運命にしたがふ如くつぎつぎに山の小鳥は峡(かひ)をいでくる
斎藤茂吉「白き山」
運命にしたがふ如くつぎつぎに山の小鳥は峡(かひ)をいでくる
斎藤茂吉「白き山」
最上川の流のうへに浮びゆけ行方なきわれのこころの貧困
斎藤茂吉「白き山」
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昭和22年の作。
「われのこころの貧困」とは、
いったいどのような「貧困」だったのだろうと思ってしまいます。
日暮道遠(日暮れて、道遠し)
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意味は、「年をとったのに目的はまだなかなか達せられないこと、
また、期限は迫っているのに物事がまだまだできあがっていないことのたとえ。」
(日本国語大辞典)
別に焦っているつもりはないのですが
50歳を過ぎたあたりから、
いつも、この言葉が耳の奥で響いています。
失われた時を求めて
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読書中なので。
こんな感じかなあ。
写真は三渓園での撮影です。
もう1枚。
私はケルト人の信仰をいかにももっともだと思う、それによると、われわれが亡くした人々の魂は、何か下等物、獣とか植物とか無生物とかのなかに囚われていて、われわれがその木のそばを通りかかったり、そうした魂がとじこめられている物を手に入れたりする日、けっして多くの人々には到来することのないそのような日にめぐりあうまでは、われわれにとってはなるほど失われたものである。ところがそんな日がくると、亡くなった人々の魂はふるえ、われわれを呼ぶ、そしてわれわれがその声をききわけると、たちまち呪縛は解かれる。われわれによって解放された魂は、死にうちかったのであって、ふたたび帰ってきてわれわれとともに生きるのである。
われわれの過去もまたそのようなものである。過去を喚起しようとつとめるのは空しい労力であり、われわれの理知のあらゆる努力はむだである。過去は理知の領域のそと、そのカのおよばないところで、何か思いがけない物質のなかに(そんな物質があたえてくれるであろう感覚のなかに)かくされている。その物質に、われわれが死ぬよりまえに出会うか、または出会わないかは、偶然によるのである。
★マルセル・プルースト「失われた時を求めて 第1巻」p73 井上究一郎訳・ちくま文庫