マチンガのノート

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中動態の世界 意志と責任の考古学 國分功一郎

2017-05-08 06:17:10 | 日記
 様々な実際の行為というのは強制か自発かで割り切れるものではなく、
「昼食にはラーメンを食べたいが、友達がソバにしようと言うので、仕方なくソバにする」
「子供が泣きわめくので仕方なくお菓子を買ってやる」
「給料がほしいので仕方なく働く」
「銃身を突きつけられたので仕方なく便所掃除をする」
などがあるとのこと。
強制はないが自発的でもなく、自発的でもないが同意している、
という自体は日常にあふれている。
それが見えにくいのは、能動か受動かという対立で物事を眺めているからだとのこと。
疑問を感じているのに同意するという非自発的同意を行為の一類型として認めなければ、
何事も「あなたが進んで結んだ同意」とされ、様々なハラスメントに繋がる。
受動と能動を対立させる言語は様々な要素からなる出来事を
「この行為は誰のものか?」と問う。
言語に中動態が失われ、能動態と受動態に別れたことにより、行為者を確定するだけでなく、
行為を行為者に帰属させる方向に向かったとのこと。
行為の帰属を問う言語が、その帰属先として要求するのが意志とのこと。
 子供の時から好き嫌いを尋ねられる、選択の幅を与えれれる、などがないと、
本人の自己感や主体と言うものは生成されず、自らの意志と言うものも
持ち得ないのだろう。