夢地蔵

田舎の映像作家の備忘録

納得のいく写真

2022-06-13 06:00:31 | Weblog
このところ、水彩画の素材をテーマにコンセプトは田舎の風景で写真を撮る日々です。
一昨日のこと、前から意識していた小さな小屋を撮って、一部納得がいかず昨日改めて撮り直しました。

昔は農産物を売っていたらしい木造の小屋で、絶妙な位置に大木があって空模様は薄曇りの半逆光。
今は放置された小屋がまるで私のためにあつらえたように自己主張していました。
小屋の右上には広い道路が出来て農産物の店と蕎麦屋があり、車の通りも激しいのですがこの一角は全く別の空間です。

この写真で面白いのが左の大木、欅でしょうか、こちらに伸びている太い枝です。
絵画の世界は詳しくありませんがこんな表現は少なくて樹木の枝は左右に描いてしまう傾向がありませんか。
この情景に出会った時、瞬間的に惹かれたのはしっかり自己主張している枝によるものでした。
この写真で奥の小屋は脇の大木を引き立てる添え物に過ぎないといえます。
一見整いすぎた静物としての写真ですが面白いのが撮れたものです。

水彩色鉛筆で素描きしたこれですが、


実際の風景はこれです。

軽トラが写真に時間の要素を加えています。

ここで考えたのですが、絵画や写真の視点って、いったい何なんでしょう。
普通の考え方では「その物が一番立体的に見えるように」なのでしょうか。
試しに同じ場所で撮った他の写真を並べてみましょう。

これは小屋そのものをテーマに撮りました。

望遠で引っ張ったんじゃありません。

脇の道と奥の丘を入れると、

不思議な奥行き感です。

立ち居地をこちらに変えてみました。

これがどんな所なのかが見えてきます。

ほぼ同じ位置ですが曇っていると印象はまるで違います。

私的にはこれは眠くて印象が薄いので嫌い。

へそ曲がりな私は考えます。
絵画も写真も結果的に「一番都合のいい」ところを写し取ることになっているんじゃないか。
逆に見れば不都合は徹底的に排除しているんじゃないか。

映像ならカット割りで様々な方向、アングルで表現することが簡単ですが、それじゃあ一過性になってしまいます。
ではどうすればひとつ脱皮した表現ができるか、面倒なことを考え始めたものです。
コメント
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