今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

サーカスの日

2005-10-26 | 記念日
今日(10月26日)は「サーカスの日」。
今日の記念日などを調べると、1871(明治4)年、東京・九段でフランスの「スリエサーカス」による日本初のサーカス興業が行われた。として、10月26日の今日が、「サーカスの日」とされている。
しかし、よく調べてみると、1864(元治元)年に、アメリカのリズリー・サーカスが初めて横浜に来日しており、2回目に来たのが、1871(明治4)年のフランスのスリエ曲馬団。3回目の来日が、1886(明治19)年にイタリアからきたチャリネ曲馬団のようである。このチャリネ曲馬団の猛獣を含むサーカス興行が一大センセーションを巻き起こした。このチャリネ曲馬団は1889(明治22)年にも再度来日し、西洋曲馬といえばチャリネと言わしめるほどの大きな反響を残し、以降はサーカスをチャリネと呼ぶ人もあったといわれている。だから、なぜ、2回目に来日のものがサーカスの日に選ばれたのかは知らないが、ここは、そのようなことは詮索しないことにしよう。
日本のサーカスの源流は、江戸時代に盛んに興業された軽業や曲馬などの見世物芸であるが、日本に、近代サーカスが紹介され、明治以降、曲馬・馬術のような類から次第にサーカスの形態に近づいていき、近代サーカスの芽が1887(明治20)年前後にでてきた。
そして、1899(明治32)年、日本でもサーカスの一座と呼べる曲馬、軽業、動物の芸を合体した曲馬団「日本チャリネ一座」が登場し多様な演目で人気を博した。これ以降、全国巡業をするところも出てきて、明治末から大正にかけて規模の大きな一座が幾つか出きた。これらの曲馬団は、明治中期から新しい見世物の雄として脚光を浴びていたが、大正期に入って活動写真、電気仕掛の見世物などの娯楽が増えたことにより少しずつかげりが見え始めていた。
そのような時、1933年(昭和8)年、東京・芝浦で開かれた「万国婦人子供博覧会」を記念して、団員150名、猛獣182頭を引き連れた、世界一の動物調教を誇るドイツのハーゲンベック・サーカスが来日し、日本国中で異常な人気を得、これをきっかけに日本の曲馬団も、全国的にサーカスと名乗るようになり、サーカスは庶民の娯楽として定着していった。又、このハーゲンベック・サーカスの宣伝のために作られたのが、『サーカスの唄』で、この歌は、古賀政男の快調なメロディと西條八十のしゃれたフレーズによって大ヒットし、ハーゲンベック・サーカスが帰ったあとも、ジンタとして長く使われた。ジンタは、明治末期から大正時代にかけて、サーカスや映画館の客寄せ、広告宣伝などに使われた通俗的な吹奏楽で、ジンタッタ、ジンタッタと聞こえるところから、こう呼ばれるようになったという。(サーカスの歌より)
黄金期を迎えたサーカスも、太平洋戦争が始まると芸人も徴兵され、猛獣は、治安などのため毒殺または銃殺され、残った者達で細々と慰問興行を行っていた。そして、戦後、サーカスは再建にのり出し徐々に活気を取り戻していったが、1948(昭和23)年児童福祉法が制定され、児童を「曲馬曲芸」で使用する事が禁止され、年少期に芸を仕こまなければならないサーカスにとって、芸の後継者を育てる事が困難になり、サーカスのレベルは急速に下降していくと同時に、徐々に一座の数も減ってしまったそうである。
そう言えば、私が子供の頃、サーカスは大人気で、神戸でもよく興行があった。私も、サーカスは大好きで、テントを張り、団旗をはためかした小屋へ何度か見に行った記憶がある。そして、サーカスの映画も見たな~。1956(昭和31)年の米国映画「空中ブランコ」は、映画界に入る前、サーカスの芸人としてアクロバットをしていたバート・ランカスターが、スタントマンをほとんど使わずブランコのシーンを演じていた。又、1962(昭和37)年 頃、NHKの「世界のサーカス」というヨーロッパのサーカスを取材した番組もあった。この当時のサーカスでは、ソ連のボリショイ・サーカスが人気だったんじゃ~ないかな。皆わくわくして見ていたが、最近は、余り、サーカスは話題にならなくなったが、寂しいね~。
せめて、懐かしいサーカスのMIDIを2曲聴いてみる・・・?。
「サーカスの唄」作詞:西條八十、作曲:古賀政男、唄:松平 晃

もう一つのジンタ「美しき天然(天然の美)作詞 武鳥羽衣・作曲 田中穂積
(画像はサーカスのテント小屋)
参考:
日本のサーカス展 河合 勝 (愛知江南短期大学)
http://www.lib.city.ichinomiya.aichi.jp/infor/tenji17-3.htm

民間航空記念日

2005-10-25 | 記念日
今日10月25日は「民間航空記念日」
1951(昭和26)年、戦後最初の国内民間航空会社として設立された日本航空が、一番機の「もく星号」で東京~大阪~福岡間の運航を開始した。
戦後日本は、軍事技術の一切の開発保有を禁止され、航空技術に関しても軍事技術の一部ということで、民間の飛行機の保有・飛行も全て禁止されていた。そのような中で、戦後の民間航空再開のさきがけとして、日本航空の待望の一番機「もく星号」は、10月25日から東京ー大阪間1日2往復、東京ー大阪ー福岡間、東京ー大坂ー札幌間各1往復の運行を行い、6年ぶりに「日の丸」の翼が日本の空を飛んだ。日航が設立されたのは7月31日。資本金1億円。飛行機借り入れでノースウエスト航空と提携、使用機は3機、スチュワーデスは1300人の応募者の中から15人が採用された。
しかし日本人は飛行機に関われないことから、機体もパイロットもノースウェストからの借り物で、管制システムも全てアメリカが管理していた。
翌1952(昭和27)年4月9日、日本航空の東京発大坂経由福岡行きマーチン202型「もく星号」は、午前8時頃、豪雨の羽田空港から大坂へ向かったが、伊豆大島の三原山に激突し、乗員乗客37名が全員死亡した。事故当日、情報が錯綜し、一時海上への不時着水や全員救出が報じられるなどしたが、遺体と機体の残骸は翌10日朝になって発見された。
この事件は、当時日本の航空交通管制を担当していた米空軍が、調査の鍵となる事故機と管制官の交信記録テープなど事故に関する資料の一切の提示を拒否したため事故の解明がされないままとなった。その為米軍の演習に参加していた米軍機との空中衝突他さまざまな憶測が流れ社会の関心を集め、後、松本清張氏によって小説化もされた。この事件に関して、米軍がかたくなに証拠のテープの提出を拒否したことについて、裏に何か重大な問題が隠されているのではないかと言う疑惑を今に残している。運輸省の事故調査会はパイロットミスを濃厚に漂わせる報告書を残し、公式の事故調査を終えている。事故の証拠品提出拒否などと言うことは、今では考えられないことであるが、占領下にあった当時では、日本側になんら抵抗するすべがなかったのであろう。
その後、日本経済の成長と共に、時間と言うものが重要視されるようになり、他の交通機関よりもスピードに勝る飛行機はビジネスに、旅行にと大いに利用されるようになり、民間航空会社は急成長を遂げた。
だが、日本航空と言えば、今から丁度20年前の1985(昭和60)年8月12日の、「日本航空123便墜落事故」が思い起こされる。日航のジャンボ機が群馬県多野郡上野村の高天原山に墜落し、乗員全15名、乗客509名中505名の計520名が死亡するという大惨事を起こした。その中にはあの有名な歌手・坂本九などもいた。
この日航機が墜落した日、私が現役の頃勤めていた会社の東京本社では、重要な会議があり、役員をはじめ、重要なポストの部長クラス以上が全て参加していた。会社は、もともと、大阪が本社であり、東京へ本社を移して間もない頃であったため、出席者の多くは大阪方面から出席していた。そして、その人達の殆どは、なんと、墜落した日航機の同じ便に乗って帰ってくる予定であったのだ。しかし、幸いなことに当日の会議が長引いたため、全員が、予定の便をキャンセルし、その後の便に変更をしていたのである。もし、予定通りの便に乗っていたなら、会社の重要な幹部が半数以上も亡くなっていたことにもなり、会社の存続が危ぶまれたであろう。それ以降、会社では、部長職以上の幹部は、会議等で出かける際、同じ便には乗らず、必ず、違う便に分乗するようマニュアル化がなされた。
この事故から20年、たった今も、益々、飛行機は大勢の人たちに利用されるようになったが、同時に、日本経済のバブルもはじけ、景気の低迷する中、近年は外国の航空会社をも含めて、熾烈な乗客の獲得競争を展開するようになってきている。そして、そのようなコスト面での競争も影響してのことであろう、民間航空機の事故も相次いでいる。
今年は、JR西日本のスピードの出しすぎなどによる、列車転覆事故も発生しているが、空を飛ぶ航空機の墜落事故などは、列車以上の大惨事となる。十分に、配慮して欲しいものである。
飛行機に関するものでは、私のこのブログで、5月21日「リンドバーグ翼の日」9月20日「空の日』も採りあげた。興味のある人は見てください。
(画像は初フライト・日本航空のもく星号。写真は朝日クロニクルより)
参考:
「もく星号」事件の考察
http://www.kk.iij4u.or.jp/~isao9pw/moku.htm
日本の航空事故総覧
http://www004.upp.so-net.ne.jp/civil_aviation/cadb/disaster/disaster.htm





オリックスが初の日本一に輝いた日

2005-10-24 | 歴史
1996年(平成8年)の今日(10月24日)は、オリックスがセリーグの巨人を破り、球団創設8年目で、初の日本一に輝いた日である。
伝統の「阪急ブレーブス」を前身とする球団が、オリエント・リース(株)へ球団を譲渡、1988(昭和63年)年11月4日、 球団名を「オリックス・ブレーブス」に変更。
この年、3月に、神戸に、グリーンスタジアム神戸が完成している。1990(平成2)年11月1日からは「オリックス・ブルーウェーブ」に名称変更した。オリックスは、神戸のグリーンスタジアムを本拠にして、当初は、特に目立ったチームではなかったが、イチロー選手の成長と共に次第に力をつけてきた(1994年にはイチロー選手が年間200本安打を達成している)。しかし、本当に強くなったのは、その翌1995(平成3)年の劇的なパリーグ優勝をしてからである。
この優勝をした年・1995(平成3)年1月17日、オリックスの本拠地である神戸市は阪神淡路大震災で被災した。そして、6千人を越える犠牲者と4万人の負傷者、家屋被害約25万棟、45万世帯。大都市の直下型地震の恐ろしさをまざまざと見せ付けられた。この震災では、オリックスナインの大多数も同様に被災し、あのイチローも神戸市西区の合宿所で震災に遭遇している。交通網は遮断され、外部との連絡が全く取れない状態が暫く続いた。オリックスに就任して、2年目の仰木彬監督は地元の九州から震災後の1月27日にやっと神戸入りし、神戸市役所に義援金300万円を渡し「神戸のために必ず優勝する」と宣言した。そして、2月のキャンプの実施すら危ぶまれた中、逆境を乗り切り、キャッチフレーズ「がんばろうKOBE」のワッペンをユニホームの右袖につけた選手達は、復興を願う神戸の人々の応援を受け、その気持ちが乗り移ったかのように大活躍し、ついにこの年、念願のパ・リーグリ制覇を成し遂げ(オリックス初優勝)のである。惜しくも、日本シリーズはヤクルトに負けはしたが、この地元球団オリックスの活躍は、神戸市民に大きな希望と勇気をを与えてくれた。この年のシーズン中のオリックスの観客動員数は、関西のパ球団としては、史上最多の165万8000人を記録した。
そして、翌年の1996年も、神戸市民の応援を受け、大活躍したオリックスは、10月24日 とうとう、セリーグの巨人を地元グリーンスタジアムで破り、日本一に輝いた(4勝1敗)。イチロー選手も前年に続き大活躍、8月30日、猛打賞記録を達成、そして、3年連続MVP(パリーグ)にも選ばれている。勿論、シリーズの観客動員も前年を上回り、球団新の179万6千人 を数えている。震災で傷つき途方にくれていた神戸市民は、オリックスナインのプレーを通してどれほど勇気付けられたことであろうか。
しかし、その後、オリックスは低迷を続けている。本拠地のグリーンスタジアム神戸の名前も2003年4月から、ネーミングライツによりYahoo! BBスタジアムと名前を変え、昨年は、近鉄バファローズとの合併でオリックス・バファローズとなる。あれだけ強くて、魅力的だったオリックスが、なぜこんなことになってしまったのか?それは、オリックスの球団経営に問題があろう。チームの中心である、イチロー選手をはじめ、金のかかる選手はどんどんと他球団へ放出し、金をかけないからまともな補強も出来ていない。その為、著しく弱体化し、ファンも愛想をつかし、観客動員数も年々減少。
2000(平成8)年12月、イチロー選手(7年連続首位打者:日本プロ野球新記録)は、米シアトル・マリナーズへ移籍して以来目覚しい活躍をしている。 このイチロー選手は、今でも、神戸を第2の故郷として、神戸の街を愛してくれている。一時は、神戸市民を励まし勇気付けてくれ、神戸の市民球団とも思っていたオリックスは、球団経営も、合併後、神戸と大阪の両本拠制を三年間に限って認められ、大阪ドームとグリーンスタジオを交互に使いながら試合しており、神戸の球団なのか大阪の球団なのかわからないようなやり方をしている。もう、地元神戸の球団とはいえない。オリックスの今年(2005年)の成績は、勝率。.470%で、4位。オリックスと合併してこの成績である。一部抜けた選手で新しく出来たチーム楽天は、なんと、勝率.281%。最下位だが5位との差だけで25ゲーム差である。しかし、楽天の良いところは、弱いけれども、明確に仙台市をホームグラウンドとし、仙台市民から支持されていることだろう。
神戸市民にとっては、イチロー選手だけは、今でも神戸の地元出身選手と思い熱い応援をしている。今年のイチローは、周りの人に、夢の打率4割もと期待されていたのだが、さすがのイチローもそれが、重圧となったのか、成績は不振で、期待通りの打率は収められなかったものの、5年連続200本安打は達成した。さすがと言うべきか。
参考:
オリックス・バファローズ公式サイト
http://www.bluewave.co.jp/
ICHIRO 51
イチローに関することならなんでも。大リーグ情報も確認することができます。
http://www.bluewave.nu/ichiro51/
イチローTODAY
あのイチローの活躍をすぐに確認することができます。またイチローNEWSもありイチローのすべてを知ることができます
http://macamp.site.ne.jp/shaka/ichiro/

シートンの忌日

2005-10-23 | 人物
今日(10月23日)は「シートン」の忌日
1946年10月23日は シートン、( 英・博物学者,作家<86歳>)の忌日。
シートンの名前は、日本では『動物記』の著者としてよく知られており、子どものころに「オオカミ王ロボ」(原題は『カランポーの王者ロボ』)を本で読んだり、映画を観た人は多いのではないか。シートン (Ernest Thompson Seton )は、1860年、イギリスのサウス・シールズ生まれ、6歳でカナダ・オンタリオ州に移住したが,トロント周辺の当時の未開の白然が彼の後年に大きな影響を与えたようだ。16歳で画家を目指し独りイギリスへ渡る。1881年、ロイヤル・アカデミーの特別奨学生となり絵を学ぶ。1892年より5年間マニトバ州政府の博物学者となるが,その間ニューヨーク,パリで挿絵や絵画の修行をつみ,博物学専門書2冊を刊行する。そして1896年より米国に永住。38歳の時に20冊を優にこえる動物物語をまとめた本を出版、その本『私が知っている野生動物』がベストセラーとなった。シートンは、博物学者・挿絵画家としての仕事に加え、動物記の出版の他、米国ボーイスカウトの育成とインディアンを手本とした山林生活法に関する10数冊の手引書の出版もしている。
動物の観察記では、有名なファーブルの「昆虫記」も有名であるが、シートンの「動物記」は、アメリカの荒野を舞台に活動した動物記だけに、「昆虫記」とは違う壮大な動物記である。そして、動物を人間のように描いている。オオカミ王ロボとか、捕らわれるより死の自由を選び谷に飛び込み自殺した野生の名馬(だく足の野生馬=マスタング)の話とか、多くのヒーローの物語がある。それらのヒーローの多くは悲劇のヒーローであったが、雄大な自然の中で、実に誇り高い姿で生きていた。シートンの動物記「私が知っている野生動物」の中で、シートンは言っている「これらの物語の結末がすべて悲劇で終わっているということは、物語が真実を語ったものだという、何よりの証拠である。なぜなら野生動物の最後は常に悲劇的な終局を迎えるものだからである。 」・・・と。 
シートンの出世作「動物記」。この『動物記』というタイトルは、内山賢次がわが国に紹介した時につけたものだそうだが、その少年少女向きシリーズ物の第1巻のタイトルとなり、冒頭を飾っていたのが『オオカミ王ロボ』である。ロボ一味が農場を荒らし回って被害が大きく、莫大な懸賞金がかけられ、各地からオオカミ狩りの名人が続々とやってくるが、頭が良く力も強いロボは人間が考えたどんな罠にも、かからなかった。そして、ついにシートン自身がロボとの戦いに乗り出す。シートンも毒えさや罠を使ってロボと対決するが、最初は失敗が続く。しかし、動物の習性を知っているシートンは、先ず妻のオオカミ「ブランカ」を捕らえることに成功する。その悲しみに怒り狂ったロボは、妻を助けようとして、とうとう罠にかかり捕らえられてしまうのである。
捕らえられたロボは、もう助からないと悟ったかのように決して吠えたりもしなかった。そして、人間が与えた水や肉には見むきもせず、谷の方をじっと見つめたまま、オオカミ王らしく、静かに死んでいった。迷惑を被っている牧場の人達のことを考えると、めでたい勝利ではあるものの、可愛そうな気もするよね~。この作品だけに、作者のシートン自身が登場するが、他の『動物記』には、登場していない。
最近、山に餌の胡桃がなくなった熊が人里へ出てくる話が、話題になっている。神戸のような都市部でもで、六甲山系に住んでいる多くのイノシシが食べるものを求めて街に出てきて住民が襲われたりもしている。今、地球上は、人間の都合による環境破壊により、ますます、動物が生きていく上で必要な自然環境が失われつつある。そのため、野生の生き物と人との生きた付き合いが出来なくなってきているのだが・・・。今日のような日に、シートンの動物記などを再読して、自然や環境、そして命の大切さなどの問題を考え直すのも良いのではないだろうか・・。
(画像はシートン動物記(1)出版社: 集英社)
参考:
学習漫画 世界の伝記・シートン 「コランポーの王」
http://kids.shueisha.co.jp/world/books/preview/040201book/p01.html
芦屋市立図書館に保管されているシートンに関する蔵書
シートンに関する本
散歩道』資料館
http://www2.odn.ne.jp/gauche/siryou/index.html
内山賢次の訳業
http://www.jscl.internet.ne.jp/jscl/record/regular/regular_23.html
内山賢次の翻訳意識
http://www.jscl.internet.ne.jp/jscl/record/regular/regular_31.html


平安遷都の日

2005-10-22 | 記念日
今日10月22日は「平安遷都の日」
794(延暦13)年、桓武天皇(山部親王 やまべのみこ )が長岡京から山背国葛城郡宇太村の新京に移った。「平安京」と命名されたのは、その年の11月8日だった。毎年、長岡京から平安京に遷都されたこの日に、葵祭、祇園祭と並ぶ京都三大祭りの一つである、平安神宮(左京区岡崎)の祭礼、時代祭が行われる。平安神宮は、明治維新によって著しい衰退を見せた京都の町おこし事業の集大成として、1895(明治28)年、平安遷都千百年紀念祭の時に創建され、時代祭も、明治28年のこの時より行われている。平安神宮は、平安遷都を敢行した桓武天皇と平安最後の孝明天皇が祭神として祭られている。建造物は、平安京大内裏の朝堂院を模して作られており、碧の瓦と朱塗りの楼門と白砂のコントラストが見事な景観を作りだしている。時代祭りでは、明治勤王隊を先頭に平安時代までを遡る時代毎の衣装を着た2000人もの行列が建礼門前を出発し、堺町御門から市中に出て行き、平安神宮まで巡行する。
桓武天皇は、平安京へ遷都の前に、延暦三年(784)都を平城京から、山背国乙訓郡(おとくにぐん)の長岡京に移している。しかしこの長岡京はたったの10年で放棄され、この地より東北の、鴨川と桂川の二川に挟まれた同国葛野郡(かどのぐん)に都(平安京)が移されることになった。長岡京は、最近の発掘調査でも、未完の都ではなかったことが確認されており、なぜ、その都を僅かな期間で捨てたのかは、多くの疑問を残すところとなっているようである。原因としては、早良親王(さわらのみこ)の御霊(怨霊)による政情不安や洪水などの自然災害が考えられてはいるが、正確なところはわかっておらず、ここでの論は省略する。
平安京は、中国の都である洛陽や長安などの都城をまねて造られたもので、その規模は、「延喜式」の記事によると、全体は、東西1508丈(約4.5km)、南北1753丈(約5.3km)の長方形をしており、大路・小路が規則正しく東西・南北に走っている。碁盤の目状に整然と道路によって庁舎や宅地が区画されている人工の計画都市であった。
平安京は東に鴨川(青龍)、西に東海道(白虎)、北に船岡山(玄武)、南に巨椋池(朱雀)があり、風水的にも理想の地なのだそうである。
1200年を超える歴史を持つ都市・京都は、世界でも有数の長い歴史を持つ都市である。難波京、藤原京、平城京、長岡京を経て京都はに政治の中心が移ってきた。しかし、今、この京都から、かっての平安京の姿を具体的にイメージすることは容易ではない。朱雀大路は外国の使節を迎える二つの鴻臚館(こうろかん)・東西の市、寺院などを有し、平安京の主要な外交・経済・宗教施設がその近辺に整えられ、ていた。朱雀大路が南北の都市軸とすると、東西の都市軸として、幅十七丈(約51m)の二条大路があげられる。この大路は大内裏の南端を画するものであり、同時に京の南北を区分するものであったらしい。つまり、二条大路以北は大内裏と諸官衛(しょかんが)、それに、雑色人などが集団住居する「厨町」や上層貴族の居住地域が広がり、一方の二条大路以南は一般貴族、官人ならびに都市住民の「京戸」の居住地域と言うように、基本的な施設配置がなされていたようである。
現在の京都は、あの、応仁の乱後大きく変貌を遂げている。今では、東西南北に走る通りに平安京の道路割りが継承されている点に昔が偲ばれる程度という。
平安京の入口、羅城門は東寺の西方にあったが、そこから朱雀大路が北へ延びその北端が平安宮の大内裏だった。現在は千本丸太町の児童公園内に大極殿遺跡の石碑が立つのみで、遷都当時の平安宮の面影をしのぶものはなく、平安京のメインストリートの朱雀大路も千本通と名を変えている。
「みやこ」と言う意味の一般名詞である「京都」が平安京において初めて固有名詞(地名)化したしたのも、都市としての生命力の長さによるものだろう。そして、京都が都市としての発展を遂げると同時に、農村との構造的な分離を進めることともなったが・・。今までの大陸文化との長い接触の中から、ようやく、日本独特の倭風文化が作り出され始めたといえるだろう。日本の都・京都には、この長い歴史の中で培われた日本独特の文化が根付いている。やはり、京都は、今でも日本文化の中心都市である。これからの季節、秋の紅葉見物を兼ねての観光もいいね~。
(画像は、平安神宮・応天門)
参考:
平安神宮公式サイト
http://www.heianjingu.or.jp/
風水都市京都/桓武天皇が恐れたもの
http://www.ley-line.net/motoise/motoise_07.html
短命の長岡京の謎
http://www.ne.jp/asahi/kiwameru/kyo/nazo6.htm