今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

春夫忌

2005-05-06 | 人物
今日(5月6日)は「春夫忌」
詩人・小説家・評論家の佐藤春夫の1964(昭和39)年の忌日。
佐藤春夫は、1892(明治25)年、和歌山県新宮町(現新宮市)に、医師であり文芸にも造詣の深い佐藤豊太郎の長男として生まれる。慶應義塾大学予科文学部中退。雑誌「三田文学」「スバル」などに詩歌を発表、1918(大正7)年、谷崎潤一郎の推挙により文壇に登場し、以降、『田園の憂鬱』『お絹とその兄弟』などの作品を次々に発表してたちまち新進流行作家となり、芥川龍之介と並んで時代を担う2大作家と目されるようになった。1960(昭和35)年に文化勲章受賞。1964(昭和39)年 5月 6日、自宅でラジオ録音中、心筋梗塞のため72歳で逝去。その著作は多様多彩で、詩歌(創作・翻訳)、小説、紀行文、戯曲、評伝、自伝、研究、随筆、評論、童話、民話取材のもの、外国児童文学翻訳・翻案などあらゆるジャンルにわたっているそうだが、正直、私は、余り、読んでいない。
佐藤春夫について、よく知っていることは、友人の小説家谷崎潤一郎の妻・千代に恋慕し、のちに譲りうけたなどということがあったこと。
佐藤春夫の友人である谷崎潤一郎の妻、千代(子)は温和な家庭的な人で、当時のあるべき女性像としては非の打ちどころのない人であったようで一女も生まれていたが、その当時、悪魔主義、芸術主義をもって目されていた谷崎はそこが不満だったらしい。そして、同居していた妻千代の妹せい子(性格は正反対とか)に惹かれて、彼女を映画女優に仕立て自ら映画製作に熱中するようになる。「アマチュア倶楽部」「雛祭りの夜」などにせい子を出演させた。佐藤春夫が東京小石川にあった谷崎潤一郎の家を訪ねるようになった頃(大正6年)、夫婦仲は完全に冷え込んでいた。佐藤はそのような千代に同情を寄せ、しだいに同情は恋心へと変わっていった。又、千代も春夫に惹かれるようになる。そして、一度は、谷崎が妻千代を佐藤に譲るという協約をしたものの土壇場になり、谷崎が翻意し、このことで佐藤と谷崎とは絶交した。これが1921(大正10)年の「小田原事件」であり、この後、二人はお互いに作品で激しく応酬しあったが佐藤の「秋刀魚の歌」」(詩集『我が一九二ニ年』所収)の詩は特に有名。
あはれ
秋風よ
情あらば伝えてよ
― 男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食ひて
思いにふける と。
・・・(中簡略)・・
あはれ、人に捨てられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
愛うすき父を持ちし女の児は
小さき箸をあやつりなやみつつ
・・・(略)・・・
これは、長い詩の冒頭部分であるが、二人が交際を絶ち、佐藤が神経症となって、郷里に引き込んでしまったとき書き綴ったものだという。佐藤の夫人への心境が伝わってくる。
しかし、ご互いに深く認め合う文学の友であった二人は1926年(大正15)年快く和解し、谷崎も「知人の愛」「蓼喰う蟲」以降昭和の名作を続々出すようになり、「蓼食う蟲」ではこの間の事情がよく描かれている。
1923(大正12)年、箱根で関東大震災に遭い、一旦神戸の芦屋へ逃れ、10,11月京都へ移住。翌年、兵庫県本山村北畑(現在の神戸市東灘区本山北町)へ転居、関西定住が始まるが、その後、谷崎は1927(昭和2)年に根津家へ嫁いでいた松子夫人と出逢い心を惹かれるようになる。又、佐藤も妻と離婚したのを機に、再び谷崎は佐藤に千代を譲ろうと考え佐藤も、そして、千代夫人もこれを受け入れ、前代未聞の三名連名の挨拶状を友人知己に送り、これが公表され、世間を驚愕させた(昭和5年8月)。これが文学史上有名な「夫人譲渡事件」である。
この1930(昭和5)年当時は、エロ・グロ・ナンセンスの時代であった。関東大震災後日本に流れ込んできた西洋モダニズムは自由を謳歌する開放感があったが、かたちを変えて氾濫したエログロナンセンスからは、明るさは消え、もはや馬鹿騒ぎだけものとなった背景には不景気と軍国主義の台頭と太平洋戦争へと向かっての暗い時代に押しつぶされる直前のやけくその空騒ぎであったかもしれないという。性風俗、猟奇物雑誌も1927(昭和2)年頃から増え、1930(昭和5)年頃からピークに達し、発禁処分の雑誌、出版物も多かった時代である。
谷崎潤一郎は常に「芸術かエロスか」との波紋を呼びつづけた巨匠であり、官能的な作品群で時代時代の文壇に大きな反響を捲き起こし続けた作家であるがその代表作の一つ「痴人の愛」は、谷崎が1924 (大正13 )年、神戸へ住むようになって発行したものであるが、これは、女優葉山三千子(妻千代子の妹せい子)をモデルに書いたものであり、主人公ナオミの奔放な生き方を描いている。
しかし、「細君譲渡」などと言うもの、今の時代であれば、男の非常識な行為そのものといった感であるが、当時は、むしろ、二人の作家よりも「譲渡」を受け入れた千代への避難が強かったと言う。今なら、侮辱罪で訴えられるだろうね。
(画像は佐藤春夫 『秋刀魚の歌』 の歌碑。JR紀伊勝浦の駅前にあり)
参考:
新宮市立佐藤春夫記念館
http://www.rifnet.or.jp/~haruokan/index.html
谷崎潤一郎記念館
http://www.ashiya-web.or.jp/tanizaki/
読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」  
1930/08/18   谷崎潤一郎、佐藤春夫に妻を譲る(p43)
http://www.c20.jp/text/ys_20sei.html
詩人 佐藤春夫“ 佐藤春夫の恋 ”
http://www.shigin.com/sato_haru/haruo.htm
谷崎潤一郎:蓼喰う虫 ・痴人の愛など
http://www.m-net.ne.jp/~h-ochi/Critique/Tanizaki/Tanizaki_Frame.html
谷崎潤一郎と映画(大正活映について)
http://www.shokoku.ac.jp/~nakazawa/tanizaki.html

こどもの日・端午の節供

2005-05-05 | 記念日
今日(5月5日)は「こどもの日」(Children's Day)
1948(昭和23)年7月公布・施行の祝日法によって制定された。
国民の祝日に関する法律(祝日法)では「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」ことを趣旨としている。この日が端午の節句であることに因む。端午というのは本来、午の月の午の日。新暦で言うと6月頃の行事であったが、午(ご)と五(ご)の音が同じなので、毎月5日を指すようになり、やがて5月5日のことになったとも伝えられている。
端午の節供は五節供の一つで、元は中国から伝わった病気災厄を祓う行事であった。邪を祓うとされる菖蒲(ショウブ)や蓬(ヨモギ)を摘み、家や門に飾り、屋根に掛けたり身につけたりする。本場中国においては既に「楚辞」に歌われているというので少なくても2400年以上昔から行われていたようだ。
日本における端午の節供の記録は、日本書紀・推古十九年(611年)五月五日に「薬猟りす」と言う記述が有るのが最初だそうで、ここでいう「薬」は鹿の若角のことだそうだ。これは男性の仕事で、一方女性は、野原で薬草を摘むと言うことになっていたようであり、万葉集に名高い、額田王と大海人皇子の有名な相聞歌も、5月5日の薬草摘みのときに詠まれたものである。
茜草さす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る(額田王)
紫草のにほへる妹を憎くあらば 人嬬故に吾恋ひめやも(大海皇太子)
そして、日本の宮廷では、さまざまな行事が催され、厄よけの菖蒲をかざり、皇族や臣下の人たちには蓬(よもぎ)などの薬草を配り、また病気や災いをもたらすとされる悪鬼を退治する意味で、馬から弓を射る儀式もおこなわれたようである。これが、武家の世になると、武家では流鏑馬、民間では、二手にわかれて石を投げ合う印地打(いんじうち)などが行われていた。又、菖蒲は、尚武に通じるといって男の節句と考えるようになり、幟(のぼり)や兜、武者人形などを飾って祝うようになったようだ。
しかし、端午の節句が長男優先の武家社会に一般的であるのに対して、農村では、田植えに備えての物忌みを強調する「女の家」の民族的な面にむしろ特徴があったと考えられている。これは、田植えが始まる前に、身を清めて、豊作を祈った上で「田植え」をはじめるため、菖蒲と蓬で屋根を葺いた「女の家」と呼ぶ小屋を造って女性たちが忌みごもりしたものである。田植えにおける主役は女性で、「実りを生み出す」作業は「子を産む」性である女性でなければならないと言う発想からきたもののようだ。元々は女性のための節供だった端午の節供が「男の子の節供」に変化した理由は、武家社会になってからのようだ。
中国から来た端午の節供も、この様な古くから日本に存在した行事と結びついたため、容易に定着したものと考えられており、このような成り立ちから見ると、端午の節供も元々は、3月3日の上巳(じょうし・雛祭り)と同様に女性のための節供だったともいえるようである。上巳の節句(雛祭り)も、都市生活を営む武家や町人の行事として定着したが、農村では、山遊びや浜遊びのような忌篭(いみごも)りによる祓いのいみが強調されたものだったようである。(朝日百科・日本の歴史より)
現在のように祝日になったのは終戦後の祝日法が出来てからであるが、このとき日本政府は新しい祝日を作るために国民に調査を行った結果、3月3日は女の子の節句、5月5日は男の子の節句として祝日にする動きがあったようだが、最終的には男女に関係なく、5月5日を「こどもの日」として祝日とすることになった。「こどもの日」の趣旨には、こどもの日なのに「母に感謝する」という一文がありなぜかと思っていたのだが、これは先に述べたようなことの名残からであろうか・・・。
「柱のきずは一昨年の五月五日の背くらべ・・・・」これは、唱歌「せいくらべ」の歌詞であるが、私なども、子供の頃、柱に傷をつけて、去年からの成長振りを測っていたが、昔は、親の方が子供の身長をこんなことして測っていた。この頃は皆ずいぶんとおおらかだったね~。こまかいこと、ごたごた言わなかったもの。今の、親なら柱に傷つけて何してるの・・」と目を吊り上げて怒るだろうね。
それと、端午の節句では、粽(ちまき)や柏餅を食べたよね~。粽は、中国から渡来したものだが、柏餅は日本独特のもので、歴史に登場したのは、寛永年間(1624~1644)頃のようだ。
「守貞漫稿」(もりさだまんこう)」の5月5日の項で「男児生まれて初の端午には粽を配り、二年目よりは柏餅を贈る・・・江戸にては初年より柏餅を贈る」という風習が記されている。男児のいる家では、節句の祝いとして親戚や知人に配るが、京阪地域では、初節句では粽を、2年目からは柏餅を用いた。
(画像は鳥居清長「子宝五節遊」サントリー美術館蔵。朝日百科・日本の歴史より)
参考:
元日(1月1日)は、宮中行事「元日節会」に由来。「平安京のお正月」
http://www.heiankyo.co.jp/choice/radio/sousi/02a.html
端午の節句~由来といわれ
http://www.kougetsu.co.jp/sitteru-tango.htm


ラムネの日

2005-05-04 | 記念日
1616年の今日(5月4日)は「ラムネの日」
1872(明治5)年、東京の実業家・千葉勝五郎が、ラムネの製造販売の許可を取得した日だそうだ。
全国清涼飲料協同組合連合会HPの、「ラムネの歴史」では、「日本清涼飲料史」によると、わが国に初めて炭酸飲料(ラムネの元祖)がやって来たのは、あのペリーが浦賀に来航した時(1853年=嘉永6年)に、艦上で交渉に当たった奉行たちにラムネが振る舞われた時といわれている。このペリー来航の際には、ラムネの栓を開けたときのポン!という音を銃声と勘違いした江戸幕府の役人たちが、いっせいに刀の柄に手を掛けたという、いかにも開国を象徴するようなエピソードも伝えられている。ちなみに日本では、1865(慶応元)年、長崎の藤瀬半兵衛という人物が「レモン水」の名で売り出したと伝えられている。しかし「レモン水」という名は広まらず、その後に“レモネード”がなまった『ラムネ』の呼び名が一般化した。・・・とあり、”ラムネの雑学”では、5月4日はラムネの日とし、日本で初めてレモン水(レモネード)が製造されたのは、1865年(慶応元年)に長崎の藤瀬半兵衛という人によるという紹介はしたが、ラムネの製造販売をはじめたのは、東京の千葉勝五郎という人物で、1872年(明治5年)の5月4日とも言われている。ここから5月4日は「ラムネの日」とされているが、長崎の藤瀬半兵衛が初めて製造販売した日がはっきりしていれば、その日がラムネの日になったかもしれない。・・・と理(ことわり)を入れている。
上記のようにラムネは幕末、外国からもたらされた清涼飲料で、ペリーが来航した際に紹介されたという説、長崎に来航したイギリスの商船によって伝えられた説などがあるようであり、語源については、英語の「レモネード」がなまってラムネとなったと言うのが通説らしいが、炭酸で泡が立つことから、明治期には「沸騰水」などとも呼ばれていたそうだ。
このラムネの製造販売について、神戸では、旧外国人居留地18番館にあった「シム商会」のA・C・シム(アレクサンダー・キャメロン・シム)が、日本で始めてラムネを製造し販売したといわれている。彼は、ラムネのラベルに工夫を凝らし「18番館」のマークを入れて販売し、「18番の飲み物」というニックネームで親しまれ、十八番と言えばラムネのことを言っていたと言う。
明治19年、コレラが全国的に流行すると、「炭酸水を飲めばコレラにかからない」といううわさで飛ぶように売れ、品切れが続出したそうだ。現在ではビー玉入りのラムネ瓶が当たり前だが、初期のころはコルク栓を使用していたそうだ。明治20年代以降、炭酸の力で効率よく密封できる玉入り瓶がイギリスから導入されたという。
シム(化学者・薬剤師)は、スコットランド人。K・R・A・C(神戸レガッタ・アンド・アスレチック倶楽部)の創設者でもあり、東遊園地にA・C・シムの記念碑がある。記念碑によれば、1870(明治3)年の来日から1900(明治33)年に死去するまで、神戸の青少年のスポーツ振興 だけでなく居留地共同社会のために大いに貢献した。義勇消防隊の編成及びその隊長を永年に渡って勤めた他道路の建設・改修など公共事業の指揮・監督の任に当たり、全力を尽くした。また、1891(明治24)年の岐阜大地震など各地の災害を聞くと自ら有志をつのり、外国人社会からの救援物資を現地に運んだと言われている。彼は居留地返還の際の返還証書の署名者でもあるなど神戸では歴史に名を残す人物である。日本初のものについては、どこの地域でも、ご当地を中心に語っており、特に、神戸と横浜は、ご当地自慢が多いですよね。こんな話は、余り、どちらが先・・・なんて、野暮な詮索をせず、そこの地域の人の単なるご当地自慢として聞き流すのが賢明かと・・・。(*^.^*)
ところで、子供の頃、あの薄緑色の透明なラムネの壜の中に、壜の口より大きいガラス球が入っているのを不思議に思ったことはありませんか?。それと、子供の頃はビー玉遊びをよくしましたよね~。関西では、あのビー玉をラムネの玉によく似ているので「ラムネ」とも言ってましたよ。神戸のメリケンパークには「マーブリング・キッズ像」と言うのがあります。この銅像は、神戸港とロッテルダム港の姉妹港提携20周年を記念して、ロッテルダム港より送られたもので、 2人の子供が遊びに興じているビー球はオランダから最初に神戸に伝えられたものと言うことです。
(画像は、神戸・メリケンパークの「マーブリング・キッズ像」)
参考:
ビー玉(ラムネ玉)
http://homepage3.nifty.com/yuuyuu-sya/collect/ramunedama01.htm
ラムネのビー玉どう入れる?
http://homepage2.nifty.com/osiete/s770.htm
見聞録「ハイカラな18番の飲み物」~CityDO!
http://www.citydo.com/prf/hyogo/area_hanshin/kenbun/discover/kobe009.html
シムの墓及び記念碑は以下で見れる。
http://opencage.info/pics/keyword_192.asp

「リカちゃん」の誕生日

2005-05-03 | 記念日
今日(5月3日)は、タカラから発売されている人形「リカちゃん」の誕生日だそうで、タカラ「リカちゃん」のHPを見ると、1967年の今日、おしゃれなファッションで初登場し、女の子の間で大流行、1972年に2代目、1982年に3代目、1987年に4代目が登場し今も大流行。今までより身長が1センチメートル伸びたそうだ。
「リカちゃん」は牧美也子の漫画キャラクターをもとに作られ、1967(昭和42)年7月に発売された。5月3日生まれの小学5年生で、父親は海外へ単身赴任中、母親はファッションデザイナー。正式な名前は香山リカ。あかるくてちょっぴりあわてんぼうな小学5年生。
今日が誕生日で、身長は、142センチメートル、体重は34キログラム、星座はおうし座。好きな色はしろとピンクで、好きなお花はバラ、おかし作りが大好き。といった設定になっている。
私の孫娘は、4月の中旬が誕生日。今まで、女の子の癖にお人形が嫌いな子だったが、幼稚園へ行くようになってから、同じ幼稚園の子と家へ行き来するようになったからか、最近は、お人形にも興味を持つようになったらしい。先月月始めに、家人が電話で誕生日に何が欲しいと孫娘に聞くと孫が「りかちゃんのファミリーカー」が欲しい。と言ったと言う。リカちゃんに「ファミリーカー」などあるのと聞くとあると言う。それで「ハイハイ分ったよ・・・」と言って電話を切ったらしいが、後で、息子から電話がかかってきて、リカちゃんに「ファミリーカー」などないだろうから、何かの勘違いだと思うので調べて電話するまで買いに行かないでくれと言ってきた。そして、数日後、やっぱり、孫の言っているものがある。友達と遊んでいるうちにリカチャンなどの人形にも興味を持つようになったらしいとのこと。それで、トイザラスに買いに行くとあった。しかし、「リカちゃんのファミリーカー」は、キャンピングカーのようなセットもので、それを買ったが、人形や洋服は別売りになっている。仕方がないから人形や洋服まで買うと結構高いものになってしまった。今まで男の子がするような遊びにばかり興味を持っていた女の子が女の子らしくお人形で遊ぶんなら良いではないか・・・といって買ったが、玩具メーカーも商売が上手だね~。人形を買うと次々その着せ替え用の衣装やこういった付属品を売り出す。
友達同士で遊ぼうと思うと、相手が持っておれば自分も違った衣装などが欲しくなるだろうからね~。
ま、孫との付き合いも欲しいものを買ってもらえるうちかも知れないから、お人形代ぐらい安いものだけれどもねヾ(´▽`;)ゝエヘヘ        (画像は「リカちゃん」タカラHPより)     



郵便貯金の日,郵便貯金創業記念日

2005-05-02 | 記念日
今日(5月2日)は「郵便貯金の日,郵便貯金創業記念日」
郵政省(現在の日本郵政公社)が1950(昭和25)年に制定。 東京府下の郵便局と横浜郵便局で郵便貯金の業務を開始した日。
日本の近代郵便制度の創設者は前島 密。1871(明治4)年、日本の郵便制度スタート。駅逓頭(郵政長官)となる。わが国の郵便貯金は、1875(明治8)年5月2日、東京府下に18ヵ所、横浜に1ヵ所 の計19ヵ所に貯金預所を創設し、貯金の業務を開始した。イギリスの貯金制 度(1861年施行)を参考にして、制度や規則を制定し、創業したもので、イギリス、ベルギー についで世界で3番目に実施されたものだそうである。
よく、「預金」とか「貯金」とか言われるが、その、違いは保護制度と取扱機関の違いによるもので、銀行や信金・信組など、「預金保護制度」で保護されているところが扱うものを「預金」と呼び、企業や個人経営者などからお金を預かるのを目的として始まっており、郵便貯金法と農水産業協同組合貯金保険制度で保護される郵便局や農協・漁協で扱うものを「貯金」と呼んでいる。「貯金」は個人がお金を貯めることを目的として始められたこともあり、我々庶民には、昔から、預金などよりもずっと、「貯金」という言葉の方に馴染みがあるのではないか。
今、そのなじみ深い郵便貯金制度が、郵政事業の民営化で話題になっている。明治以来、全国津々浦々の郵便局が、我々庶民の小口貯蓄の受け皿となってきたが、、気がついてみるとその貯蓄額は、民間の銀行の倍にもなる巨額となり、「世界最大の国立銀行」となっていた。
集められた巨額の資金は、戦前は、軍事目的に使用されたり、戦後は、財政投融資の財源となって公共投資に向けられたり、また、近年は、国の発行する赤字国債の購入資金などにあてられている。
小泉内閣は、この郵貯や簡保からの資金が、無駄な公共投資等に向けられていることが今日の財政赤字の原因となっていることから、郵政3事業(郵便業務・郵便貯金・簡易保険)の民営化を進めようとしているが、同じ自民党内の反対派の強い抵抗もあり、民営化案は反対派の意見を採りれたことにより次第に、当初案とは異なったわけのわからないものになっていっている。TVでの賛成派、反対派双方の言い分を聞いていても、最近は、民営化をするか、それを潰すか・・といった何か、自分達の政治的な道具に使われているようであり、不愉快で仕方がない。
民間金融機関は、以前より、税金の免除などの「隠れた補助金」のある国営の「郵便貯金」が、民間の金融機関の市場形成を阻害していると批判している。確かに、そのこと自体は、金融機関のいっているとおりであるが、しかし、その金融機関は、担保を取って金を貸すしか能力がなく、その取った担保が、バブルがはじけて資産価値が下がり、今は、預金にまともな利息を払うことも出来ず、何時つぶれてもおかしくない銀行が、国民の税金を投入されやっと生き残っているようなものである。一方、郵貯は、確かに、預ける側の庶民にとっては便利な機関ではあるが、ここも、銀行と同じで、とてつもない額のお金を預かっても、その運用をする能力はなく、政府の財投融資に使ってもらうぐらいしか出来ないのである。今日本の国の国家債務は2002年に約700兆円もあるといい、これは言い換えれれば、国民が国に借金しているのと同じことになるので、今後、赤ちゃんも1人として、国民一人当たり580万円を国に税金で返さなければならないことになる。つまり、子供2人と夫婦の4人家族なら、今、自分達の持っている預貯金から2200万円位を国に収めなければならないということである。世界でも、これだけの赤字財政の国はないだろう。これ以上の財政赤字を作ってどうするか?確かに、便利な郵便貯金では、あるが、そう言って、みんなが貯金をしても、その貯金は、又、財投や赤字国債を購入するために使われてはたまらない。この赤字を解消しようとしても、これからの少子高齢化の時代に、税収が大幅に伸びるとは思えず、結局は、すごい税金の負担となるか、もしくは、デノミでしか解決できなくなるのではないだろうか・・・。こんな、大変なことを改革してゆかなくてはならないのに、いま、改革推進派と反対派のやり取りの中に見えてくるものは、郵政事業のもとにある巨額の個人貯蓄資金の争奪であり、また郵政民営化株の売出によって、巨額の株式売却代金を確保したい政府と財務省、それと、全国津々浦々にある郵便局、また、郵政官僚の票を当てにして、小泉潰しをし、その後の選挙を有利にしようとしている野心家達との戦いになっているとしか見えてこない。しかし、このことは結局、国民の政治・経済音痴の結果が招いたともいえる。昔から、お金はお足と言う。お金を貯めても預貯金などで、そこにたまったまま、動かなければ、経済は活性化しない。しかし、今大手の民間企業は、銀行などからお金を借りようとしない。そんなお金はマーケットから調達する。銀行や郵貯は結局、お金を集めても運用能力がないため政府の発行する赤字国債を買うしか仕方がなくなるのである。自由主義経済では、個人の資金がマーケットへ流れ、市場で生きたお金として使われない限り市場経済は活性化しないだろう。今、日本のお金は想像もできないくらい大暴落するかも知れない危険を含んでいることを頭の隅にはとどめておかなければならないだろう。
(画像は、貯金預金通帳(明治8年) 最初に定められた貯金通帳で、 用紙は半紙。日本郵政公社 郵政資料館 より)
参考:
日本郵政公社 郵政資料館 所蔵品一覧
http://www.teipark.jp/report_yusei.html
郵便貯金ホームページ
http://www.yu-cho.japanpost.jp/
破綻 Collapse
http://www.ne.jp/asahi/oasis/inoue-h/about/hatan.html