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100のエッセイ・第10期・11 「けろっとしている」

2014-12-05 11:36:21 | 100のエッセイ・第10期

11 「けろっとしている」

2014.12.5


 

 「ぼくの切抜帖」でも取り上げたが、荒川洋治の次の文章には、いたく共感した。もう一度引用しておく。

高校のとき、よく図書館でそういう人を見かけた。たいていは女の子で、ともかくたいへんな量を読んでいくのである。「失われた時を求めて」は読むわ「ジャン・クリストフ」は読むわ「魔の山」は読むわ。「夜明け前」は読むわ。そしてけろっとしているのだ。えらい人だと思うけれど、こういう人は学校を出たら突然読書と無縁になり読書そのものから「卒業」してしまうことが多い。むしろ、あれも読まない、これも読まないという人のほうが、そのあとも気になるので「晴れない」気持ちをかかえながら、読書の世界にへばりついていき、おとなになっても書物とつながっていくのだ。そういう例は多い

 これのどこにもっとも共感したかというと、「けろっとしている」という表現である。絶妙である。

 この「けろっとしている」というのは「けろりとしている」ともいうわけだが、この「けろり」は、辞書には、(1)何事もなかったように平然としているさま。「ミスをした当人が──としている」(2)跡形もなく消えてなくなるさま。すっかり。「痛みが──ととれる」「──と約束を忘れる」(デジタル大辞泉)と説明がある。ちなみに「日本国語大辞典」では、(1)何事もなかったように平然としているさま、また、図々しいくらい平気なさまを表わす語。けろけろ。(2)状態が前とすっかり変わったりするさまを表わす語。けろけろ。(3)こだわりのない明るいさま、また、曇っていた空などが明るく晴れわたるさまを表わす語。けろけろ。となっていて、(2)は、大辞泉とはニュアンスが異なり、また(3)が大辞泉にはない説明で興味深いが、それよりも、いちいち「けろけろ」という言い換えが出てくるのが、何だ、辞書のクセにふざけてるのかと気になってよく見ると、そうでもなくて、(1)の用例では、*初稿・エロ事師たち〔1963〕〈野坂昭如〉二「やがて、どんなに威張っとる男でも、いわれるままにケロケロと服を脱ぎ」というのが挙げられており、けっこう最近(いや、もう50年も前。最近とは言えないなあ。)まで使われていたことになる。ちょっと驚く。今ではこの「けろけろ」はまず使わない。ぼくも、あんまり使った記憶がない。

 ま、それはそれとして、「けろっとしている」はよく使う。こっちが本題。

 つまり荒川が言うのは、女の子が、「失われた時を求めて」「ジャン・クリストフ」「魔の山」「夜明け前」といった古典ともいうべき長編小説を片っ端から読破して、それでいて「けろっとしている」というのである。つまり、そんなに膨大な本を読んだにもかかわらず、「何ごともなかったように平然としている。」あるいは、「それを読んだ形跡がすっかり消えてなくなっている。」というのである。もちろん、日本国語大辞典の(2)のような意味で使っているわけではない。

 そういう背景には、それほどの大長編を「読んだ」からには、すっかり、とは言わないまでも、多少は人格が変わっているはずだ、あるいは影響を受けて前とはちょっと変わってもおかしくない、という荒川の思いこみがあるのだろう。それなのに、「失われた時を求めて」を読んでも、「魔の山」を読んでも、「けろっとしている」。それがフシギでならなかったということだろう。

 「えらい人だとは思うけれど」とフォローしているが、口の悪い人間なら、「何だ、それじゃ、読んだ意味ねえじゃねえか。」って言うところだ。少なくとも、ぼくなら口に出して言わないまでも、心の中で言うだろう。

 そういう友人がいた。小学校の同級生で、中学受験のとき一緒に小さな私塾で勉強した。やたら将棋の強いヤツで、先生が来る前にときどき将棋をさしたが、ぼくは何もしないうちに負けていた。3分とかからなかった。ぼくは呆然として、以後二度と将棋をさしたことがない。

 彼は、ぼくとは違う中学へ行ったので、その後はつき合いもなかったのだが、高校のとき、近所なので、ばったり会った。彼の家は、新聞の販売店と本屋を兼ねていたように思うのだが、たぶん、その本屋へぼくが立ち寄った時だったのだろう。そこの本棚に並んでいた中央公論社から当時出ていた「世界の名著」(全81巻)に話題が及んだとき、彼は、「ああ、これ全部読んだよ。」とこともなげに言ったのだ。このときの衝撃をいまだに忘れられない。衝撃というのは、まさに衝撃で、感動ではない。「それって、いったいどういうことなの?」っていう衝撃だった。その衝撃はまさに彼の「けろっとしている」としか言いようのない態度(というか、存在、というか、人間のありかたというか……。)から来ていたのだと、この荒川の文章を読んで納得したのだった。初めてその「衝撃」の正体に、言葉を与えられたと言う思いだ。

 もともと理系で、生物学者たらんと思っていたぼくは、文学とは縁遠く、高校も2年生になって、文学部へ行こうなどと思ったものだから、それこそ何か読めば「けろっと」なんてしていられなかった。読む度に、影響を受け、ものの見方、感じ方までもが、どんどん変わっていった。周囲の文学青年からバカにされようと、堀辰雄の「風立ちぬ」を繰り返し読み、冒頭の数頁はほとんど暗記できたし、「星の王子様」に至っては、ぼくの人生観の根底を築いてしまったような気がする。

 ぼくが、あの時代、もし「世界の名著」全81巻を「全部」読んだとしたら、81回も人生観を変えなければならなかっただろう。そう思うとオソロシイが、そんなことぼくにはできるはずもなかったのだから、今更オソロシがることもないわけだ。

 ぼくには「読みさし」の本が山ほどあるから、いまだに「気が晴れず」、本にしがみついているうちに、ずいぶん歳をとった。それでも、山ほどある「読みさし」の本は、今でも少しずつ、幸福を与えてくれている、ように思われる。




  ■本日の蔵出しエッセイ 演算速度(3/99)

この「けろっとしている」友人が出てきます。

それにしても、この頃のコンピュータからすれば

今のコンピュータは夢の領域ですね。 


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ぼくの切抜帖 4 マルセル・プルースト「失われた時を求めて」★朗読

2014-12-05 09:52:17 | ぼくの切抜帖

 母は忠実な読手ではなかったかもしれないが、彼女が真の感情の格調を見出したような作品についていえば、その敬意をこめた、気どらない解釈、その美しい、やさしい声調のために、すばらしい読手であった。実生活で、彼女の情感や感嘆をそのようにそそるものが、人間であって、芸術作品ではない場合でも、彼女がいかにつつましく、その声、その身ぶり、その言葉遣から、たとえばかつて子供を失った母親の胸を痛めるような陽気さとか、老人にその高齢を考えさせるような誕生日や記念日のききかたとか、若い学者に味気なく思わせるような世帯話とかを、遠ざけようとしているかを見ると、胸を打たれるものがあった。

 彼女がジョルジュ・サンドの散文を読むときも同様であって、その散文はつねに善良さ、道徳的卓越をあらわし、そうしたものをママは人生で何よりもすぐれたものと見なすように祖母から教えられていたのであったが──私が母に、書物のなかではそうしたものをおなじように何よりもすぐれたものと見なすわけにはいかないと教えることになったのは、ずいぶんあとになってからでしかなかったが──そうしたジョルジュ・サンドの散文を読むとき、母は、やってくる力強い波を受けいれずにせきとめるようなどんな偏狭さも、どんな気取も、すべて自分の声から除きさるように注意しながら、彼女の声のために書かれたように思われる文章、いわば彼女の感受性の音域に全部はいってしまう文章に、それが要求する自然な愛情のすべて、ゆたかなやさしさのすべてを傾けるのであった。彼女はそうした文章が必要とする調子にうまくその文章を乗せるために、その文章に先だって存在しその文章を作者の内部でととのえたが書かれた語には示されていない作者の心の格調といったものを見つけだすのであった、そうした格調のおかげで、彼女は読んでゆく途中に出てくる動詞の時制のどんな生硬さをもやわらげ、半過去と定過去には、善良さのなかにある甘美さ、愛情のなかにある憂愁をあたえ、おわろうとする文章をはじまろうとする文章のほうにみちびき、さまざまな音節の進度をあるときは早め、あるときはゆるめ、それらの音の長短が異なるにもかかわらず、それらを斉一な律動のなかに入れ、じつにありふれた散文に、感情のこもった、持続的な一種の生命を吹きこむのであった。

★マルセル・プルースト「失われた時を求めて 第1巻」p70 井上究一郎訳・ちくま文庫


 



 「わたし」が母に本を読んでもらう場面。「読み聞かせ」ということがよく言われるが、ここではそういうレベルを超えている。「朗読」(あるいは「音読」)というものが、ヨーロッパ(あるいはフランス)ではいかに深い伝統に根づいたものなのかが深く納得される。





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