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昭和歌謡の偉人たち〜【なかにし礼・岩谷時子】

2024年02月26日 06時12分01秒 | 音楽

 

2月25日BSテレ東で昭和歌謡の偉人たちとして、作詞の世界を切り拓いてきた作詞家、なかにし礼と岩谷時子に焦点を当てて特集してくれた。数々のヒット曲で歌謡界に革命を起こしたなかにし礼は、シャンソンの訳詞家から歌謡曲の作詩家に転身。その転身のキッカケは、25才の時、新婚旅行で出かけた伊豆のホテルで偶然石原裕次郎に出会ったことという話は有名である。しばらくして、なかにしは、初めてオリジナルの詩を書き、メロディーも自らつけ、裕次郎の元に届けた。曲は「涙と雨にぬれて」。すると、石原プロ所属の歌手、裕圭子が歌いレコード発売されることになった。さらに、シャンソン喫茶「銀巴里」で顔見知りだった田代美代子がお祝いにマヒナスターズとカバーしてくれ、ヒット曲になったという。この話は彼の講演会の時にも本人から聞いていたので、よく覚えている。また、裕圭子という歌手も因縁があって、高校時代、ラジオの音楽番組に彼女の「だから愛して」という曲をリクエストして取り上げてもらったことがある。1度しか投書したことがないのにそれが採用されたので、深い縁を感じていた。田代みどりも大好きな歌手だったので、妙な縁を感じる。また、病に倒れていた裕次郎から人生の曲を書いてほしいと頼まれ、出来たのが「我が人生に悔いなし」で、大好きな曲で人生の座右の銘にしている。彼の作品はヒット曲ばかりで、好きな曲ばかりである。

 

「我が人生に悔いなし」石原裕次郎(なかにし礼作詞 加藤登紀子作曲): https://www.youtube.com/watch?v=gFdMJIOSwlE

 

なかにし礼の作品:  http://www.um3.jp/shop/g/g07277/

 

また、岩谷時子は、大学卒業後、宝塚歌劇団の機関誌の編集長を務めていたが、8歳下の劇団員で15歳の越路吹雪と出会う。2人は意気投合し、岩谷は越路の相談相手となる。越路が宝塚歌劇団を退団して歌手なると岩谷も退職しマネージャーになった。岩谷に転機が訪れたのは昭和27年、日劇のシャンソンショーに出演予定の二葉あき子が喉を痛めて休演することになり、急遽その代役に越路吹雪が抜擢された。越路が歌うのは、当時、世界でヒットしていたエディット・ピアフの「愛の讃歌」。だが、ステージで原曲のまま歌うわけにはいかず、急遽、マネージャーの岩谷が訳詞することになった。本番までわずか1日しかなく、岩谷は黛敏郎に稽古場でオルガン(ピアノ)を弾いてもらい歌詞を当てはめて行った。新たな歌詞を紡いで行った。タイトルは「愛の讃歌」。

♪あなたの燃える手で あたしを抱きしめて ただふたりだけで 生きていたいの ただ命のかぎり あたしは愛したい 命のかぎりに あなたを愛したい♪

岩谷の詩は原詞とまったく異なっていたが情熱的な愛の歌として関係者から高く評価され、やがて、越路吹雪の代表曲となった。そして、岩谷もまた、「愛の讃歌」のヒットをキッカケに作詩家としての道を歩き始めた。

彼女の作品もヒット曲ばかりで、♪恋の季節/ピンキーとキラーズ ♪恋のバカンス/ザ・ピーナッツ ♪君といつまでも/加山雄三 ♪夜明けのうた/岸洋子 ♪いいじゃないの幸せならば/佐良直美など歌謡史に残る名曲は数多い。

 

「愛の讃歌」越路吹雪(岩谷時子訳詞): https://www.youtube.com/watch?v=yxCwJ48W314

 


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