生徒中学や高校の国語の先生だって、(「失われた時を求めて」を)おそらく読み切った人はそんなにいないと思うが、実は、生徒のなかにこれを読み切ってしまう人が学校に一人くらいはいるものである。
高校のとき、よく図書館でそういう人を見かけた。たいていは女の子で、ともかくたいへんな量を読んでいくのである。「失われた時を求めて」は読むわ「ジャン・クリストフ」は読むわ「魔の山」は読むわ。「夜明け前」は読むわ。そしてけろっとしているのだ。えらい人だと思うけれど、こういう人は学校を出たら突然読書と無縁になり読書そのものから「卒業」してしまうことが多い。むしろ、あれも読まない、これも読まないという人のほうが、そのあとも気になるので「晴れない」気持ちをかかえながら、読書の世界にへばりついていき、おとなになっても書物とつながっていくのだ。そういう例は多い。
読書は一時のものではない。いつまでもつづくところに、よさがある。「読まない」ことをつづけることにも意味があるのだ。読書を「失わない」ことがたいせつである。
★荒川洋治「忘れられる過去」みすず書房・2003/朝日文庫・2011
ここを読むと、すごく救われる気持ちになる。ぼくも、荒川が本文で書いているとおり、プルーストの「失われた時を求めて」は、何度も通読を志して読んできたのだが、「第一巻の最初の九〇頁あたりまでは何回も行き来するが、そこから先へ行かない。」のだ。言ってみれば「須磨源氏」のようなものなのだろうか。
何でもかんでも読んでしまって「けろっとしている」人をぼくも知っている。男だけど。小学校の同級生だったが、高校生になって久しぶりに会ったとき、当時中央公論社からでていた「世界の名著」(たぶん80巻ぐらいあったんじゃないかな)を「全部読んだ」と言ったのだ。そして荒川が言うように「けろっとしている」のだった。あれは、ほんとにびっくりした。彼はその後医者になったようだが、それ以来一度も会っていない。彼は今、読書しているだろうか。
かれのことは、まあ、どうでもよい。ぼくが「晴れない」気持ちを抱えていることは確かで、「読書」を失っていないことも、確かである。
荒川洋治は、ぼくと同い年の詩人。この人の書くものが、いちばん、ぼくにはぴったりくる。珍しく「朝日文庫」に入ったので、是非ご一読を。