今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

リンドバーグ翼の日

2005-05-21 | 記念日
今日(5月21日)は、「リンドバーグ翼の日」
1927(昭和2)年5月20日の朝7時52分に、ニューヨークを、飛び発った「スピリット・オブ・セントルイス号」は、33時間30分後の5月21日にパリのル・ブールジェ飛行場に着陸した。飛行距離は約5800km、25歳の無名のアメリカ青年チャールズ・リンドバーグの快挙である。大西洋の無着陸横断飛行”単独”では、初めての出来事である。パリの飛行場には10万人を超える群集が押し寄せた。これをモデルにした映画が「翼よ、あれがパリの灯だ」である。
この映画は、彼が執筆したその時の回想録「The Spirit of St. Louis 」をもとに、米国で、ビル・ワイルダー監督によって同名で映画化(1956年)されている。主演は、ジェームズ・スチュワート。「翼よ!あれがパリの灯だ」は 1957年 日本公開時の邦題である。この有名な言葉(邦題)は、リンドバーグが、日の落ちたパリ郊外でエッフェル塔の上を旋回し 街路を眼下に見ながら 着陸地に向かう心情をよく表しており、まさに、映画にぴったりの邦題といえる。
”単独”での大西洋の無着陸横断飛行はライト兄弟がはじめて有人飛行を行ってから24年後の快挙であった。しかし、大西洋横断飛行そのものはこれまでにも、何人かが成功していたようであるが、それは水上機などを使った横断であり、無着陸”単独”横断飛行では誰一人成功した者はいなかった。
何人もの飛行士が無着陸飛行を試み、失敗している中、第一次世界大戦の予備役を務めたことはあるものの、無名の 航空郵便士であったリンドバーグが、大西洋単独無着陸横断飛行に挑戦したのには、ニューヨーク~パリ間の2都市を、最初に無着陸で飛んだ者に2万5千$の賞金が、かかっていたかららしい。
無名の青年が、今までの常識を覆し、飛行機は単発機とし、燃料を積むために無線機、燃料計も取り外し、副操縦士もつけづに、単独飛行を行うことに対して、多くのアメリカ人の失笑を買い、ばか者呼ばわりまでされていたようだが、とにかく、この成功により、一躍世界の英雄となった。
その後、1929年5月、中南米親善飛行の途中知り合ったメキシコ駐在大使の娘、アン・モローと結婚、アンは夫の副操縦士となって一緒に各地を飛行している。1931(昭和6)年には、北太平洋経由で日本にも飛来し、翌年には、北極探検飛行をも成し遂げている。この日本への旅の模様をアン夫人が本に書いている(日本語版「翼よ、北に」)
1931(昭和6)年8月26日午後2時過ぎ、霞ヶ浦の海軍飛行場にリンドバーグ大佐夫妻の乗った水上機が着水した。前日、根室に着水、26日午前8時過ぎに根室を出発していたものだ。夫妻は7月29日に、ワシントンを出発、1万2300キロを18回着水し、28日間かけて飛行時間80時間33分を要しての飛来。飛行場には、フォーブス駐日米大使、安保清種海相、小泉又次郎逓相はじめ官民の大群衆が2人を出迎えた。
1931年のこの当時は、3月事件( 軍部のクーデターによる軍事内閣樹立未遂事件)が発生しているなど、物情騒然とし始めた時期である。9月には、満州事変が勃発している。このような時期に先に述べた根室に来る前に、千島の計吐夷(けとい)島、択捉島、国後島などあちこちに不時着したことになっているが、後年、この不時着は地形調査のための軍事上の目的があった偽装着陸ではないかと取沙汰もされたという。リンドバーグが、元々、空路調査のためにやってきたものであれば疑われても仕方がないことだろう。彼は、北極探検飛行後、軍顧問として戦線に赴き、空中戦にも参加している。
因みに、霞ヶ浦で出迎えた中の一人、小泉又次郎逓相は、全身に「昇り龍のいれずみ」を彫っていたことで有名で、1929(昭和4)年から浜口雄幸、第二次若槻礼次郎の各内閣で逓信大臣をつとめ、「いれずみ大臣」の異名をとっていた。刺青は、鳶(とび)職の父親に、鳶の道に生きることを示した行為といわれている。ある時、民権派の旗手・板垣退助の演説を聞いて、政治家を志し、新聞記者や神奈川県議を経て政治家になった。その養嗣・小泉純也(元国務大臣)の息子が現内閣総理大臣である小泉純一郎であり、又次郎の孫にあたる。あの向こう意気の強さは、鳶職の血を受け継いでいるのだろうね~。
(画像は、映画チラシ『翼よ!あれがパリの灯だ』1966年リバイバル時のもの)
参考:
航空史資料館:航空史ドキュメント
http://www1.interq.or.jp/mmi/history.htm 
横断飛行チャールズ・リンドバーグ
チャールズ・リンドバーグ
http://www1.interq.or.jp/mmi/gui/lind.htm
今日生まれの偉人傅:チャールズ・リンドバーグ(1902~1974)アメリカ、飛行家
http://www.eonet.ne.jp/~m-hirose/ijinden/2gatu/0204.htm








新東京国際空港開港記念日

2005-05-20 | 記念日
今日(5月20日)は、「新東京国際空港開港記念日」
1978(昭和53)年5月20日、千葉県成田市に新東京国際空港(成田空港)が開港した。1966(昭和48)年7月に千葉県三里塚に空港建設が閣議決定されてから12年かかっての開港だった。地元の意向を無視した決定に対し強力な反対運動が展開され、死者も出た。政府は、1978年3月30日を「開港」と決め、反対闘争を押し切るかたちで、準備を進めていた。その開港日の4日前に過激派ゲリラが突入し管制塔が占拠され、中の機器が破壊され、開港は中止された。面子をつぶされた政府は、2ヵ月後の5月20日、出直し開港に向けてしゃにむに漕ぎ着けた。このとき全国から動員された機動隊及び警官は13,000人にのぼり、開港式典は機動隊の戒厳の中ひっそりと行われた。21日営業開始。
国策で強引に無理押しして開港を進めた結果、日本で最長の4000m滑走路を持つ空港であるが、未だに全体計画は完了していない。開港後25年以上経過して第2期工事の「平行滑走路」も土地買収が進まないため、計画より短い暫定滑走路のまま使用するなど、不完全な状態が続いている。後に出来た関西・中部の両国際空港の滑走路は3500m。将来4000メートルへの計画もあるようだが、海上の空港であり、滑走のための障害になる山などないので、4000の滑走路は必要ないともいわれている。そして、騒音問題からの使用時間の制限などもあり、逆に羽田空港の拡張を行うことになる。
2004年4月1日、成田国際空港株式会社法が施行され、空港を管理する新東京国際空港公団が成田国際空港株式会社(Narita International Airport Corpration:NAA)と名称を変え民営化(特殊会社化)された。これに合わせて、空港の名称もそれまでの新東京国際空港から一般的に呼ばれていた成田国際空港に改称された。
開港当時の過激派ゲリラの闘争の模様は、テレビを通じて全国に流され、今でも、我々の脳裏にはその時の映像が強烈に焼き付けられている。
政府の地元の農民の十分な同意もなく強引な土地の買収などに対して、地元農民が土地を失うことや騒音問題から反発するのはよく分る。しかし、これらに便乗した新左翼などが反対活動に参加し、住民の反対運動を煽ったために運動が過激化した。高度経済成長を続ける日本にとって、国際空港はどうしても必要なものであった。しかし、国土の狭い日本の内陸部において、大規模な、空港を建設しようとすること事態に無理があったと言える。
その後、関西国際空港、中部国際空港が開港しているが、いずれも、海上に建設されている。これからは単なる空港ではなく、「ハブ空港」の整備をしないと、国際化の中で日本は取り残されていくだろう。内陸部に於ける空港の拡大は騒音問題等もあり望めない。今のままでは、伊丹空港を抱える大阪の関西空港と同様、中途半端な成田空港を抱えた東京の羽田空港も、ハブ空港として中部国際空港が整備された暁には、客を奪われてしまうことになりかねないだろう。
(画像は、「新東京国際空港開港」 記念切手。空港のターミナルビルと旅客機が描かれている。1978年5月20日発行。この切手も1978年3月30日発売予定であったが、過激派の空港襲撃により開港が遅れたため、切手発行日も延期された。)
参考:
成田国際空港公式WEBサイト
http://www.narita-airport.jp/jp/
成田国際空港(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E7%94%B0%E7%A9%BA%E6%B8%AF

ボクシング記念日,チャンピオンの日

2005-05-19 | 記念日
1952(昭和27)年の今日(5月19日)は、「ボクシング記念日,チャンピオンの日」
1952(昭和27)年5月19日、東京後楽園球場の特設リンクで、世界フライ級選手権をかけて世界チャンピオン、ダド・マリノ(米)と挑戦者・白井義男(しらい・よしお:当時28歳)が対決し、判定で、白井がマリノを破り、日本初のボクシングの世界チャンピオンとなった。その瞬間、球場は地響きがするような大歓声に沸き返った。又、試合終了と同時にリングに飛び出したトレーナーのディック・知念も白井を抱き上げてリングをはねまわったという。過去、白井はマリノと2度戦い、一勝一敗と星を分けていた。このとき、会場に詰め駆けたていた観衆は、約4万5千人。それだけ、この試合に国民は白井の勝利を期待していたのである。戦後の復興途上にあった日本、テレビはまだなかった。ラジオの生中継に聞き入っていた国民。日本人の白井がアメリカ人に勝ったことで日本中が沸きかえった。1949(昭24)年、湯川秀樹博士のノーベル賞受賞、同年8月、ロサンゼルスで行われた水泳の全米選手権での古橋広之進選手の自由形世界新記録に次いで、敗戦でショックを受けた日本人の心に希望の灯をともしてくれた。この当時まだ、日本は、米軍を中心とした連合国軍(進駐軍)の統治下に置かれていた。その連合国軍を監督していたのがGHQ(連合国軍総司令部)であった。だが、白井の活躍の影には、白井の才能を見出し、5年間にわたり指導し、育て上げたてくれたGHQの職員アルビン・R・カーン博士(生物学者)がいたのである。国民にとって、広島・長崎に原爆を投下した米国人に、当時、まだ好感をもてる時代ではなかったが、皮肉にも、敗戦の痛手から立ち直れないでいた日本人に立ち直る為の勇気を吹き込んでくれたのも、カーン博士のような米国人だったのである。
当時の日本のボクシングでは、ボクサーと言うよりも、拳闘家と呼ばれていたように肉弾戦法そのものであった。ある時、偶然に、ジムで黙々と練習を繰り返す白井選手の鋭い左ジャブときれいなフットワークをみた、カーン博士は、白井に、科学的なトレーニングを取り入れたアウトボクシングを指導。徹底して左ジャブの練習をさせた。そして、白井選手を見事「拳闘家」から「ボクサー」へと変身させたのである。
世界王座を4度防衛した後、1954(昭和29)年11月、パスカル・ペレス(アルゼンチン)に敗れ無冠となり、翌年の再戦で敗れたのを機に引退。その後、財団法人日本ボクシングコミッション理事を勤め、1995(平成7)年秋、勲四等旭日小綬章を受章。2003(平成15)年12月26日逝去。
引退後、テレビなどでボクシングの試合の解説者として、またその他の場面で見かけた白井氏は、元ボクサーとは思えない本当に温厚で、柔和な顔をした紳士といった感じの人でしたね~。あんな温和な人のどこから、あのようなファイトが出てくるんでしょう。内に秘めたる精神力と闘士。男はこうじゃなけりゃ~。『男が男らしく』ありたいと思った時代の男である。近頃は、悪いことをするにしても、弱いものばかりを相手にいじめたり、騙したりする、卑劣で軟弱な男が増えたね~。これも戦後、『男が男らしく』などと言おうものなら『それはどういうことですか!・・・』などとすぐ突っかかってくる人たちの教育のせいだと思うのだが・・・。
(画像はダド・マリノを破り観衆に手を振る白井義男とアルビン・カーン博士。週間朝日百科『日本の歴史」より)
参考:
「思い出の名勝負」特集 日本のボクシングを築きあげたスター
http://mihasi.tripod.com/sirai/sirai.htm
nikkansports.com > スポーツTOP > 新弥のDAYS'
http://www.nikkansports.com/ns/sports/goto/2004/goto040115.html

ことばの日

2005-05-18 | 記念日
今日(5月18日)は、「ことばの日」「こ(5)とば(18)」の語呂合せ。
「最近の若者の言葉の乱れは…」などという話は、聞き飽きた方も多いとは思うし、余り、四角四面に難しいことを言うつもりもないが、語呂会わせとはいえ、今日のような記念日に、このことについて考えてみるのもよいだろう。
日本語の乱れは近年に始まったことではなく、古くは清少納言の『枕草子』の中で若者の言葉の乱れを嘆いているように、いつの時代にも「最近の乱れ」を憂慮する声はあるが、文学博士の故金田一春彦氏も、言葉は時代とともに変化するものと容認しており、変化を止めることは出来るものでなく、私もそれは、乱れでなく「変化」であろうとは思っている。
しかし、言葉のどのような変化に対しても寛容であっていいかとはいえないだろう。公共放送であるNHKテレビの番組で、若い女性のアナウンサーが女優をゲストに迎えてのインタビューで「○○さんはなにげに…」などという言葉を使っているのはどうしたことだろう。若者を中心に流行っている言葉だが、本人は、無意識のうちにそれこそ「なにげに」使ったのだろうが、民放のバラエティ番組ではないのだから困ったものである。
日本語の乱れ問題では、特に「若者言葉」が問題視されているが、これらのの中にも「カッコイイ」のように後々まで定着している「かっこいい」言葉もある。しかし、中には「チョべリバ」のよう訳の分らない言葉も多い。
平成12年度「国語に関する世論調査」の結果について によれば,「今の国語は乱れている」と感じている人の割合は88.9%にもなっている。そして、どんな言葉遣いをしているときに乱れていると感じるかの質問に対しては、「ものの言い方が乱暴なとき」が50.3%と最も多く、その後、挨拶、人を傷つける言葉、汚い言葉、敬語を間違えて使っているなどが続いている。
ふだん私もよく耳にする言葉に「なにげに」のほか「チョー」とか「むかつく」などといったことばをよく聞く。それと、TVのドラマなどを見ると(私は余りドラマは見ないので、予告とかただ放映されているのを見るでもなくちょっと見た程度であるが)、なにか、すぐにキレて、何時も、やたらと、頭のてっぺんから、大声を出し、わめいている場面が多いように感じている。実際にはどうか知らないが、人間平常心をなくし頭にきたときによい言葉はしゃべれないだろう。
言葉が時代とともに変化するものであるとすれば、今の若者の使っている言葉に人を傷つける言葉や汚い言葉、乱暴な言葉が使われるとすれば、それこそ、今の世の中の乱れや若者が置かれている立場や環境と関連しているのかも知れない。
又、若者の間で使われている第三者には理解できない隠語のようなものについては、ある塾の講師が以下のように述べている。”今は、言葉の乱れと言うよりも、「話をする力(語い力)」が不足しており、「論理的思考力」の欠ける子供が多く「長く筋道の通った会話」ができない傾向にある。子供達が発する言葉は主語と動詞が中心で,形容詞・形容動詞・副詞・連体詞などの修飾語の語いの不足を補うために様々な造語を作るようになった。そして、これらの造語は,基本的に「仲間内」でのみ通用するため,グループの異なる人同士では意味が通じない言葉が多くなり,どうしても端的な会話になりがちだ”と言うのである。
私も、そのようなことを感じている一人である。言語は重要な表現能力。私のような、国語力のないものが言うのもおかしな話だが、正確で分かりやすく、人を傷つけない表現を適切に使うようには心がけたいものである。
最後に、イスラム教の教の中に、「自分が変れば 相手が変る。心が変れば 態度が変る。態度が変れば 行動が変る。 行動が変れば 習慣が変る。習慣が変れば 人格が変る。人格が変れば 運命が変る。運命が変れば 人生が変る。」・・・と言うものがある。人生訓などとしても、よく語られるものであるが、そんなこと・・・と言われるかもしれないが、人間、常日頃から、「いい言葉」を聞き自らも使っていると、やがてその人の、行動や人格までも変化し、ひいては、家庭や、社会の安定にも通じるものと信じている。言葉・・・されど言葉である。日ごろから「いい言葉」に接したいものである。
(画像は、文化庁が企画し,「美しい日本語について語る会」が編集した本「美しい日本語のすすめ」)
参考:
文化庁ホームページ
http://www.bunka.go.jp/index.html
国語に関して(文化庁)
http://www.bunka.go.jp/1kokugo/frame.asp{0fl=list&id=1000001687&clc=1000000073{9.html
ことば・言葉・コトバ
http://www.ne.jp/asahi/kotoba/tomo/
JSTバーチャル科学館|ことばの算数
http://jvsc.jst.go.jp/find/word/fla/index.htm
[教えて!goo] 若者言葉について
38歳男 塾講師です。言葉の乱れよりも語い力の無さの方が問題です。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1359508
いい言葉ねっと
http://e-kotoba.net/index2.html  

世界電気通信の日

2005-05-17 | 記念日
今日(5月17日)は、「世界電気通信の日(World Telecommunication Day)」
国際電気通信連合(ITU)が1968(昭和43)年に制定。国際デーの一つ。日本では日本ITU協会 が実施している。
1865年、ITUの前身である万国電信連合が発足した。1932年に、1906年発足の国際無線電信連合と統合して現在のITUが発足、1947年に国連の専門機関となった。世界中の国と、より速く、より正確に連絡をとる手段としての電気通信の普及と理解を深める日。
インターネットの歴史は、まだ、1969年に米国(アメリカ)の国防総省高等研究計画局が、軍事目的で開始したARPAnet(アーパネット)から始まったと言われているが、その後30数年たった今、インターネットは世界規模のネットワークとなり、また、技術開発も進み、利用者数も急速に拡大している。
2002年末で、世界人口の約10人に1人がインターネットを使っており、1995年から2002年7年間では15倍にも増加している。また、日本では、2003(平成15)年末で、7,730万人、人口の60.6%、5人に3人がインターネットを使っていることになり、その後も年々凄い勢いで増えているという。
今や、情報化の時代と言われるが、「情報社会」への移行に必要なコンピュータやネットワークなど「情報インフラ」の発達はここ数年で目を見張るものがある。特に、携帯電話などの「モバイル」の普及により、どこにいても、電話をかけたり、ネットワークに接続したり出来るようになった。
そして、今、インターネット利用者のうち、8割がパソコン、6割が携帯電話などからアクセスしており、パソコン利用者の場合は、「電子メール」、「商品・サービス等の情報検索」、「ニュース等の情報入手」、「商品・サービスの購入」の順で利用、携帯利用者の場合は、「電子メール」「音楽のダウンロード・視聴」「画像のダウンロード」「ニュース等の情報入手」となっているようだ。最近では「ユビキタス」コンピューティングの研究や実験が盛んに行われており、将来は社会のさまざまなものに小さなコンピュータが埋めこまれて非常に便利な社会になると言われている。たとえば、外出先で買物しているときに、家の冷蔵庫の中のものが分ったり、家の様子が分り消し忘れの電気を外出先から消せるなどなど、非常に便利になるだろう。
そういえば、昔、故星新一 の「ショートショート」を読んだときのことを思い出す。短編小説より短い10枚以下の枚数で物語を構築するというジャンルで、凝縮された面白さが魅力であったが、彼は、日本ではじめてSFというジャンルを確立した人でもある。そのショートショート中に、外出先から、誰も居ない無人の家へ帰ってくると、「お帰りなさい」と声を出して迎えてくれるなど、家の中に一人でいても次々と色々な機器類が話しかけてきてうんざりとした・・と言った内容のものがあったのを思い出した。
既に、我が家でもお風呂にお湯が入るとお湯が入りましたと教えてくれるし、温度が変れば温度が変りましたとしゃべる。今家電売り場で売っている炊飯器にはお湯が沸くとお湯が沸きましたと教えてくれるし、冷蔵庫もドアが少しでも開いているとその旨しゃべって教えてくれる・・・。星新一のショートショートは何十年前に読んだのだろう。その時は、笑って読んでいたことが、現実の世界になろうとしている。きっと、星新一じゃ~ないけれど、便利ではあるが、うるさくってしようのない時代になるのかも知れない。
しかし、これからも情報インフラがどんどん整備されていくことによって、私達の社会は豊かで便利なものになっていくことには間違いない。一方色々な問題も出てきている。一つは、情報を扱うための機器を操作出来なければ、いくら情報インフラが発達してもそれを有効に活用することができない。又、情報機器は様々なことを実現出来るようにする為に、新しい機能をどんどん増やすが、それと共に、操作方法もどんどん複雑になっていく傾向にある。社会が便利な方向に進めば進むほど、使い難いものが増えていくとしたら、それは本当の意味での豊かな社会ではなくなってしまう。特に、情報機器の操作に不慣れな高齢者や身体障害者にとって、これは非常に大きな問題だ。そして、もう一つの問題は、「情報を持つ者」と「情報を持たない者」との差が地球規模で拡大しており、今後の情報社会の発展とともに、この差がますます大きくると、「情報を持つ者」だけがどんどん豊かになり、逆に「情報を持たない者」はどんどん貧しくなる。そんな社会にはなって欲しくない。
ITUでは、インターネットの普及と同時に、このようなことにならないよう十分議論していって欲しい。
(画像は総務省HPのもの借用)
参考:
総務省ホームページ
http://www.soumu.go.jp/