それからまた、そとのすばらしい光の感覚は、私の目のまえで、小さな楽団を組んで、夏の室内楽のようなものを演奏している蝿たちによってしかつたえられないこともあった、この蝿の音楽は、人間がうたう音楽の一節──好季節に偶然きいたのが、つぎにきくときにその好季節を思いださせる──のように光の感覚を呼びおこすのではなくて、もっと必然的な一つの絆で夏にむすびついていて、快晴の日々から生まれ、そうした日々とともにしかふたたび生まれることはなく、そうした日々の本質の少量をふくんでいるのであって、われわれの記憶に単に夏の映像を呼びさますだけではなく、夏が帰ってきたことを、夏が実際に目のまえにあって、あたりをとりまき、直接に近づきうることを確証するものなのである。
★マルセル・プルースト「失われた時を求めて 第1巻」p138 井上究一郎訳・ちくま文庫