立山日和。

立山連峰の山々を眺め富山県内を徘徊する日々を綴ったフォト日記。2014.11.3.までは友人の中国旅を毎日掲載した。

扇状地の傾斜3・・・立山町

2010年10月12日 | Zenblog
扇状地上部の屋敷林の一定の距離を置いた点在ぶりは、農家が密集したある窮屈さから解放されていて、余裕を感じさせます。しかし、それが富山人の寡黙の原因かもしれないなどと、勘ぐっています。

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扇状地の傾斜2・・・立山町

2010年10月12日 | Zenblog
田んぼの中の道を上に向かうと、右・左と屋敷林がどんどん階段を上るように、リズミカルに高くなっていきます。立山の上の方は曇っていて見えません。

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扇状地の傾斜・・・立山町

2010年10月12日 | Zenblog
海べりから、南の山に向かってまっすぐに上っていくと、上に行くほど扇状地の傾斜が大きくなります。立山町のずっと南寄りに一直線に向かうと、平野や海を上から見下ろす感じになります。この傾斜は、日常生活のなかではなかな厳しいのではないかと想像しました。

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柿の輝きも・・・

2010年10月12日 | Zenblog
食べる対象としては冷遇されていますが、秋の景観には欠かすことができません。柿のつやのある色は、秋の豊かさのシンボルのようなものです。

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気分明るくコスモス畑

2010年10月12日 | Zenblog
立山は見えず、やや空気も蒸し暑く、気分はうっとうしい。そんなとき、コスモス畑に出会うと、少し気分が救われます。咲き方が乱れていても明るさをふりまいてくれます。

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五女山上から桓仁市街を望む・・・JingShangの遼寧桓仁への旅

2010年10月12日 | JingShang君からの上海レポート
5枚目の写真は山上から桓仁市街を撮ったものです。ダムを出た水が流れる渾江(こんこう)が逆S字状に流れています。この逆Sの中の上半分が桓仁の市街地です。渾江の海抜は197mだそうですから、この川と五女山山頂との海抜差は623mもあります。

ダムは1968年に完工したそうです。湖底には調査しないままの高句麗遺跡が眠っているそうです。先のトロッコ云々とこのダムの話は日本語ネットで検索した「高句麗いにしえの地を訪ねて」という社団法人高句麗研究会という組織のレポートから引用しました。
このレポートは1990年から93年にかけて集安、桓仁を調査したレポートのようです。当時の遺跡の保存状態等は現在とは異なる状況も伝えています。集 安の古墳で、私は写真撮影を禁じられた石室内の壁画写真等も出ています。
をクリックするとその(1)がでます。(11)まで ありますが、お時間あればご覧下さい。

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山上部分の高句麗遺構・広さ・・・JingShangの遼寧桓仁への旅

2010年10月12日 | JingShang君からの上海レポート
 4枚目の写真は、山上部分にある高句麗の遺構です。比較的大きな建物とのことです。

 五女山の名前の由来を調べていて、山上部分の大きさが判りました。主峰の海抜は820m、南北長さは1500m、東西幅は300m、崖壁の垂直高度は200余mとあります。昔は山上に放送タワーがあって、そこまでトロッコで行けたそうです。今は撤去されているようです。

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「五女山」由来談義について・・・JingShangの遼寧桓仁への旅

2010年10月12日 | JingShang君からの上海レポート
 3枚目の写真は、その垂直に近い崖の隙間の道です。登りきったところで振り返って撮りました。

 五女山の由来談義の続きです。ともかく、五女山という名前は高句麗が都城とした紀元前後の時代の地名でないのは明らかです。
 山上部分が全体としては角がまるくなった長方形の形をしていますが、それでも少しずつ分かれているので、それを数えて五つの女としているのかもしれません。
 また、五女というのは満州語では別の意味があるのではないかと思います。満族は「女真」と称した国を作ったこともあります。漢族の言葉に漢字の音だけ借りて使ったという可能性はないのかなと思ったりします。これは私の推測です。

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「五女山」の名前の由来(2)・・・JingShangの遼寧桓仁への旅

2010年10月12日 | JingShang君からの上海レポート
 2枚目の写真は、その直線登山道を登り、その後ほぼ垂直の崖にとりついて少し登ったところで撮ったものです。垂直の壁がずっと繋がっているように見えますが、隙間がありそこに道があります。

 五女山の由来の第二の説です。大正四年(1925年)に出版された菊田貞二著「東三省古跡遺離」の203頁に、「桓仁県北十五里に五女山あり。唐朝に五女あり、山に踞(うずくま)りて伍を為す・・・」とあるのを由来にあげています。これの方がもっともらしいですが、日本人の説です。誰に聞いたのか明らかではありません。

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「五女山」の名前の由来(1)・・・JingShangの遼寧桓仁への旅

2010年10月12日 | JingShang君からの上海レポート
 今朝の上海は薄曇りです。天気予報では小雨、最高気温は22度です。昨日の予報も小雨でしたが、結局雨はふらなかったです。昨日の上海世博の入場者数は39万人です。日本の青年1000人の世博招待は尖閣列島事件以来中止になっていましたが、10月の会期末に再招待するようになったそうです。SMAPはもう来ないでしょうが。

 さて、今日も遼寧桓仁の五女山です。1枚目の写真は専用バスを降りた後の登山道です。一直線で登って行きます。本来ジグザグに登ったようで、この写真にその道が見えています。

 五女山の名前の由来について、お問い合わせを受けました。早速中国語インターネットで調べてみると、二つの説がありました。いずれも中国語インターネットの受け売りで、検証はしてい
ません。
 第一の説は、明朝の時代に五名の女将がこの地に駐屯していて、桓仁に襲撃があった時にはここで狼煙を上げると本渓から援軍がくることになっていたが、本渓では狼煙は見えないだろうと疑問に思い、試しに狼煙を上げると本当に援軍がきてしまい、空振りとなった。援軍がこれに怒って、本当に援軍が必要な事態の時に援軍が出ず、それで桓仁の守備兵が負けてしまったということに由来するという説です。狼少年と同じ話です。

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