入幕力士が、初日から連勝したのだから、人気が出ないわけはない。昭和35年1月場所、12日目。 新入幕で11連勝の大鵬の対戦者が小結の柏戸。次代を担うと期待された両者の初対戦は、日本中が注目する一番となったが、柏戸が下手出し投げで大鵬を破り、小結の意地を見せ、大鵬の連勝にストップをかけた。
この一番は今も歴史に残る大一番であるが、とにかくこの一番から、柏鵬時代がスタートしたことになる。1961(昭和36)年に二人は揃って横綱に昇進した。
大鵬は、1963(昭和38)年の今日(5月26日)6場所連続優勝を果たし、通算優勝回数は11回となり、双葉山の持つ最高記録12回へあと1回と迫った。そして、1966年春場所~1967年初場所に2回目の6場所連続優勝を果たしており、優勝回数は最多の32回を記録した名実ともに大横綱となった。大鵬が多くの記録を持っている事は周知の事であるが、彼は、「幕内在位のすべての年に優勝している」という凄い記録を持っているのである。弱点である腰の脆さを身体の柔らかさと懐の深さを生かし、差し身のよさと動きの早さ、それと旺盛な研究心で補っていた。しかし、彼には、「相撲の型」がないのが欠点だと評価する人もいる。それに対して、ライバルの柏戸は、横綱になってこれからと言う時に骨折を繰り返し、実力が発揮できず、優勝回数こそ5回と少なかったものの、土俵を一気に突っ走る豪快な相撲が多くのファンから支持を得ていた。子供の好きな「巨人、大鵬、卵焼き」に対して、大人ウケの「大洋、柏戸、水割」ともいわれ、いつも比較・対照された二人である。とにかく、大鵬にとっては、柏戸は最大の強敵であり、通算の対戦成績は柏戸16勝、大鵬21勝であるものの、大関時代までは柏戸7勝、大鵬3勝と大鵬にとっては最強の壁であった。
ライバルの柏戸とともに「柏鵬時代」と言われる大相撲の黄金期を築いた大鵬は、引退後、一代「年寄」大鵬親方として大鵬部屋を興し後進の育成をしてきたが、この夏場所後に日本相撲協会の定年(65歳)を迎えた。記者に現役時代の思い出を聞かれると、「柏戸がいて大鵬がいる。」と答えている。
この二人が、退いた後、千代の富士時代、若乃花・貴乃花の兄弟横綱時代を経て、現在に至っているが、今は、何時代と言えば良いのであろう。しいて言えば、外人力士時代と言うところか。5月22日の新聞・天声人語にも、書いていたが、夏場所の千秋楽を待たずに、朝青龍が12度目の優勝を決めた。国技館では、終盤、独走する横綱が客席から妙な声援を浴びていたという。「世界一」「強すぎ」「たまには負けていいぞ」・・・などと。強い横綱に好敵手がいてこそ相撲界は盛り上がる。・・そのとおりである。この場所満員御礼の幕が出たのは、3日しかないという。横綱に対抗する力士が居らず、その横綱は、外国人。もう少し、日本人力士に頑張って貰わないと、相撲を日本の国技とは言いづらくなると思うのだが・・・。このままでは、大鵬の連続6場所優勝の記録も、敵のいない外人横綱朝青龍に破られる日は近いだろう。(x_x)
(画像は、横綱時代の大鵬。以下参考の日本相撲協会のものよりカット)           
参考:
大相撲記録集
http://www5b.biglobe.ne.jp/~ohsumo/data1.html
昭和の名力士
http://www.bekkoame.ne.jp/~tosiharu/meirikishi/meirikishi_mokuji.html
第四十八代横綱 大鵬 幸喜 - goo 大相撲
http://sumo.goo.ne.jp/kiroku_daicho/mei_yokozuna/taiho.html第四十七』代横綱 柏戸剛 - goo 大相撲
http://sumo.goo.ne.jp/kiroku_daicho/mei_yokozuna/kashiwado.html
歴史に残る名勝負・・・ムービーが見れます。
大鵬 対 柏戸(昭和39年3月場所千秋楽 )
柏鵬2度目の全勝決戦。ふところの深さを生かした大鵬に軍配、13回目の優勝を全勝で飾った。これは双葉山の持つ優勝回数12回を抜き史上1位となった。ここで見れます。
柏戸 対 大鵬
(下手出し投げ)
昭和35年(一月場所12日目)
新入幕で11連勝の大鵬が小結柏戸と対戦。次代を担うと期待された両者の初対戦は日本中が注目する一番となったが、柏戸が下手出し投げで大鵬を破り、小結の意地を見せた。 ここで見れます。

食堂車の日

2005-05-25 | 記念日
今日(5月25日)は、「食堂車の日」
1899(明治32)年5月25日、当時の山陽鉄道(現在のJR山陽本線)・京都~三田尻(現在の防府)の急行列車に日本初の食堂車が連結された。
日本で、最初に長距離急行列車を運転したのは、民営の山陽鉄道(現・JR山陽本線)である。1890(明治23)年に、神戸~姫路間と、兵庫~和田岬間、1891(明治24)年、には岡山まで、翌1892(明治27)年には広島までと路線を延ばし、そこで、早速急行列車を走らせた。当時、利用者の多かった瀬戸内海の客船との競争に打ち勝つためで、このほかにも、山陽鉄道は、主要駅に荷運夫(赤帽)を配置したり、列車ボーイを常務させるなど、色々サービス面ではりあった。1899(明治32)年には官営鉄道に先駆けて列車食堂の営業を開始した。しかし当時、食堂車が使えるのは1等・2等車の乗客だけで、メニューは洋食のみであった。3等車の乗客は食堂車を利用出来なかったので、駅弁を食べるか、持参の弁当を食べるしかなかった。官営鉄道が急行列車を運転したのは、2年後の1896(明治29)年のことである。又、官営鉄道が、食堂車の営業を始めたのが1901(明治34)年12月からであり区間は新橋~神戸間であった。当時の食堂車は区間ごとの営業であったようだ。その後、食堂車は各地の私鉄にも登場し、1912(明治45)年には新橋-下関間の急行列車で営業を開始している。
その後、第一次世界大戦 後には、3等車の乗客も食堂車を利用できるようになったが、その後第二次世界大戦の激化により、1944年(昭和19)に食堂車の営業が全廃された。終戦後は、連合軍輸送司令部からの食堂車接収命令により、すぐには、日本人が食堂車を利用できる状態にはならず、日本人向け食堂車の営業再開は1949(昭和24)年からである。1950年(昭和25)になると、戦後初めて食堂車が新造され、戦後できた特別2等車といっしょに特急列車に組み込まれ運用された。この昭和25年の国内向け食堂車は、神戸の川崎重工業で製造された。
しかし、その後、新幹線の出現により、長距離列車が次々と姿を消すのとともに、食堂車も消えていき、その新幹線も高速化と合理化により、食堂車が姿を消している。・・・少し、寂しい気はしますね・・・。
神戸と言えば、船と港を第一に連想する人が多いと思うが、鉄道に関しても我が国有数の先進性を誇っていた都市であった。東海道本線が新橋~神戸間を全通したのは1889(明治22)年のことであるが、山陽本線は当時山陽鉄道という私鉄として発足し、本社は神戸に置き、1888(明治21)年には兵庫~明石間を開業し、翌1999(明治22年)には、兵庫~神戸間を延長し、官鉄と接合した。そして、東海道・山陽の接合駅として神戸駅が生まれたのである。そして、1906(明治39)年、鉄道の国有化がなり、神戸には、南日本全体を管理する神戸鉄道管理局が置かれ、新橋と並んで全国的鉄道拠点の双璧となっていた。残念ながら、昭和3年になって、これは、大阪へ移転してしまったが・・・・。昭和5年、東京~大阪間に「つばめ」が運転され、神戸で船に接続する国際列車となるなど、神戸は海上と陸上の結節点としての役割を果たしてきた。しかし、その後、神戸は、阪神大震災などの影響もあり、港に活気がなくなってしまった。来年2月には、神戸空港が出来るが、今までの港の役割を取り戻してくれることを神戸っ子としては、願っている。
(画像は、国内向け食堂車内部。昭和25年。市民のグラフこうべより)
参考:
食堂車の歴史
http://www.jr-cp.com/pavilion/shokudosha.html

ゴルフ場記念日

2005-05-24 | 記念日
1952(昭和27)年の今日(5月24日)は「ゴルフ場記念日」
1903(明治36)年5月24日、日本初のゴルフ場「神戸ゴルフ倶楽部」がオープンした。
日本でのゴルフは六甲山から始まった。神戸港開港以来、神戸の居留地での居留地外国人によるスポーツの、起源を辿ると、明治3年A・C・シムによって創設されたKRAC(神戸レガッタ・アンド・アスレチック倶楽部)の活動に始まが、その若かったKRACの会員が30年も経過すると体力も衰えて、激しい競技スポーツに参加できないことを知ったイギリス人の茶貿易商A・グルーム(アーザー・ヘスケス・グルーム)は、ある会合で友人達と談笑中、自然の中でしかも仲間と楽しめるゴルフの必要性を感じ早速彼は友人を誘って、低廉な六甲山頂の土地を確保し1901(明治34)年に4ホールだけのゴルフ場を作った。これは文字通り、日本最初のゴルフ場で、2年後の1903(明治36)年5月には9ホールに拡張し、ホールの開場式は服部知事や坪野市長を招いて行った。会員も120人に増えて、日本初の神戸ゴルフ倶楽部が発足した。そして、明治37年には、18ホールに拡大して1907(明治40)年には、横浜対神戸のインターポート試合と、日本アマチュア選手権を実施した。
また、神戸ゴルフ倶楽部(KGC)は冬の4ヶ月間閉鎖される不便を補うため、英国人ウィリアム・ロビンソンが、37年に横屋ゴルフアソシェーションを創設した。
日本初のプロゴルファーや日本婦人選手権の初代チャンピオンが誕生したのも神戸である。
六甲に別荘があった室谷藤七(同GCの理事長などを歴任した人)は、第1回関西アマチュア選手権で優勝した名プレーヤーで、日本人初のスクラッチプレーヤー(ハンデ0)となる。(※参考のJGAハンディキャップの制定と目的(プロゴルファーにもハンディーがあった時代)を参照ください。)
又、神戸ゴルフ倶楽部では、六甲山麓(ろく)に住む子供たちが小遣い銭稼ぎに山道を登ってキャディーを務めていた。横屋、その後出来た鳴尾でも近所の子供がバッグをかついでいた、この中から数々のプロが誕生したが、プロ第1号が福井覚治である。
因みに、日本人最初のゴルファー(1907年=明治40年)は、小倉正太郎で、日本人女性で最初にゴルフをしたのもその妹で、神戸女学院生であった小倉末子(14歳:後のピアニスト)であった。
現在のハウスは、1931(昭和6)年~1932(昭和7)年にかけて改築されたもので、当時の百貨店や関西学院、神戸女学院などを手がけていたアメリカの設計家ウイリアム・メレル・ヴォーリスによるものである。
明治の時代は、神戸開港とともに始まった。開港と同時に、外国人居留地が出来、西洋の文化が、そこから発信されだした。そのため、神戸には、日本初のものが多くあり、この神戸倶楽部もその一つ。神戸っ子のお国自慢の一つである。又、神戸倶楽部のある六甲山のよいところは、市内にそびえていることと、日本の山にありがちな求道性や哲学がないことだと、司馬遼太郎さんが書いている。『司馬遼太郎追想集・ここに神戸がある』(月刊神戸っ子)の一節。名山と評される日本の多くの山は、たいていの場合、修験者によって開かれた。富士山、御岳、大峰山、葛城山…。しかし、六甲山は、そうではない。登る者に圧迫するような観念的な要素がなく、明るい緑の空気のなかで、若い人は安心して恋を語ることができるし、中年の男性は仕事のことを忘れてゴルフクラブを振ることができる…。それこそが六甲山の値打ちだと・・・。神戸を訪れた時は是非、六甲山を登ってくださいね・・・。
(画像、『グルームのパッティング』明治40年ごろ。市民のグラフ神戸より)
参考:
特集:JGAハンディキャップの制定と目的(財)日本ゴルフ協会
http://www.jga.or.jp/bulletin/vol69/special/sp1_3.html
日本最初のゴルフ場《神戸ゴルフ倶楽部》
http://ohto.ciao.jp/koubegolf.html
クラブハウス探訪 神戸ゴルフ倶楽部
http://www.golfdigest.co.jp/gdo/column/chouse/0101.asp
摂津物語紀行:六甲山:日本最古のゴルフ場がある多彩な山の表情がある
http://www.toyro.co.jp/library/kikou/n_17.html


キスの日

2005-05-23 | 記念日
今日(5月23日)は、「キスの日」
1946(昭和21)年5月23日、日本で初めてキスシーンが登場する映画、佐々木康監督の『はたちの青春』が封切られた。内容的にはホーム・ドラマを基調にした松竹風の青春映画だが、主演の大坂史郎と幾野道子がほんのわずか唇をあわせただけだったが、それでも話題を呼び、映画館は連日満員になったという。終戦後の生活難にあって、人々は、戦時下に制限されてきた娯楽や文化にうるおいを求めていた。闇市では古本が売れ、NHKラジオでは「素人のど自慢」がはじまった。そんなひとびとに文化の薫りを伝えたのはやはり映画であった。とりわけ解禁されたアメリカやヨーロッパの映画は、日本映画にない「自由の匂い」を漂わせ人気を集めていた。
しかし、1945(昭和20)年8月15日の終戦から1952(昭和27)年4月29日の対日講和条約の発効まで、わが国はアメリカを中心とする「連合国」の統治下にあった。戦前、内務省の検閲を受けていた日本映画は、戦後はGHQ(連合軍総指令部)の検閲を受けることとなり、いわゆる「民主主義」的な、あるいは「反軍国主義」的な作品の製作が要請されるため、封建的忠誠心や仇討をテーマーにしたものや心中を是認するものものなどの時代劇や極悪非道な暴力を扱ったやくざ映画などは作ることはできない。「デモクラシー」が流行語にもなっていたこの時代に、戦前は禁止されていたキス・シーンを、スクリーンに描きだすことは、GHQの女性解放という理念をかかげた占領政策の一環でもあった。他に、同年の千葉泰樹監督の『或る夜の接吻』という映画でもラストで恋人達が街角でキスをするシーンがあったがこれは洋傘で覆うという演出でごまかしたものであったっため、佐々木康監督の「いのちの青春」が最初とされている。この映画では、大阪志郎と磯野道子がガーゼを口に含むなどして悲壮な表情でこれを実行したという。ほんのわずか唇をあわせただけの一場面があるだけで日本映画初の接吻シ-ンと宣伝され、大ヒットとなったが、今の若い人たちには、ほんの60年程前に、このようなキスぐらいで大騒ぎしていた時代があったとは、とても信じられないだろう。
この「キス」「キッス」という言葉は、英語のKissがそのまま外来語として定着したものなので、明治時代から生じた言葉である。明治以降、kissの翻訳語としては、概ね「口づけ」「接吻」といった言葉が文学上も使われてきたが、それでは、明治以前の江戸時代にはKissのことをどのように言ってきたのだろう。結論から言うと、江戸時代でも、それ以前から使われていた「口を吸う」が最もよく使われた表現だそうで、「口を吸ふ 時に困ると 天狗言ひ」などという川柳もあるそうだが、何か、この言葉のイメージでは、そう簡単に、人前で出来るものではないだろう。最近は、「口づけ」「接吻」又、「キス」「キッス」などよりも「チュー」などと言う軽い言葉が、よく使われているんじゃないだろうか。このような表現になると、もう、言葉のイメージも可愛いく、なんとなく、どこででも誰とでも簡単に出来そうな雰囲気になってしまう。現に、先日も、孫が、遊びに来て、「ジージー、チューしてあげる」などと言って、額に、「チュー」をしてくれた。もう、小さな子供にまで「チュー」が日常化しているのだろう。
戦前戦後にかけて活躍した女優・田中絹代さんが、1949(昭24)年に芸能人として戦後初めて渡米し、芸術親善使節として全米の日系人を慰問したり、戦没者の慰霊などをした。そして、ハリウッドでは、ベティ・デイビス、ジョン・クロフォードら当時の大スターを表敬訪問し、翌1950(昭25)年1月に帰国。羽田空港に帰国したとき、グリーンのサングラスに毛皮のコートという派手な服装で機内から現れた彼女の第一声は「ハロー」。そして、出迎えの市民らに、学んだばかりのハリウッド調メークで投げキスをして挨拶。世論の激しい反発を受け、その後しばらく深刻なスランプに陥っていたという。又、1950(昭25)年に、田中絹代さんに次いで、コンサートとハリウッドなどでの勉強の為に、訪米した女優山口淑子さん(元参院議員)は、東京での歓送会で映画評論家から、「本場の美しい接吻(せっぷん)の場面を学んできなさい」とアドバイスされ、ハリウッドでの記者会見で訪米の目的を聞かれて、本人は大まじめに「キスの勉強に来ました」と、答えたのだが、ジョーク好きなアメリカ人はこれを、軽妙な受け答えととり、翌日の新聞に、「キスを習いにきた日本の女優」と、好意的に紹介されたというエピソードなどもある。今のように、小学生で性教育をしなければならない時代になってしまうと、「キスをしたら子どもが出来る」などということをまともに信じていた者が多くいた時代が、なにかしら、懐かしくさえ感じられる。
(画像はコレクションのカラクリ貯金箱)
参考:
The National Museum of Modern Art, Tokyo:日本映画の発見IV:占領下のNIPPON
http://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/98-4-5-kaisetsu.html
私的日本映画50年史 日本映画を振り返る
http://www.pressnet.co.jp/2004_01/0131_25.htm
日本表現規制史年表 1868~1993
http://homepage2.nifty.com/tipitina/HYOGENC.htmlhttp://homepage2.nifty.com/tipitina/HYOGENC.html
佐々木康 (ササキヤスシ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/106792/
論文『内から見た日本語』
http://www015.upp.so-net.ne.jp/naka0930/ronbun9.html
映画保存ニュース・アーカイヴ
http://d.hatena.ne.jp/stickyfilms/200101
大 手 小 町*時代を拓いた女性達: 山口淑子さん(元参院議員)
http://www.yomiuri.co.jp/komachi/jidai/ji170301.htm


アーサー・コナン・ドイル」(英:小説家『シャーロックホームズ』) の誕生日。

2005-05-22 | 人物
1859年 の今日(5月22日)は、「アーサー・コナン・ドイル」(英:小説家『シャーロックホームズ』) の誕生日。
アーサー・コナン・ドイル 本名 Arthur Ignatius Conan Doyle、1859年5月22日 - 1930年7月7日)は、イギリス、エディンバラ生まれの小説家。シャーロック・ホームズシリーズに登場する史上最高の名探偵シャーロック・ホームズを生み出した事で知られ、エドガー・アラン・ポーと共に現代推理小説の生みの親と称されている。推理小説以外にも歴史小説やSFなどの著作も多く残している。エディンバラ大学で医学を学び、ポーツマス郊外のサウスレーで眼科医院を開業。医院はやらず、余った時間で創作活動をはじめたという。1887(明治20)年シャーロック・ホームズが登場する『緋色の研究』を発表。続く『四つの署名』が大人気を博して作家としての地位を確立した。
推理小説好きのものなら、数多くいる探偵の中でも、先ず最初に思い浮かべる名探偵といえば、シャーロック・ホームズであろう。私も子供の頃から推理小説が好きで、ホームズものは夢中で読んだが、ホームズと言えば、先ず、NHKで放映された英グラナダTV制作版の「シャーロックホームズの冒険」(1892年出版)が思い出される。日本では、1985(昭和60)年4月「ボヘミアの醜聞」以降、最後のシリーズが終了する1995(平成7)年2月まで、全41作品が放映された。私は、原作を読んだわけではないが、舞台は、18世紀のロンドンの霧の濃い街中を行き交う馬車や街並み・人物の特徴などの雰囲気を原作に忠実に再現したものものだったそうだ。又、ホームズを演じたジェレミー・ブレットの容姿は、すらっとした長身、角張った鼻、こけた頬、神経質そうに指先まで緊張感が漂うしぐさなど、まるで、原作の挿絵(画:シドニー・パジェット)からそのまま抜け出してきたかのようであった。そして、日本語の吹き替えは露口茂の渋い声。これもホームズの雰囲気にピッタリであり、謎解きのスマートさは勿論、ホームズとワトスンの会話など、さまざまな面での面白さが凝縮されたシリーズであった。
小説では、ホームズとワトソン博士はベーカー街221bにあるヴィクトリア朝の下宿屋に住んでいたことになっているが、現実には、ベーカー街に221bなどという番地は実在しなかったらしい。その建物は、1815年に建てられ、現在イギリス政府が保護する文化的建築物になっており、シャーロック・ホームズの時代と生活を見せするための博物館として公開されている。
ホームズの性格は極めて冷静沈着。行動力に富んだ活動家。そして、ヴァイオリンの名手で、ボクシングはプロ級の腕前。東洋武術のバリツ(柔道のことと云ふのが通説)を体得しており、化学実験を趣味とするヘビースモーカー。事件がなく退屈すると拳銃で壁に発砲して弾痕で字を書いたり、コカイン・モルヒネに惑溺する悪癖があったが、後にワトスンの協力もあり、止めることができたという設定であるが、このホームズのモデルは作者コナン・ドイルがエディンバラ大学の医学部在学中に師事した恩師のジョーゼフ・ベル博士とされているそうだ。100年以上経った今も尚、熱烈なファンを世界中にもつ、ホームズは、永遠の名探偵である。
(画像はDVDシャーロックホームズの冒険シリーズ)
参考:
シャーロックホームズの冒険研究所
http://www004.upp.so-net.ne.jp/greenhill/holms/
シャーロック・ホームズ博物館
http://www.areab.co.jp/221b/top221b.htm