憶えば53年前の昭和34年4月25日、午前4時54分、脈を取っていた私の示指中指から、父の脈拍が静かに消え去っていった。一年間の臥床の末であった。34年間愛育されて恩返しもしない侭の死去が、今悔やまれてならない。激動の一生であったと感じている。日支事変、大東亜戦争、終戦と続き、国内的には、穏やかで平和な時代背景ながらも、二つの戦争をその間9年間経験し、経過していった時代であった。内田屋旅館、羽生市の内田屋旅館支店、長養舎牧場の経営に、相当の努力苦労をしたものであろう。陸海軍諸官衙指定旅館の指定取得や、町内3名筆跡と詠われた墨跡は、太字の大木、細字(草書)の峰岸、楷書の内田玉吉として、町中で評価されていた。その他、不動岡町は行政上当時1区から4区に分たれ、その第1区長としての采配は、町民から尊敬されていたようである。
小学校の卒業式に出席して、私の卒業生代表答辞を聞きながら、来賓として暖かく見守り、眼差しを注いでくれていたことを昨日の事のように、はっきり思い出している。そのように考えてくると、亡き父は、その時代の颯爽たる町民代表の快男児であったような気がしてならない。年月の経過と共に父への敬慕の年は深まるばかりである。果たせるなら、今一度、ここで向き合って会話を交わしたい気持ちで一杯である。
今日は奇しくも、楠木正成の誕生日である。神戸市で講演の折り、市内の湊川神社に参拝したことを思い出した。また10余年前、大阪富田林市四條畷の、正成生誕の地を訪問し、将又、吉野の金峰山寺の正行の鏃の筆跡など、歴史探索をしたことを憶い出し、感概無量今でも想いは深く、胸を打つものがある。
最近探し物をしている時、娘の小さい時の迷子札を発見した。その裏表を撮ったものである。これまた55年位前の時代物である。
小学校の卒業式に出席して、私の卒業生代表答辞を聞きながら、来賓として暖かく見守り、眼差しを注いでくれていたことを昨日の事のように、はっきり思い出している。そのように考えてくると、亡き父は、その時代の颯爽たる町民代表の快男児であったような気がしてならない。年月の経過と共に父への敬慕の年は深まるばかりである。果たせるなら、今一度、ここで向き合って会話を交わしたい気持ちで一杯である。
今日は奇しくも、楠木正成の誕生日である。神戸市で講演の折り、市内の湊川神社に参拝したことを思い出した。また10余年前、大阪富田林市四條畷の、正成生誕の地を訪問し、将又、吉野の金峰山寺の正行の鏃の筆跡など、歴史探索をしたことを憶い出し、感概無量今でも想いは深く、胸を打つものがある。
最近探し物をしている時、娘の小さい時の迷子札を発見した。その裏表を撮ったものである。これまた55年位前の時代物である。