庭の花たちと野の花散策記

山野草と梅が大好きの「雑草」。花以外は思考不可の植物人間の庭の花と野の花散策記です。

家乃風伊萬母 薫理乃都伎 努爾存不美 古能武 起乃佐可 梨知良流々

2016年02月17日 | 偕楽園
偕楽園の東隣に水戸の2代藩主光圀公(義公)と9代藩主斉昭公(烈公)をまつった常磐神社の宝物を展示した義烈館があります。その義烈館の前の梅の木を浪華の梅といいます。
ちょうど花が咲いていました。
浪華の梅義烈館前1602160065浪華の梅義烈館前1602160065 posted by (C)雑草
下の画像は浪華の梅の木です。
浪華の梅浪華の梅 posted by (C)雑草
その浪華の梅の木の近くに石碑があって、タイトルに書いた漢字が書いてあります。
浪華の梅義烈館前1602160069浪華の梅義烈館前1602160069 posted by (C)雑草
家乃風伊萬母   薫理乃都伎  努爾存不美 古能武 起乃佐可 梨知良流々
いえのかぜいまも かおりのつき ぬにぞふみ このむ きのさか りしらるる
家の風今も    薫りのつき  ぬにぞ 文 好む  木の 盛 りしらるる
と読むそうです。
説明板の概略は、
水戸光圀公が好文木と言われる梅を浪華宮から取り寄せて大日本史編纂所の彰考館の庭に植えたいきさつ。
明治の初め、この浪華の梅が絶え失せぬよう常磐神社創建時に彰考館から移し植えたこと。
この和歌は烈公が水戸の精神、家風を詠んだもので、彰考館の柱に書き付けたものであること。
のちに最後の将軍慶喜公(烈公の三男)が揮蒙されたこと。
この碑の経緯は碑陰に大日本史を完成させた栗田寛の撰文が刻まれていることなどが記されています。

以下はいくつかの資料から得られた、難波の梅についての雑草の考えです。
 光圀公は大日本史を編纂するために、優れた学者を招いて、編纂所である彰考館をつくり、そこに文を好むという梅の木を植えた。その梅の苗、あるいは実は、仁徳天皇の皇居であった難波高津宮から取り寄せた。
 
難波宮と梅のかかわり
応神天皇には二人の皇子がいて、弟君を皇太子ときめた。天皇崩御のあと、皇太子は私は弟で、兄君こそ天皇に即位するにふさわしいと辞退された。一方兄は父が弟君を皇太子と定めたのだっから、弟君に1日も早く皇位につくべきとすすめた。こうして兄弟互いに譲らず3年が過ぎた。弟は自分がいたのでは兄君は即位しないだろうと考えて自害するも、なお兄は弟の死を悲しむも、即位しようとせずにいた。そこで朝廷に仕えていた百済の王仁という人が一首を兄君へおくった。
   難波津に咲くや木の花冬ごもり、今は春べと咲くや木の花
木(こ)の花は梅の花のことで、「花の咲く時期が来て梅が咲いているように、今はその時です。天皇に即位してください。」という意味で、これにより兄は難波高津宮に即位し、仁徳天皇となられたそうです。

光圀公と梅のかかわり
この兄弟の譲り合いにいたく感動したのが水戸家三男の光圀公でした。弟でありながら、兄松平頼重公を越えて二代藩主となっていたので、家督の譲り合いに関心があったためでした。

また、光圀公を懐妊した側室お久の方は水にするよう命ぜられたが、重臣三木仁兵衛之次の取り計らいで三木家で出産。お久の方は光圀公誕生前に三木家の庭に梅の実を播いた。光圀公は41歳のときに旧三木家屋敷を訪ね、母を偲んで「誕生梅」と名付けた。さらに70歳ころ旧三木屋敷を訪れ詠んだ歌。
   朽ち残る老い木の梅も此の宿の春にふたたびあふぞ嬉しき
この歌の碑は光圀公誕生の地にあります。
この梅は座論梅らしく、光圀公死後、三代藩主が墓所瑞龍山に移したそうです。

このように梅を深くおもう光圀公は、大日本史編纂の戒めとして、
  好文則梅開       廃学則梅不開
  文を好めば則ち梅開き  学を廃すれば則ち梅開かず
という中国の故事を参考にして、難波宮の梅を取り寄せて、彰考館の庭に植えたのでした。
大日本史は水戸家代々の藩主によって編纂事業が続けられて、明治になってから完成しました。大日本史編纂所は何回か移転して、完成したときの場所は、千波湖から偕楽橋で東門側へ渡ったところで、現在は大日本史完成の地という碑があります。
八重寒紅 大日本史1602150092八重寒紅 大日本史1602150092 posted by (C)雑草

浪華の梅の品種について
まずは現在咲いている浪華の梅の花です。
浪華の梅義烈館前1602160066浪華の梅義烈館前1602160066 posted by (C)雑草
うすい紅色です。後ろから見た花弁は細くて花弁のあいだに隙間があります。
浪華の梅義烈館前1602160067浪華の梅義烈館前1602160067 posted by (C)雑草
この写真では品種名はわかりません。偕楽園で薄紅で花弁が細い花と言えば烈公梅が似ています。烈公梅に似るも別の新しい品種かもしれません。でも私の目には違いが判りません。下は好文亭料金所の烈公梅です。
好文亭入口の烈公梅好文亭入口の烈公梅 posted by (C)雑草
烈公梅は弘道館の裏手、もとは孔子廟近くにあったそうです。彰考館が二の丸から弘道館へ移転したときに、難波の梅も一緒に弘道館へ移植されたと考えられますので、浪華の梅=烈公梅の可能性もあるかもしれませんね。専門家に見ていただきたいです。

光圀公が植えた浪華梅
光圀公が他藩などから取り寄せた「禽獣草本」が収録されている本には「難波早梅」との名があり、「咲くやこのはな冬籠りとよみし梅」と注釈されているので、浪華梅はこの「難波早梅」ではないかと推定されます。これがどのような梅かはわかりません。
一説には、白梅の八重咲きの白難波が、早咲きで名前も同じことから、浪華の梅と推定できるということですが、現に咲いているのは一重の紅花です。

9代藩主烈公が初めて水戸に来たのは1833年でした。この時に彰考館総裁から、この梅は光圀公が手ずから植えた浪華梅です。昔はたくさん花をつけたが、今は老木となって花が少ない。今日はあいにく散ってしまったと説明したそうです。
これを聞いて、烈公が詠んだ歌が冒頭の詩でした。
この彰考館は水戸城二の丸にありましたが、明治になって、三の丸弘道館、柵町の中御殿、偕楽園東南部、さらに偕楽園の南崖の大日本史完成の地に移転しました。浪華梅はおそらく水戸城内に移転せずにあったのを常磐神社境内に移され、その後枯れたがひこばえが育ったということです。
最初の浪華梅が八重の白梅で、現在の浪華の梅が一重の紅梅であるということは、
ひこばえは枝変わりしたのかとか、
元の木は接ぎ木でひこばえは元の木から芽生えたものとか、
ひこばえではなく別品種の梅を植えたとか、
最初から白梅ではなく紅梅であったとかいろいろなことが考えられますが真相は謎です。